きたにひと

きたにひと
ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』讃 -私の大学(その6)-
研究業績 -私の大学(その5)-
大学教授 -私の大学(その4)-
学生 -私の大学(その3)-
大学への憧憬 -私の大学(その2)-
波止場界隈(下)
波止場界隈(上)
私の大学
すり込まれている筈の風景
蔵書整理の顛末
2003年8月根室行
「書物ばなれ」と格闘する

「きたにひと」とは何か最近考えること読書ノート日常雑記リンク

最近考えること
「書物ばなれ」と格闘する

 若者の書物ばなれが急速に進んでいる。電車の中で本を読む若者を見かけると、何を読んでいるかと、思わずのぞき込んでしまう。それほどまでに書物を読む若者は見かけなくなった。以前は漫画が主流であったが、いまでは漫画を読むものさえほとんど見かけない。携帯電話を握りしめメールに熱中するか、メールを待つ若者、化粧に夢中の若い女性がほとんどだ。この傾向は大学の教室でも同じである。教科書や参考書など買わないのが当たり前、試験近くになると、教科書を貸してほしいと教師に申し出る学生さえいる始末である。他の大学の実情は知らないが、いわゆるエリート大学でも程度の差こそあれあまり変わらないのではないかと思う。

 書物を読まなくなった学生たちにいかにして本を読ませるか、しかもよい本を選択させるか。そのために格闘するのは本当に骨が折れる仕事である。傍観者として文化的末世を嘆くのは簡単だが、現場の教師としては現状に手をこまねいているわけにはいかない。いつかはわからないが、書物文化ルネッサンスは必ず到来する。私の教育者としての仕事はあと数年だが、とにかく彼らに刺激を与え続けたいと思う。

 しかしよく観察すると、「書物ばなれ」が進んでいるのは若者たちだけではない。またそれを若者たちだけに責任を負わせることはできない。私どもの世代の「書物ばなれ」にも歯止めをかけなければならないのではないか。言論が衰弱し、言葉の力が失われているのは、私どもの世代でも同じである。若者や中年層におもねた出版企画ばかりが目につくのも、私どもの世代の読書力と執筆力の衰弱の反映であろう。若者に読ませたい本がないのは私どもの世代の責任でもある。IT技術が作り出した活字表現の多様な可能性に無関心なのも私どもの世代である。出版界、書き手、読み手、それぞれにルネッサンス到来まで生き延びる工夫が必要ではないか。

(『葦牙ジャーナル』第48号、2003年10月20日発行、「巻頭言」)

▲page top

Copyright KITANIHITO