きたにひと

きたにひと
ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』讃 -私の大学(その6)-
研究業績 -私の大学(その5)-
大学教授 -私の大学(その4)-
学生 -私の大学(その3)-
大学への憧憬 -私の大学(その2)-
波止場界隈(下)
波止場界隈(上)
私の大学
すり込まれている筈の風景
蔵書整理の顛末
2003年8月根室行
「書物ばなれ」と格闘する

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最近考えること
波止場界隈(上)-すりこまれている筈の風景(その2)-

 1931年8月24日早朝、アメリカの飛行家C・A・リンドバーク夫妻の操縦するシリウス号がニューヨークからから南京への飛行の途中、根室港内に着水した。私の生まれる4年半前のこのまちの大事件であった。このまちの国際性を示す重要事件として、いまでも語り継がれている。以下に示す2枚の写真はその時に刊行された記念絵葉書に収録されているもので、1981年に国書刊行会から「ふるさとの思い出写真集」シリーズの一冊として刊行された谷正一編『明治・大正・昭和 根室』でも紹介されている。

波止場界隈

 1枚目の写真では、歓迎のために波止場に集まった人びとが波止場の先端にカメラを置いて撮影されている。私が生まれ育った頃の波止場界隈のなつかしい建物が多く写っている。この日の気候さえも感じ取られる。不鮮明なのは写真が古いせいではない。この地方の夏に毎日のように午前中に濃霧(地元ではガスと呼んでいた)が発生する。そのせいに違いない。リンドバーク夫妻の上陸を歓迎しようと集まった群衆、警備する警察官の背後に広がる風景を凝視するとさまざまな記憶が蘇ってくる。

 右手前方にバルコニーが特徴の水上警察署の建物があり、そのすぐ後ろに看板を掲げた商店が写っている。多分食堂だったと記憶する。戦争中に食糧事情が悪化し、昆布入りそばを配給切符で食べに行列したのはこの店だったような気がする。私の家はその間の道を右に入って50メートルほどの所にあった。

 右手に写る坂道は波止場からメインストリート花咲町通りと、貿易商、海産物商、金融機関が連なる本町通と交差する。右折すると本町3丁目で、柳田本店、北海道拓殖銀行、安田銀行等の建物がならび、左折すると本町4丁目で、郵便局、海産物商の住居と店が並ぶ。波止場から続くこの坂道に名前がついていたかどうか記憶がない。無名の坂道だったと思う。波止場に続くこの坂はこのまちの玄関口であった。このまちと北方の島々で成功を願った人びとも失敗して失意の内に去る人びともここで交差した。芸人たちも巡業の力士たちもみなここから上陸し、このまちに入った。リンドバーク夫妻の歓迎のように多くの群衆ではなくとも、いつも人が集った場所であった。

 この周辺には北海道コロニアルスタイルともうべき当時としてはモダンな建物が連なっていた。函館を散策すると通りの建物の連なりに、説明のつかぬ懐かしさを感じることがあった。韓国に調査に赴いたときに全羅南道の木浦(モッポ)の海岸の通りを歩いている時も同じ懐かしさを感じたことを思い出す。すり込まれているはずの記憶が共振したのだろうか。木浦は日本が朝鮮半島を植民地として支配していた頃の貿易港であった。開発から取り残されたこのまちには日本人の建てた家屋が海岸の通りにまだ沢山残っていた。ハングル文字がなければ、北海道のあの頃のまちそのものと言ってもよい風景であった。

 坂を上りきる途中から本町3丁目の角にかけてこのまちで一番の旅館、二美喜旅館がある。写真で見るとかなり大きな建物である。このまちを訪れた、あるいはこのまちを経由して北の島々に渡っていった富裕で力のある人びとの泊まる宿であった。当時の私にとっては毎年やってくる大相撲巡業の際に横綱や大関の泊まる宿としての記憶が残っている。宿泊する関取の名前が玄関前に張り出され、玄関の中に整然と並べられた巨大な下駄の列をおそるおそる覗いていた記憶がある。照国という横綱が来たのも多分その時だったのではないか。

 このあたりには収入に応じて宿泊できる旅館が多数あった。私の家の筋向かいにあった三洋館も大きな旅館だったし、もう一軒小さな旅館があったと記憶する。また貧しい人びとに供せられる宿もあった。伊藤通船の息子とは同じ学年で仲良しだった。彼の家は私の家の筋向かいで、みすぼらしい平屋で2軒長屋の私の家とは違い、事務所も備えた2階建ての立派な建物だった。そのとなりにある簡易宿泊所は、北方諸島への交通が途絶する冬季には子どもたちの格好の遊び場所であった。使い込まれて黒光りする板の間の真ん中に大きな炉があり、周囲にはぐるりと畳一畳の小部屋が2段に作り込まれていた。

 二美喜旅館の後ろに北海道拓殖銀行根室支店の建物の一部が見える。正面には渡船会社の事務室や待合室が並び立ち、その背後に漆喰壁で2階建の水産会の建物、その右にごく最近まで残っていた大きな赤レンガ倉庫の屋根が見える(最近の地震で倒壊したという)。さらにその後ろに少しだけ見える大きな屋根は郵便局だろうか。水産会の前の坂(写真左端の坂)を下ってくると右手に税関の建物があった筈である。一番左端に移っている建物がそれだろうか。

◇◇
波止場界隈

 もう一枚の絵葉書は、リンドバーク夫妻が宿泊した二美喜旅館の玄関の前の写真である。一枚目の写真とは反対側の坂の上から撮影されている。おそらく北海道拓殖銀行二階の窓から撮影したのだろう。集まった人びとの服装から見て、午前中のガスがはれた午後で、集まった人びとの装いからみると、このまちの夏にしてはかなり気温が高かったようだ。自動車で写っている。当時の安藤石典町長がこの車で表敬訪問したのかもしれない。それにしても何と多くの人だろう。坂道が人で埋め尽くされている。私の父もこの日だけは仕事を休んで、この群衆のなかにいたに違いない。家が近くに世界的英雄がいるというのに、新しもの好きで好奇心旺盛だった父が行かなかった筈はない。

 夫妻とシリウス号の写真がはめ込まれているので波止場の風景全体を見ることが出来ないのだが、水上警察署や、この港の天然の防波堤でもあった弁天島との間に沢山の船が停泊しているのが見える。艀(はしけ)も見える。波止場とこの坂道がこのまちの玄関口でありメインストリートだったことが実感できる。このような賑わいの近くで生きたことを誇りに思う。それだけに失われたことに対する悲しみの気持ちは深くなる。


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