きたにひと

きたにひと
ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』讃 -私の大学(その6)-
研究業績 -私の大学(その5)-
大学教授 -私の大学(その4)-
学生 -私の大学(その3)-
大学への憧憬 -私の大学(その2)-
波止場界隈(下)
波止場界隈(上)
私の大学
すり込まれている筈の風景
蔵書整理の顛末
2003年8月根室行
「書物ばなれ」と格闘する

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最近考えること
波止場界隈(下)-すりこまれている筈の風景(その2)-

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 絵葉書をもう一枚示しておこう。これは先の2枚よりかなり古いもので、上述の谷正一編の写真集では大正期の風景であるとされている。坂道を下りきって私の家に曲がる角の当たりで撮影されている。波止場の前の渡船会社の建物も違うし、港内の風景が違う。私の子どもの頃にはもう見かけなくなった帆を利用した 船が多く停泊している。艀も多く写っている。私の子どもの頃には岸壁が整備されて波止場は荷揚げの場所としてはほとんど利用されていなかったなかったよう に思われる。艀は倉庫のある岸壁で直接荷の積み下しをしていたと思う。

根室港内

 この写真を凝視していると、わたしはあの場所の特有の喧噪さと匂いを思い出す。これ以上は積めないほどの荷駄を積んで走る馬車、あまりの荷の重さで泥濘 に車をとられてあえぐ馬、馬を叱咤して手綱を操る博労たちのだみ声が想い出される。日本一遅い春が来て根雪が溶け、ようやく凍土が溶け始める。道はぬかる みそのものになる。子どもたちには、そのぬかるみは底なし沼にも思われた。この地域は子どもにとって密かな栄養源でもあった。昆布、ホタテ、エビ、カニ、 鱈の干物、どれも中国への輸出商品であった。空腹を感じたらその辺の倉庫に忍び込むか、あるいは通りかかった馬車の荷駄から少々頂戴したらよかった。

 港内に停泊する船の多いことには驚かされる。多くの輸出商品は北方の島々から運び込まれて、ここで外航船に積み替えられた。かってこの港は北前船の寄港 地であった。この地の物産は「内地」に運ばれ、「内地」の富に転化した。私の子どもの頃にはその富の一部はこのまちに残されていたのである。

 汽船の他に多くの機帆船が停泊している。補助推進機関としてエンジンを備えたこの種の帆船を見た記憶はない。ただ私の家と親戚同様に親しい付き合いの あったDさんのことを「機帆船の機関長」といつも呼んでいた。停泊しているDさんの船を見に出かけた記憶がある。小さな焼き玉エンジンを備えた船だった。 油まみれでエンジンの整備をしている光景に気を取られて、小さな私の目に帆が焼き付かなかったのかもしれない。『日本百科全書』を引いてみると、1960 年代までは沿岸航路で活躍していたというが、私は見たことがない。

◇◇◇◇
 汽船の船員がボートに乗せてくれて船の中を案内してくれたことを記憶している。船内の絨毯を引いたサロンや船室は、木造の古い家しか知らない私にとって 印象は強烈であった。1954年9月に北海道をおそった台風15号、いわゆる洞爺丸台風で青函連絡船で使用されていた多数の貨客船が沈没した。そのため急 きょ、宇高連絡船で使用されていた客船を転用した。その年の12月の帰省の折、瀬戸内海の穏やかな海を航行していた沈没して洞爺丸とは比較にならない小さ な客船の船内で私は表現しがたい懐かしさを覚えたものだった。

 これらの絵葉書に写っている船はすべて軍に徴用され、アメリカ軍の攻撃で日本のどこかで海の藻屑となったに違いない。7月15日には私のまちの港内に2 積の汽船が停泊していた。どちらも撃沈され乗客、船員のほとんどが船と運命をともにした。『根室空襲』(根室空襲研究会、1993年3月)によると、東裕 丸(貨物船)と浦河丸(客船)の2隻である。とくに浦河丸の犠牲者は東北出身の出稼ぎ労働者で、100人を超えた。犠牲者たちのほとんどは、引き上げられ ることもなく今も海底に眠っている。私が汽船に招き入れられたのは空襲の年、あるいは空襲の直前のことであったかもしれない。そうであるとすれば、あの親 切な船員もいまも根室海峡の海底に眠っている。

 私のまちへの空襲は実際には7月14日から始まっていた。この日の攻撃は港湾と軍事施設、船舶に向けられたように思う。港内に停泊した2隻に対する攻撃 を目撃したような気がしないでもない。投下された爆弾による水柱が立つ、文字通り絵のような風景が記憶にある。しかしこれは、人に聞いた話が子どもの頃に 見た多数の戦争画の印象と重なって作られた錯覚であろう。警戒警報のサイレンとともに防空壕に駆け込んだ筈だから、波止場まで走っていって見た筈はない。 ただ、15日早朝、空襲警報とともに防空壕に駆け込んでから、午前8時頃に向かいの三洋館裏からの出火したとの知らせで防空壕を脱出するまでの間、私は防 空壕の上から海上に展開する徴用船と木造軍艦がグラマンの執拗な攻撃で沈没するのを眺めていたような記憶がある。グラマンの機関砲を数発吃水線あたりに受 けると、木造船はゆっくりと浸水し、沈没していった。救助に向かう小舟にも容赦なく機銃掃射が浴びせられた。この光景の記憶は鮮明に残っているから、事実 であろう。この朝、機銃掃射に追われて防空壕に走り込んだ記憶がある。これもこの光景のあとの出来事だったのかもしれない。

 戦争の記録はいつでもそうなのだが、地上の犠牲者については死者の数が数えられるが、海上の犠牲者についてあまり触れられることがない。まして「外国 人」となると無視されてきたのではないだろうか。波止場界隈の切れ切れの記憶には朝鮮人たちの記憶がすり込まれている。あの頃、波止場界隈で朝鮮人徴用工 の集団を見かけるのは日常的風景であった。根室空襲研究会『根室空襲』(1993年9月刊)によると、海軍の牧の内飛行場やそれ以外の軍事施設の建設に多 くの朝鮮人が使役されていたという(452-457ページ)。伝染病その他で死者があったことは確かなのだが、その実態は明らかにされていないし、空襲被 害者の有無についても同様である。私がこの文章を書いている頃、いくつかの新聞は、亡くなった徴用工の遺骨が戦後60年を経てもいまなお遺族に返されるこ ともなく各地に保管されていることを報じていた。今なお知られることのなく歴史に記録さえされえいない多くの戦争犠牲者の冥福を祈りたい。

 三浦綾子が1994年に発表した傑作『銃口』は、戦前の北海道の地方都市を舞台にして生活綴り方運動に加わって弾圧された教師たちとその家族を中心にし た時代史的小説である。この物語は戦時下に逃亡した朝鮮人徴用工をかくまい、交流するという事件を軸に戦後史に旋回する。私のまちにもあの時期にはこのよ うなエピソードが無数に存在したと思う。私にも鮮明な記憶がある。一人の徴用工が私の家に飛び込んできて、空腹を訴え、食べ物を乞うた。祖母がにぎりめし を差し出し、玄関先でほおばっていたという記憶がある。上半身裸で毛布状のものを被っていたのは、逃亡させないための方策だったのだろうか。

◇◇◇◇◇
 古い絵葉書3枚を手がかりにして、波止場には始まり汽船から徴用工にまで及んだ私の記憶の連鎖を書き連ねてきたが、この連鎖は確かなものではない。汽船 の記憶のようにあやしいものもある。半世紀以上も前の記憶をたどりつなぎ合わせる作業とは、どうしてもこのような水準のものになる。それは決して楽しい作 業ではない。とりわけ私の場合は、あのいまわしい戦争の記憶の再生と重ねあわされて、表現しがたい悲しみの雰囲気に包み込まれる。これを書いている間に、 3月10日に東京大空襲はその60回目の記念日を迎えた。あの体験を語り継ぐことは重要な仕事ではあることは言うまでもないが、「つらい」とか「苦しい」 体験などという月並みな言葉で一括りにしてもらいたくないものだ。あの悲惨な状況を生き抜いた人々の数だけ悲しみがあるからだ。

 次々とたどられる記憶とおぼしき想念を書き連ねながら、私は一つの重要な思いに突き当たった。私のあのまちへの記憶は、坂の下で紅蓮の炎に包まれる三洋 館の光景とともに消えた。過去を再生できるものはほとんど残されてはいない。死者たちをともらうモニュメントも、あの日の出来事を記録、保存する場所もな いのだ。

 これほどまでにあらゆる痕跡がかき消されてきれぎれの記憶を再生できないでいるのは、私に限ったことではない。現代日本に共通の姿なのではないかと、最 近つくづく考えるようになった。いま住む人々の利便性と機能性を追求する都市改造によってあらゆる歴史的痕跡が急速に失われている。古い、あるいは忌まわ しい記憶を呼び起こすと判断されるものは容赦なく破壊されている。その破壊は戦争を決断し遂行した集団が意図的に行っているようにも見える。都市は過去の 死の体験の集積された場所である。戦争と革命、抵抗、刑死等、さまざまな死の体験がその都市に集積されている。その集積が都市の文化の深層に潜められてい る。それらの体験を都市の内部か消し去ったまちに生きることは、あまりに非人間的で息苦しいことだ。痕跡が意図的に消されていくのであれば、戦争と近代化 が民に与えた苦悩と悲惨を私も書かねばならない。


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