きたにひと

きたにひと
ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』讃 -私の大学(その6)-
研究業績 -私の大学(その5)-
大学教授 -私の大学(その4)-
学生 -私の大学(その3)-
大学への憧憬 -私の大学(その2)-
波止場界隈(下)
波止場界隈(上)
私の大学
すり込まれている筈の風景
蔵書整理の顛末
2003年8月根室行
「書物ばなれ」と格闘する

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最近考えること
学生 -私の大学(その3)-

 大学入学とともに、生徒から学生へと呼び方が変わった。このことがもたらしたえもいわれぬ開放感と喜びはいまも鮮烈に思い出される。束縛されずに自由であると言うだけではない。「学生さん」と市民が呼んでくれることには、親近感だけでなく学生に対する地域社会の信頼が表現されていた。

 「学徒」という言葉がよく使われる。しかし「徒」という言葉に、私はよい印象を持てない。もともとは歩く仲間と言う意味なのだろうが、とにかく使われ方がよくない。暴徒、博徒等、悪い例をあげるときりがない。それに学徒動員、学徒出陣等、第二次大戦のあのいまわしい体験を思い起こさせる。学ぶことは個人の自覚から始まる。群れてすることではない。だからこそ私はこの学生という言葉に、いまも自分が学ぶことへの思いを託す。

 大学院に入学してもまだ学生のままであった。その頃から大学院学生は学生か院生か言う議論が巻き起こった。出来たばかりの大学院の教育・研究条件は劣悪であった。制度を作ったのに、充実させる財政措置はまったくといってよいほどとられなかった。しかもその頃は、旧制大学院制度、さらには戦時下で人材確保のためにつくられた特別研究生制度もまだ残っていた。明らかに彼らのほうが厚遇されていた。同年齢で助手に採用される法学部の若手に比べると、他学部の若手の研究条件も生活条件も劣悪であった。そのような格差の原因は学生という身分にあると考えたのである。全国の大学院で自治会、院生協議会(いわゆる院協)が結成された。学生に権利なし、学生の分際でと拒絶されることが多く、学ぶ仲間として平等に扱われることがない状況では、学生の呼称にこだわるのはやむを得ないことだった。大学院生という言葉がその時以来定着することになった。

 そのことに関連して思い出したことがある。私が院生のころはこの院協活動を朝日新聞社が支援してくれており、記者の紹介で当時の文部大臣と大臣室で会ったことがある。私が大臣室なるものに入れのは後にも先にもこれっきりである。若い頃にアメリカに渡り苦学して大学を卒業したのが自慢で、大学院「学生」に教訓を垂れようと時間をとってくれたのだろう。その「テキサスの松」文部大臣は、親のすねをかじらずに自力で頑張れと言わんばかりだったものだから、参加した大学院「学生」の総攻撃を食らうことになった。痛快な一時ではあったが、かわいそうなのは仲介してくれた文部省の課長であった。顔面蒼白になったことを思い出す。

 いまになってみると、「院生」という呼称にこだわるのは間違っていたと思う。あのころは、いまと違って博士課程終了時に博士論文を書く、あるいは書けるなどという雰囲気ではなかった。みな大学教師を目指して「研究業績」を出すことに精を出す場所であった。そのために、特別研究生や助手なみの待遇が欲しかったのだ。大学院は基本的には課程博士を授与されて終わる教育機関なのに、それが理解されていなかった。誰も課程博士を出せと要求はしなかった。設立されて半世紀を超えるというのに、独立の教育機関としての充実は先送りされているだけでなく、学位授与については少しずつ変わりつあるものの、社会科学の分野では、大学院学生の側に学位取得を目指すという自覚はまだ低い。

 以前に在籍していた大学で10年ほど前のことだ。そのころ私は学位を取りやすいように制度改革に着手していた。大学院自治会との交渉で、このことが話題になったときに、課程博士をとると、どのようなメリットが生まれるのかと問われた。私は唖然とさせられた。課程博士は高い学習能力を持つ人物として社会に認知される資格である。しかも国際的に通用する資格である。これがなければ、あとで困りますよ、1本や2本の「研究業績」を出すよりはるかに重みがありますよと答えたが、理解してもらえなかった。

 冒頭の話に返ろう。大学を去って学ぶ私は自分のことをどのように定義すればよいのだろうか。「学生」を自由に学べる人として再定義し、再び学生に還る、これがよい。これが私が50年かけて獲得した学生観である。


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