あの頃の授業で記憶に残るのは、現人神(人間にして神)である万世一系の天皇への絶対的な臣従をたたき込む画一的な指導だけだ。皇国史観などという表現をよく聞くが、国民学校でたたき込まれた歴史観はそんな生やさしいものではなかった。それは今の時代には想像もできない非科学的な神話的歴史観、神話とねつ造された歴史の混交物であった。
  神武が高千穂の峰に降臨して東征し国を建てたのが日本国の始まりで、それ以来この皇統は神武に始まり今上にいたる「2600年」連綿と続くと教え込まれ、それを暗記させられた。
 修身という科目は、イザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオ、オオクニヌシ等が登場する神話的挿話をちりばめながら、天皇制を危機に陥れた逆賊の告発とそれに抵抗した忠義の臣の話が続く。特に南朝正統論にもとづいて足利尊氏を逆賊とし、南朝に殉じた楠木正成一族を忠義の権化として持ち上げた。
 「修身」の授業で教育勅語が教材として解釈され説明されることなどあり得ないことだった。神聖にして侵すべからざる天皇の詔(みことのり)を教員が解釈するなど不敬に値した。それは諳んじて脳髄に擦り込むことだけが求められた。憲法というものがあるということなど教えられたこともなかったし、あることも知らなかった。
 当時の教師(訓導と呼ばれていた)はこのような理不尽で反知性的な歴史観を良心の呵責に苦悩することもなく子どもたちに強制していたのだろうか。子どもの個性を押し殺し、兵士になる基礎として画一的な知識をひたすら教え込んだ彼らは一体教師と呼ぶにふさわしい能力も品性も持ち合わせていなかったのではないか。戦争が終わっても彼らは子どもたちに戦時下での教育を謝罪したことはなかった。彼らは自省することもなく、突如として民主主義者に豹変した。何の制約もなく子どもに体罰を科していた彼らがその同じ手を自ら封じたのである。今日まで続く私の教師不信の根っこもここにあるのかも知れない。
 北海道の教師たちの権力への屈服と隷従には重要な歴史的前史があったことを知ったのは、ごく最近のことだ。治安維持法による北海道綴方教育連盟の弾圧である。「綴方」とは今でいう作文のことだ。この組織は政治団体でも労働組合でもなかった。作文教育を通じて子どもたちの感性を豊かにする以外の目的を持っていなかった。
 旧文部省の「思想情報」によると、弾圧は東北地方から始まり、1939ー42年に逮捕された教員は全国で137人、そのうち北海道は半数を超す75人に上ると、すぐ後に紹介する佐竹直子氏の著書は明らかにしている。拘束や連行、事情聴取の対象者はこれをはるかに超える数であったに違いない。
 
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 私がこの事件を知ったのは、三浦綾子が1998年に世に問うた力作『銃口』によってであった。三浦のこの作品は北海道近現代史を理解するには、いやこの国の近現代史を理解するためには、いかなる歴史書をも超えた必読の書である。学者なら無視するか1行で済ませる事件を、作家は見事に展開してくれたのである。最近北海道の若いジャーナリストがこの事件を再発掘し、注目を浴びた。次の書物がそれだ。佐竹直子『獄中メモは問うー作文教育が罪にされた時代ー』北海道新聞社、2014年12月刊、道新選書47。優れた仕事だと思う。だが、この事件の歴史的意義の掘り下げが共同作業として地域を越えて続けられていないのが残念だ。この事件への関心が全国で広がることを期待している。
 子どもたちの作文教育だけを考えている教員たちの組織がなぜ共産主義組織にでっち上げられ弾圧されたのか。その答えは簡単だ。天皇への忠義は一途なものでなければならず、すべての子どもがつねに一点のみを見上げ天皇に命を捧げる「少国民」として掌握されることが至上命題だったからだ。足下をみようという教育、子どもの多様な感性を育てようという教育は権力にとって有害であった。戦争は国民の暮らしを急速に蝕んでいた。一家の中心が徴兵されては経済的困窮が進むのは当然のことではなかったか。親にとっても妻にとっても子どもにとっても、家庭の中に突然生まれた空虚さは喩えようがなかったはずだ。いつ来るかもしれない戦死の知らせに怯えることも人として当然のことだったろう。しかし、当時の教室では作文に書くことも、ましてや発表することも許されない状況に追い込まれていたのだ。私が国民学校に入学した1942年は天皇と軍が始めた戦争に対する批判を封じ、子どもを心身共に捉え込む教育が完成した年だったのだ。
 戦後になって誤った歴史認識と画一的な思考方法の強要から脱却するのにどれだけ苦労したことか。この頃に作文教育で多様な感性を引き出してもらえたら、私の知的な生活も今とは大きく変わっていただろうに、残念なことだ。
 じっと耐えている教師たち、時代が変わるのをひたすら待ち続けた教師たちがいたことを知っただけでも、私には戦後民主主義をとらえ直す上で大きな救いではあった。
 この問題にはいずれ本格的に立ち返るつもりでいる。
(2017.6.1)

2017年5月5日、岡崎古書市にて - 北仁人雑録

 
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今年もまた東山の新緑に誘われて都メッセで開催されている古書市を覗いた。
 古書店を覗くのが好きになったのは、関西で働くようになってからだ。京都には大学周辺、寺町通、丸太町通等に古本屋が密集していた。大阪でも大学や旧制高校周辺にぽつぽつとだが、まだ残っていたし、釜崎周辺には企業が廃棄処分にしたり屑屋に出した書物が思いがけない価格で手に入る店がいくつかあり、よく覗いたものだ。このあたりは経済や企業関係の資料をあさる穴場で旧知の大先生と出くわしたこともある。阪急三番街にできたカッパ横町は仕事の帰りの格好の気分転換の場所だった。
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 沢山の書物から自分の求めている分野のものを発見するのは、視力が弱り体力が衰えた今では至難の業だ。まさに幸福な出会いそのものだ。今回の出会いは、写真に示した「アイヌ風俗」絵葉書である。この10年ほど、戦前のアイヌ関連の絵葉書が見つかれば買い求めている。今回のは8枚組の袋入り、1929年発行のものである。白老のアイヌ集落がやっていた「見世物」みたいな施設の絵葉書である。
 それにしても、アイヌを「原始人類」と呼ぶとは畏れいる。初めて聞く表現だ。興味をひくのは、外国人観光客に売るためか、英語の表記がある。アイヌを「アボリジニ」であるとしている。この表現は先住民の意味で、決して「原始人類」ではない。それともオーストラリアに住む「アボリジニ」を想定していたのだろうか。
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 私はこれらの葉書を興味本位で集めているわけではない。アイヌに強いた苛烈な収奪に次ぐ同化政策と差別は日本人の原罪ともいうべきものではないか。北海道に生まれ育った者にとっては特にそうだろう。先住民として認めるだけでアイヌに対する収奪と差別の原罪は許されるものなのか、歴史の書き換えは進んでいるのか、博物館の展示は変わったのか、この種の絵葉書を収集しながら私は問いかけている。
 旧知の古書店主に会場で出くわし、立ち話。話は私の最近の関心事、桑原武夫氏蔵書の処分問題に及んだ。どうもこの蔵書は最終的に屑として処分されたらしく、古書市場には出回らなかったようだ。この事件の悲喜劇について書いてみたくなった。
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  私は港町で生まれ、いつも船を見て育った。いろんな船を見た。大小の汽船、機帆船、漁船、捕鯨船、艀等、軍艦もやってきた。冬になると海が荒れ、アムール川に発する流氷が港と海峡を埋め尽くすと船は港から消え失せ、見ることはなくなった。翌年の遅い春がきて流氷が流れ去ると、船はまたやってくる。船を眺めながらその頃の私は何を考えていたのだろうか。船が結びつける外の世界を夢想していたのかも知れない。
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 こんなことがあった。国民学校3年生の夏ではなかったろうか。港内に停泊する商船を波止場の先に立って眺めていた。ボートでその船に帰る船員が声をかけてくれた。船を見たいなら連れて行ってあげる、と。客船だった。赤絨毯が敷かれたロビー、磨かれた真鍮製の手すりが今でもはっきりと記憶にすり込まれている。子どもの私にはすべてが大きく豪華に見えた。今考えると、あの船は徴用船だったに違いない。北の海のどこかでアメリカ潜水艦に攻撃され沈められ、あの親切な船員も船と運命を共にしたのかも知れない。
 時代の急変動に翻弄され続けたあの港に入港する船を眺めながら生き体験したことにさまざまな思いがよみがえる。とりわけ戦争も終わりの頃の体験を思い起こす。いま区切りをつけてまとめ上げなければならないと決意している。
  私の父岩次郎は腕の良い船大工だった。私は子どもの頃から父の仕事ぶりを眺めながら育った。いまでも船を眺めることが好きだ。特に木造の舟に出会うと、父の働く姿を思い出す。父は私が生まれた頃、中国大陸への侵略に徴兵された。父の年齢からいって本来ならもう一度徴兵されたはずなのにそれを免れたのは、あのまちの零細造船所が合同して設立した造船所で働くことになったからだろう。この造船所は木造船標船建造の軍需工場であった。新造船以外にも、おそらく北方で任務に就き被弾して帰港した徴用漁船の修理も重要な仕事だったに違いない。どんな仕事をしたのか、父から話を聞く機会は父の死によって失われた。それだけに、私は父から聞き出せなかった分も含めて、あの港を寄港地として犠牲となった多くの徴用船とその船員たちが被った苦難と悲惨な運命を調べ、書きしるしておきたいと考えたのだ。
  私のこの仕事は過去への感傷をまとめ上げたものでは決してない。徴用船の悲劇はあの戦争のもっとも犯罪的な側面であった。兵站の十分な体制もないまま無謀な戦争に乗り出し、兵士だけでなく多くの船員や漁民の生命をもてあそんだ。靖国に祀られる英霊はこの無謀さの犠牲になった兵士たちだ。兵士でもないのに駆り出されまきぞえになった人びとの犠牲は顧みられることもなく今も海底に眠っている。その結果が悲惨なものであったとする感傷に突き動かされない限り、追求し真実に接近する気力は生まれない。いくらかは戦争を体験したものが書く仕事の意味はそこにある。そのことを是非とも理解してほしい。
 あの戦争が終わって70年以上も経っているというのに、この問題の検証が十分にされているとは到底言いがたい。それどころか、検証もないのに、戦争への参加を煽り立て、それに積極的に関与することを表明する動きが具体化し始めている。私のこのちっぽけな仕事でもにわかに重要性を増してきたように思われる。あの無謀な戦争に国民を巻き込んでその惨禍を拡大した責任が解明されないままで、ことが進むことに私は反対する。
 集団的自衛権をめぐる議論のなかで、自衛隊が担うのは「後方支援」であって前線での戦闘行為ではないことが強調され、「後方支援」が戦闘行為にあたらないという妙な雰囲気が醸成された。「後方支援」と表現しようと「兵站(へいたん)」「ロジスティックス」と表現しようと、これが現代の戦争の遂行にあたってその成否、勝敗を決する最重要の点であることを曖昧にした議論ではないか。前の戦争では指導者たちはそのことの意義を軽視し、国民を戦争に巻き込んでいった。徴用船問題はその最も重要な側面であった。船乗りたちや漁民たち、徴用船を送り出した港町や沿岸部のまちは前の戦争の犠牲者だった。
 過去に庶民が戦争によって受けた苦悩の現実から教訓を真摯に学ぶことをしなければ、政治家たちの決断は、過去に犯した過ちを繰り返して、いやそれどころかそれをさらに拡大して国民に塗炭の苦しみを味合わせることになるだろう。
 昨年11月に『リーラ(遊)』第9巻(戦後70年と宗教)のために書いた仕事を、PDFファイルにしてブログに収録します。昨年12月にこのブログに収録した「戦時下に出会った朝鮮人たちー「私の戦争」準備ノートー」のエッセンスをまとめたものです。
 「私の戦争」シリーズは、完結までにあと何年を要するかわかりませんが、切れ目なく書いてまとめて公表するつもりでいます。読んで感想を寄せて頂くことが私には最高の支援になります。よろしくお願いいたします。

.80歳の検査入院 - 北仁人雑録

 
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2016年3月15日から26日まで、京都南病院に入院していた。身体検査のためである。これまでは2年毎に入院していたが、80代に入ったことでもあり、主治医の意見も入れて今年から1年半毎にすることに決めた。身体は健康も病気も含めて自分のものだ。医師たちの支援を得て身体状況を客観的に確認しておくことは、特にこの年齢になると身体を大事に使うために必要なことだと考えている。
 検査の結果は、年齢相応といったところだろうか。いくつか再度の検査が求められた。当分
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の間検査の後始末が続くことになるだろう。そんなに詳しく調べて病に対する不安はありませんかと、よく訊ねられる。決してないわけではない。しかし、80年も使い続けた身体の各部位にくたびれが出ていない方がおかしい。これから生きていくためには、くたびれた部位を大事に丁寧に使うことが重要なのだ。次に病棟でお会いするときはまた検査でと、退院の際に主治医は挨拶した。次の検査まで臓器のそれぞれを大事に使いますと、私は答えた。これから1年半の間は病に苦しまないことを切に望んでいる。

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 入院生活は退屈だ。検査と検査の間、検査のない日は身体をもてあます。以前は、病院近くを散歩することを認めてくれたのに、今は一切駄目。足が弱ると主治医に訴えたところ、病院内を散歩しなさいとのこと。早速実行に移した。他の病棟の看護師に、病室を忘れれたのですかと問われ衝撃を受ける。認知が始まった患者に間違えられたのは初めてのことで、院内散歩はこれっきりにした。
 よく考えてみると、認知が始まっている患者に間違われても当然なのだ。そういう年齢に私はとっくになっているのだから。病棟はそのような高齢の患者さんで満ちている。奇声を発する人、夜中に徘徊する人、病室に盗聴器が仕掛けられていると訴える人、さまざまだ。病院は社会が当面している高齢化の矛盾を表現しているなど間の抜けた評論をいまさら書いてもしようがない。私自身がすでにその当事者になっているのだから。
 「団塊の世代」が後期高齢者になる頃まで私は生きているだろうか。かりにその頃まだ生きていたとしたら、私には病院にも介護施設にも居場所は残されてはいないだろう。姥捨山が必要になる。学問を志して以来、ろくな死に方はしない、いずれのたれ死にと覚悟はしていたつもりだが、そのような状態になることを想像すると苦しくなる。

 いつもの入院のように書物とCDを沢山持ち込んだ。時代小説、サスペンス、ハイドボイルド、たまっていた黒井千次の短編集等10冊ほど、C・アバド、D・バレンボイム、N・アールノンクール等10枚ほど聞いた。読み疲れ聴き疲れると、病院で働く人びとの仕事ぶりを眺めていた。働く人びとに接することが出来るのは、書斎にこもりがちな私にとっては楽しいことだ。医師、看護師、理学療法士、食事を運んでくる人、湯茶を配る人、それに掃除の人、病との廊下まで巡回する警備会社の職員等々、私の世界とはまったく違うものを発見し、彼らの働きぶりに比較して時には自分の未熟を思い知らされる。

 入院の際には東寺金堂の薬師如来に参拝することにしている。厳しい外出禁止令をかいくぐって今回も出かけることが出来た。ちょうど「弘法さん」の市が開かれていた。無病息災と長命という私のあつかましい祈願はいままでのところは十分に叶えられている。弘法大師の霊験あらたかと言うべきか。

井上有一生誕百年記念展を見る - 北仁人雑録

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 2016年3月3日、日帰りで金沢市に出かけた。金沢21世紀美術館で開催されている書家井上有一の生誕百年記念展を見るためだ。
 彼の東京大空襲に関する作品はどうしても見たいと考えていた。特に彼が訓導(教師)として勤務していた横川国民学校の悲劇に寄せた書、「嗟横川国民学校」は丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」にも匹敵する、いやそれどころかそれを凌駕して訴えてくる。書物では見たことがあるのだが、どうしても現物の前に立ちたかった。
 この書の前に立って、私は感動のあまり落涙し、
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拝礼した。書の大きさと広がり、筆使いは書物を介しては感知できない。一字を書いた書、草野心平や宮沢賢治を写した書は書家の人間性を浮かび上がらせる。良いものを見たという充実感で満たされた一日であった。

ある越中衆と能登衆の出会い - 北仁人雑録

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  2016年2月28日午後、麩屋町押小路上ルのギャラリー「結」に梅原龍さんの絵皿展を覗きに出かけた。その時から考えていたことを少し書いておこう。
 梅原さんの仕事ぶりはフェイスブック上で拝見していたが、知りあいになったのはある酒場で偶然お会いしたときからだ。富山県出身と聞いた。その時、雪深い富山人が沖縄に住むことにも興味を覚えたが、それよりも富山県出身者に抱いている羨望の念を彼に率直に披瀝したと思う。
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 北海道の私の郷里では、当時富山出身者を「越中衆」と呼びならわし、「越中衆の歩いたあとにはぺんぺん草も生えない」と評していた。越中衆は数も多く、結束力も強く、働き者で、成功者が多かった。私の家は能登半島出身で「能登衆」と呼ばれていたが、彼らも働き者ではあったが、どちらかと言えば下積みの働き者だったと思う。「ぺんぺん草も生えない」という言葉は、富山県人の徹底した稼ぎぶりに対する悪口やひがみの表れというよりも、私にはある種の畏敬の表現だった。子どもの頃からそう感じていた。今でも変わらない。
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 毎年決まった頃に、富山の薬売りが大きな風呂敷包みを持ってわが家に現れた。一年に一度家に置いてある薬箱を点検に来るのだ。点検し、柳行李から使った分を補充する、矢立から筆を取り出しすらすらと記帳する、その仕事ぶりは、外の世界の仕事を滅多に見ることのなかった当時の私には新鮮で驚きの連続であった。私どもに持参した小さな景品も外の世界への憧れを高めたものだった。その頃から越中衆の強靱さは利益のあるところに群がった近江商人たちよりもはるかに魅力的だった。
 お皿のことよりも、おたがいの旅のこと、富山のことが話題の中心になった。富山にはまだ出かけたことがない。無性に出かけてみたくなった。能登衆も越中衆も幕末から明治にかけて北前船で北の海に乗り出していった。毎時の初めに私の祖父は佐渡島から、祖母は能登から北を目指し、言葉も生活慣習もまったく違う二人が北海道のどこかで知りあい世帯を持った。彼らは違いに対する寛容さと他者を受容するすぐれた能力を備えていたと思う。あの時代にちっぽけな船で難破をおそれることなく船出していったのだから、放浪することに抵抗はなかったと思う。
 私は彼らの気質を受け継いでいると確信している。北海道の東端のまちに生まれて放浪できる限り放浪した。異質のものへの寛容さや放浪への憧れも私に内在的なもののように思われる。梅原さんと話していて共感したのは、その憧れについてであったかもしれない。
 自分のことばかり語っているうちに肝心の絵皿を買わずに帰ることになった。そのことをわびると、旅の費用の足しにしてくださいとのこと、別れの挨拶は、またどこか旅先でお会いしましょう、だった。こういう挨拶も放浪者にふさわしい、いいね。(2016.3.5)

新しい上着がほしい(続) - 北仁人雑録

  可能な限り自然の素材を身にまとい暮らしたいと、つねづね心がけている。環境保護主義者、エコロジストを自認する私には、綿製品、皮革、木の製品、特に自然環境に対する負荷の少ない森林から伐採された木材の製品を愛好している。しかし、天然素材のほうが合成物質よりも環境負荷が少ないとは必ずしも言えない。木綿はその栽培に多くの水を使用し、土壌の肥沃度を絞り上げる。安価ですぐに買い換えるような洋服の環境負荷は最悪である。出来るだけ長持ちするもの、直ぐに飽きが来ないものを買い求めることが環境負荷を軽くするためには重要になる。
 
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 さて上着をどうするか。私はこの20年ほど藍染のものを好んで着る。今度も藍染のブレザーがしくなった。西陣の千両が辻あたりに藍染を専門にする店がある。帯や金襴ではな、藍染で売る店が西陣にあるとはめずらしいことだ。診療所の帰り道に散歩を兼ねてこの店を覗いてみた。
 店主のUさんは、私の店の藍染は20年は着て頂けますよと何度も強調した。
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ちょっと待って下さい、私はもうすぐ80歳、20年保障されるなら、私は100歳まで生きなければならない、
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それは到底無理なことです。この問答を何度か繰り返しているうちに、この上着を着たら、曲がり始めた背筋もただされ、活力みなぎる暮らしが続くかもしれないと考え始めていた。新しい服をまとうことには、そのような力があるのだろうと考え始めていた。私が考えていたより高価ではあったが、長く着られ、その分環境負荷が低下すると言うのなら買ってもよいという気分になり始めていた。(2016.2.22)

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 2016年2月13日午後、お世話になっている永原診療会の新しい施設として「自在館ぼたんぼこ」が完成し、その内覧会があった。千本通をはさんで診療所のむかいに完成したいわゆるサービス付き高齢者住宅である。私は単身ではないからこの施設に入所できる資格はないのだが、老齢者、しかも比較的裕福な老齢者層がいったいどのような条件でこの施設で暮らすのか見ておきたいと考えた。
 率直に言って、私の所得では小さな部屋を借りるのが精一杯。ということは、現役の頃、企業内の地位の高かった人か現役の間に十分に蓄えた人に限定される施設と言うことに
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なるだろうか。小さい部屋は、今の生活を捨て去る状況に置かれるか、勇気を持ってその生活規模に合わせる決断をしない限り、私には適応が難しいような気がした。
 西陣地域は地域医療の水準の高いところだ。その支援があれば生存のぎりぎりまで自宅で頑張れるのではないか。私はその支援に期待をかけて厚かましくもそのように生きるつもりでいる。
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 窓から見える景色は魅力的でだ。東山連峰、比叡山も大文字が灯る如意ヶ嶽、北山、西山、船岡山、衣笠山、左大文字等、すべてが見渡せる。五山の送り火は4箇所は確実に拝むことが出来る。ここに住んで、この風景の中でのんびり過ごすのも案外良いのかなと考えたりもした。
 もう少し沢山の人の手に触れ、彼らの息遣いによって堅さが取れた頃に住んでみた見たいとも考えた。もちろんその時にお金があればの話だが。(2016.2.16)

新しい上着がほしい - 北仁人雑録

 70歳を過ぎたあたりから、この世を去るまで何を着て生きるかについてつくづく考えた。洋服ダンスの中には外出の時にまあ失礼にならない程度のなりが出来るぐらいの数の洋服があると勝手に判断した。これらを組み合わせて着ていけば十分だろう、新しく買うこともないだろう、おそらく不格好にも貧相にも見えないだろう、人の値打ちは着ているものでは決まらない、襤褸ををまとっても自分は自分だ、そう勝手に考えていた。
 最近、つくづく感じることがある。どうも人の視線が以前と違うのだ。電車やバスのなかで奇異の目で観察され、時にはホームレスと間違えられた。自分のことを「よぼよぼ歩きの老いぼれ羆」あるいは「放浪老人」と呼び、自らの奇異ないでたちを楽しんでいるふうでもあった。それが最近はどうも周囲の視線が違うのだ。白髪でしみだらけの顔をした老人、色あせた洋服にリュックサック、買い物で膨れ上がったとても高価にはえない袋、これは確かに異様な風体ではではあるのだが。外出する際にはもう少し身なりに気を配るべきだと最近つくづく反省し始めている。
 この反省の態度を決定的にしたのは、昨年秋の北海道旅行の写真だ。自分の写真は滅多に撮らないのだが、珍しく友人に数枚撮ってもらった。写真を見て愕然としたものだ。老いの様々な特徴が露わになっている、白髪は顔色の悪さを際立たせ、精気がまったく感じられないのだ。元の鮮やかな色を失った上着は、この人相をさらに白っぽく貧相に見せるのに一役買っていた。これでは駄目だ、新しい上着を着て、活力のあるところを示さなければならないと、このときから考え始めた。
 「自分は自分」「俺は俺」の原則、わがまま勝手に生きてきた原則も、そろそろ見直しの時期にきているように思われた。いくら町学者を自称してわがままを生き続けたいとは言っても、これから老齢者として生きて行くには社会的な支えが必要ではないか。それなりに着飾って身綺麗にすごして支えてくれる人たちに不快な感じを与えないことが必要ではないか。ささやかでも変化を示せなければ、いくらかでも彩りある暮らしを実現しなければ、そのような思いが募って新しい洋服を買うことに気持ちが昂ぶり始めていた(続く)。(2016.2.2)

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