コンピュータの寿命、私の寿命 - 北仁人雑録

 このところコンピュータの調子が悪い。何度も出入りの業者に修理を依頼したが、今回は電気系統の故障が原因か電源ボタンを押しても通電せず、「入院」と相成った。情報も入らず執筆も停滞し、文字通り手足をもがれたような状態に陥った。iPadを使ったが小さな画面との格闘にくたびれ果てた。
 2週間以上の入院を経てようやく数日前に退院。業者のいうには電気系統については当分の間は大丈夫とのことで、とりあえずほっとした。
 コンピュータを使い始めたのは、いつのことだったか。40年以上にはなると思う。この「道具」を使えたことで私の寿命は確実に延びた。書く力や知識を蓄える力の衰えもこの道具のおかげで十分すぎるくらいに補えた。視力の低下も電子書籍のおかげでいくらかは補えた。コンピュータが老人たちの生命力の低下を補えるように改良され買いやすい価格になれば、私の寿命もさらに延びるはずだ。
 壊れかけたコンピュータは10年ほど前これが人生最後になると確信して購入したのだが、どうも人生が終わる前にもう一台必要になりそうな気がする。

  
 先日、行きつけの診療所で2度目のワクチン接種。1回目の時は軽い熱中症に罹ったのかその日は気分が優れなかった。2度目は、気分が悪くなることはなかったが、1注射針が射し込まれた左腕が一週間ほど重だるく調子が悪かった。ほぼ2週間が経過し、外出の際にいつも感じた重苦しい気分はすこしは軽くなったようだ。感染すれば確実に死にいたる年齢になってこのウィルスの流行は私の気分を暗く思いもものにした。無定見で愚かしげな権力者たちの行動、御用学者たちの無定見な発言にも腹が立っていた。メディアによって毎日繰り返される感染者数の喧伝に、私は前の戦争で体験した大本営発表を思い出していた。この不快感は日々募るばかりだ。

 憂鬱な生活が続く中で、書きかけの文章ファイルが数え切れないほどたまり、読むつもりで買い求めた書物が山のように積み上げられる。実にみっともない哀れな状態だ。問題を感じ取り書き残したいと書き始めた以上、昨年一昨年のことがらであっても書き終えなければならないだろう。

 パンデミックが地球社会に資本主義に与えつつある変容について書かねばならないと自覚している。このような時代に生きられた学者としての幸運を見過ごすわけにはいかないろう。ただ文献が沢山合って現場にも立ち会えるというこれまでのような態度はこの時代に通用しない。漏れ聞こえてくる変容の兆しを感じ取れる能力とこれまで以上の考える力が求められるだろう。多くの志を同じくする人々との議論の機会を増やすことも必要だ。

 ワクチン接種はいくらか広がった行動の自由と鬱屈した雰囲気からのいくらかの解放を私にもたらしてくれるかものしれない。それを期待して、転換の準備を始めよう。
 5年ほど前に胃カメラを飲んでガンが見つかった。3年ごとに検査をしていたのにこの時はどういうわけか少し時間が空きすぎた。ピロリ菌もずっと検出されなかったし、その20年ほど前に大腸ガンを手術していたので、消化器系のガンはもう大丈夫だろうと油断していたようだ。結局、私の胃袋は哀れにも3分の1になってしまった。かっては大食漢でならしたこの私が今では目の前に並べられた料理の嵩にため息をついている。亀のように飲むとまでいわれたのに、酒はもう酒杯を数回重ねるだけで降参してしまう。なんとも情けない状況になってしまった。
  数日前内蔵の超音波検査と胃カメラ検査をやり、翌日執刀した医師の診察があった。検査をしたのだからこれで5年の節目、完治の宣告をいただき、私がお礼の言葉を述べて長くも短くも感じられた「闘病生活」に区切りを付けようと考えていた。もう一回診察がありますよと、医者に言われて私の早とちりに気がついた。でも検査結果は再発なし転移なしですから問題ありませんよと実質的な完治の宣告、この日から気分がいくらか晴れて再出発しようという私の期待はかなりの部分で満たされた。
 それにしても小さい、胃カメラが写し出す映像をディスプレイで見ながらつくづくそう感じた。カメラは食道から何の抵抗もなく胃袋の中をまっすぐに下り、あっという間に十二指腸の入り口に到達するのだから。要するに私の胃袋は食道にぶらさがるタダの膨らみになってしまったのだ。
 でもまだ使える。食欲はいまだ衰えることなく、好物を注文する。出てきた皿を前に胃袋は躊躇する。半分も入らないのではないか。いつもこの繰り返しだ。衰えぬ食欲と惨めにも縮んだ胃袋とをどのように折り合いを付けるのか、これがなかなかの難問だ。うまく解決して、食を楽しみ、栄養不足を解決する解はあるはずだ。
 コロナ禍も去り、友人たちとうまい酒と料理を楽しめるようになる日を努力を重ねて心待ちにしている。

85歳ーいくらか憂鬱な出発ー - 北仁人雑録

 先日85歳になった。誕生日などあまり気にもせず生きてきたのに、今年の誕生日だけは違っていた。体力の衰えは隠しようもなく80歳代の折り返し点を無事迎えられるか、妙に気になり出していた。疫病の地球大的流行の奔流に巻き込まれるならよちよち歩く老人の生命などはかないものだ。そのことは承知していても、この国の権力者たちの無策と混迷ぶりはなんと言うべきだろうか。死ぬかもしれない、というよりも殺されるかもしれないと怖れて毎日を過ごしていた。なんとか乗り切ったと思ったのに突然の高熱で緊急入院、私の85歳の誕生日は忘れられない節目の日になった。
 誕生日当日、午前中はまったくいつもと変わらなかったのに午後になって急に発熱、39度4分。震えが止まらず嘔吐を繰り返し、いつもお世話になっている病院にタクシーで駆け込んだ。新型コロナウィルスにとうとう感染したのか、そうだとしたら家族や周辺の人に迷惑をかけることになるのではないか病院まで付き添ってくれた家族とも永久のわかれになるのではないかという不安が心をざわつかせた。
 2日間の院内隔離、その間に抗原検査を2回、どちらも陰性だったので新型コロナウィルス感染の疑いは晴れ、一般病棟に移された。4日ほど熱が下がらぬ夜が続いたろうか、幻覚を体験した。次々と現れる奇妙な風景をある意味冷静に楽しんでいたようだったから、それほど生死の境をさまようというような厳しい状態ではなかったのだろう。
 高熱の原因がわかり、体調も落ち着いたので、10日後に退院退院、自宅療養となった。ある人に肺炎にもならず高熱に耐えられたのですからまだ体力も生命力も十分にありますよと、慰めの言葉をかけれれたが、80歳代を生き抜き90歳を目指すには、この種の難関がいくつも待ち構えていることを覚悟しなければならないのだろう。今年の誕生日は少々憂鬱にさせる転換点となったようだ。

 妙に気になっていた今年の誕生日、たまにはおいしいものを食しようと北海道から好物をを取り寄せた。入院直前に到着、慌てて冷凍庫に入れた。入院疲れ、抗生物質疲れもようやくとれて気力も戻り始めた。遅れた祝いの宴をやり直して再出発とするか。(2021/03/24)
 先日84歳になった。
 平均寿命を超えた。そのこと自体はさほど意味のあることではないが、これほどまでに身体的・知的能力が残っていて、まだ生きていられるとがうれしく、実に愉快なことだ。政府統計によると、2018年10月現在で84歳人口は91万6,000人、そのうち男性は35万5,000人、よろよろ歩きでもとにかく自分の脚力で出歩いているひとは、そのうちどれほどいるのだろうか。
 私自身の脚力も怪しいものだ。3年前に3週間入院して見る間に衰えた。いくらか回復したところで昨年はまた右眼の手術で3週間入院、それに加えて昨今の疫病大流行、いったい私の体力はどうなるのかと不安が加速する。この年齢になってこの程度の体力でいったいどんな役割が果たせるというのか。つくづく考えさせられる。
 外でお酒を飲む機会は激減した。それに加え、小さくなった胃袋が許容してくれる酒量などおよそ「飲む」という範疇に入るようなものではない。昔友人といった大阪阿倍野の「縄のれん」のことをときどき思い出す。昼間から開いていて、夜の講義まで時間が空きすぎ身体を持て余しているときなど、若い友人を誘って出かけたものだった。あの時盛んに飲んだ酒の名をかすかに覚えていた。検索で調べて早速買い込み愛飲している。牛飲馬食の日々、亀のように飲みあさっていたあの頃を懐かしんでいるわけではない。コロナ禍の時代、思い出を肴に飲むのもよいではないか。次はどんな思い出を肴にしようか。(続く)
   長いこと使っていた携帯電話を捨ててスマホに買い換えた。率直に言ってこれは気の進まない買い物ではあった。
 私はもともと電話を好まない。理由はいくつかある。子どもの頃には電話を持っているのは金持ちの家に限られていたし、高度成長期に入ったにもかかわらず一般家庭への電話の普及は遅れに遅れていた。電話を引くのにはお金がかかった。結構な権利金を要求され、電話の権利はこれからも高く売れるとだまされたものだ。こういう状態だったから、私は電話をかけることがいまでも苦手である。
 もの書きといわれる人たちには一つの共通点がある。仕事中に電話がかかってきて思考や執筆を乱されることを極度に嫌う。編集者からの原稿の催促もそれ以上に仕事への高揚心を冷やす。人によっては仕事をしているときには受話器を外している。そのうちファクスが登場した。原稿を出版社に郵送する必要がなくなった。本来は事務用に考案されたこの通信機器が個人の家にも入り込み、あの奇妙な苦悩に満ちたうめきのような音を響かせるようになった。夜中に仕事をしているときなどは特に気味悪く感じたものだった。
 もの書きのはしくれとして私も、電話の音には身のすくむ思いがする。電話が必要なことは理解するが、電話に支配される暮らしはごめんだ、無理やりに電話口に引き出されるのはいやだ。そのうえ利用者の非常識にはいつも腹が立った。コンサート会場でも映画館でも電源を切り忘れて受信音を鳴らしまくる、公共の場でも他人の迷惑お構いなしに高声でまくし立てる、あのような下品な行動に同調する訳にはいかなかった。
 電話にに支配されるのをそれほどまでに嫌うその私が携帯電話を持つようになったのにはそれなりの理由がある。30年以上前のことだろうか、京大病院に知人を見舞った時のことだ。病院を出てかから熊野のバス停あたりで、次の予定に確認の電話を入れるために電話ボックスや赤電話を探して驚いた。どこにも見つからなかった。もう一度京大病院に帰るのも面倒くさく、連絡を諦めた。大病院の近くなのに、なんということだろうか。よく観察すると、地下鉄の駅でも公衆電話はほとんど退場していた。携帯電話を持たざるを得なくなった最大の理由は公衆電話や赤電話の衰滅の結果であった。
 しかし私は持っているだけでそれを積極的に利用することはなかった。電源を切りリュックサックの中にしまい込み、自分が連絡するときにだけそれを取り出した。家族はこれでは急を要するときに連絡をつけれないと不満たらたらだった。

 その私に通信会社から連絡があった。あなたの携帯はもう「修理受付終了」機種になっているという。やむを得ず買い換えることになった。ガラケーこと携帯電話は資源ゴミになってしまった。
 私のささやかな抵抗はこの時点で無残な敗北に終わったのだ。ITやデジタルを支配の手段とする資本主義への抵抗は、本来の人間らしい生活を防衛することなしにはあり得ないと信じていた。携帯電話やPCの利便性を評価しながらも、私はそれらが急速に人間らしさをむしばんでいることに危機感を覚えていた。
 工業的に設計された無機質の「近代的」都市に住むことは本来最も人間的なものであった時間や空間への感性を奪い取られることだ。都市生活は快適だとそこに浸り込んでいる傾向が日々強まっている。都市に生まれ育った人びとから本来人間に備わっていた感性も感覚も急速に失われている。そのような傾向が行き着く先は想像するだけでも恐怖である。感性や感覚が画一的になった人間など唯々諾々と支配と従属を受け入れるロボットのようなものではないのか。
 非効率的で利便性に欠けるものであっても、本来の人間的関係はなんとしても守っていかなけらばならないとの考えを私は日々強めている。たとえば、メールするよりも電話をするよりも手紙を書くように心がけ機会があれば直接対話する、出来合いのものを買って食べるよりも可能な限り自分の感覚に合ったものを調理する、どちらもたしかに効率という点では問題がある。でもそのことによって得られる喜びと達成感を考えると、そこにまで効率性の概念の支配を許してはならない。
 私は死の直前まで自分と家族の食するものは可能な限り自分で調理していたいものだ。そのための食材を求めてまちを放浪したい、自分に合った味を求めて路地裏までも出歩きたい。それができなくなれば、調理も味付けもIT任せ、皆同じ味で満足させられる状態に押し込められては人間お終いではないか。生きている意味は半分以上なくなる。

  スマホを使い始めた。まわりの連中はこの時とばかり、私に認知が始まった時を考えてか、やれ位置情報を確認するアプリを入れろとか、連絡が容易なLINEを始めろとか圧力を加えてくる。体力が衰えている以上、この圧力にも応えなければならない。この器械、触ってみるといろいろ面白い世界も私に広げてくれそうだ。上手く使えば衰えていく体力も補えそうだ。
 人間らしい生活構造をこの機器とうまく折り合いをつけながらどのように作り上げていったらよいのだろうか、このところそのことばかり考えている。(2020.3.10)
   外出する機会がめっきり減った。長時間固い椅子に座るのが難儀なので、集会参加も映画もコンサートもほとんど出かけない。目の不調で博物館や美術館もお出かけなし。病院通いが日常になり、通い慣れるとそれが結構楽しいものになるのだから、実に妙な話。月に3回ほど、七条御前の京都南病院、南病院から独立して近くに開業された前田先生のところで診察を受ける。この病院外出のことを、私はいくらか自嘲的に七条「村」行きとひそかに称していた。
 京都駅まで地下鉄、そこから市営バスで七条通を西に移動し、御前通で下車する。くたびれている日や雨の日は少々奮発してタクシーを利用することもある。京都駅から烏丸通を下がって七条通を西に折れる。このあたりは浄土真宗諸派の寺内町だ。東本願寺の大伽藍が見える。堀川通と交差するあたりで興正寺、西本願寺の大伽藍、龍谷大学大宮学舎、平安中学・高校校舎が見える。それを過ぎると七条通りの風景は、とりわけJR山陰線をくぐったあたりから寂しくなり、シャッターを下ろしている店が多くなる。私はいつもその雰囲気の違いを感じながら、七条御前通で下車する。「村」に到着だ。

 京都南病院に通い始めた頃には、まだこのあたりには畑が残っていたし、大阪ガスの円形ガスタンクもよく見えたものだった。村の都市化が進んだことは確からしかった。
 古い地図を見ると、豊臣秀吉が築いて京都の内と外を分けた御土居を境にしてこのあたりは村の地域であった。西七条村という。現在の梅小路公園あたりは梅小路村、そのほかに西院村の名も見える。
 私の住んでいるあたりも昔は上総村という村だった。いまでも気をつけて観察すると田んぼや農道の跡がよくわかる。それなのに本来の平安京にも中近世の京の市街地にも含まれていなかった地域なのに洛中に囲い込まれた。「洛中」とはいいながら、広大な農地が北に広がっていたのだ。これに対して西七条村はというと、古代平安京ではこのあたりは右京に入り、都の重要な地域であった。それなのに、洛中に加えられなかったのはなぜだろう。
 御土居とい城壁をつくるのに必要な資金と労働力はどのように調達されたのだろうか。現在の下京区には浄土真宗諸派、仏光寺、東本願寺、興正寺、西本願寺の大伽藍が集中する。仏光寺、西本願寺(正確には本願寺)は秀吉が招き入れたとされる。その当時はおそらく御土居の西側から東側までこの寺の寺内町だったと推定される。特に本願寺は石山本願寺以来築城に長けけていた。関西の各所に寺を中心に門徒が集結した寺内町が存在する。堀を巡らし外敵に対処しようとした本願寺の技術と財力を秀吉は利用したのではないだろうか。
 そんなことを考え想像しながら七条通りと「西七条村」を散策するのは、国宝や重要文化財の建造物をたずね歩くのとは違った意味で面白さがある。よく観察すると歴史の遺産を見つけられないわけではない。しかし社会科学者と自称するものとしては、増え続けるシャッターの下ろされた店、売り家の看板が掲げられた建物、更地になって久しく草の生い茂った空地を見ていると、古代の中心地が中世の豊かな農村が無秩序に都市化され、それが急速に衰退していく歴史的激動の過程を観察し少しでも書き残したい気持ちに駆られる。
 ここも京都なのだ。千年の都と称する京都の歴史の今の重要な一部なのだ。この衰退の現実を直視しないで、観光業の盛況を喧伝してそれがこのまちの繁栄だと勘違いしている人たちにたずねたいものだ。この衰退の姿は何なのかと。          ,
 これまで西陣の衰退していく様を書きブログに載せてきた。時々千本通を北から南に下って観察散歩をやってきた。丸太町通までは歩いたろうか。よく考えてみると、もう少し南に下ると七条通に到達するではないか。数年前までやっていた散策を再開してみたくなった。

  最後に、村内散策路に組み込まれている私のお気に入りを紹介しておこう。病院の帰りにはいつも御前通東行きのバス停近くの喫茶店に立寄る。ここで検査結果や体調をマスターにぼやきまくり、病院の気分を解消する。月に二度程度は中央卸売市場西隣の寿司市場で握りを少々。胃袋が小さくなったので栄養不足になりがちな私には寿司は最適の昼食だ。関西に住んでもう半世紀にもなるというのに、注文するのはあいもかわらず北国のねたばかり。天気がよければ、西本願寺や東寺に足をのばすこともある。信心を毛嫌いしていた自称唯物論者も変われば変わるものだ。(2019.10.28)
 数日前の夜の祇園花見小路の火事には驚かされた。祇園の中心である花見小路のそのまた中心部が燃えている映像が写し出された。翌朝になって、私がよく使っていた吉うたの全焼が伝えられた。この火事は京都の都市文化の中心の終末の始まりではないだろうか、衝撃を受けた。
 そろそろ現場検証も終わっているはず、現場に行けば女将の美三子さんにも会えるかもしれない、お見舞いもできるかもしれないと思い、12日午後、診療所の帰り道に回り道をして花見小路に向かった。
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 花見小路は通行止めにもならず、外国人観光客で賑わっていた。この雰囲気が私の気持ちを一層重苦しくした。およそこのまちに塗り重ねられた文化の敬意を払うことなく、その外部の景観にだけ目をやり通り過ぎてゆく彼らだけを非難することはできない。無秩序に観光客を拡大し、祇園の本来の姿を衰退させた為政者たちこそ攻められるべきだろう。今回の火事は起こるべくして起きた災害だと私は思う。環境客を当てにした土産物を売る店、飲食店が増えた、パン屋まである。これでは女将たちがいくら防火意識を高
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めても、失火の可能性が高まるばかりではないか。
 ここを舞台にした数々の文学と映像の名作、この場所で多くの人びとの人生が交錯し、すぐれた作品を育んだからこそこのまちは貴重なものとして高い評価をうけているのであって、花街の景観や古い町並みによるものではない。美三子さんを待つ間そんなことを考えていた。
 焼け落ちた建物の内部を見せて頂いた。吉うたを訪れるようになったのは、1970年のはじめの頃だったと思う。私の最初の書物の出版に力を貸してくれた有斐閣のAさん連れてきてもらったのが最初だった。かれこれ40年と少し、美三子さんのところで穏やかな時を過ごすことができた。今の姿があまりにも無残、これまでの私の生きた時間の重要な部分が抜け落ちた感じがした。力が抜けた。
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 私の気落ちした姿とは違い、彼女は再開、再建への意欲を
さすが祇園の女将と感動した。金も力もない老いぼれヒグマが役立つはずもない。その時まで生きているかも怪しいのに。
 美三子さんに聞いてみた。市長は見舞に来ましたかと。聞く必要のない質問をしてしまった。私のいつもの悪癖がでた。来るはずがないのにね。この火災は誤った観光政策の結果であることに、彼は気付く筈もないのにね。(2019,7,16)
  「学ぶ」ことはすべての人ことに与えられた普遍の権利である、このことについて考えはじめたのは大学に進学してからであった。本屋など一軒もない公立図書館さえもない田舎のまちからやっとの思いで脱出してたどり着いた大学は私に知的好奇心を全開させる機会をとりあえずは十分に与えてくれた。あの18歳の春以来切ことなく私はこの好奇心の広がりに頼生き続けている。
  社会科学に関心が湧かなかったわけではない。大学入学の頃には、そのための体験も予備的学習も田舎出身の私にはまったくといってよいほどなかったといってよいだろう。その上、北海道という「殖民地」出身の私には、たとえば当時の若者をとらえていた日本資本主義論争、講座派と労農派との論争を理解するために必要な風景すら見たことがなかった。なにしろ私は大学入学まで米を作っているところを見たこともなかった。内地出身の学生の水準に追いつくのに必死だった。
 大学で学んでよかったかと問われれば、私は即座に肯定するだろう。でも、教えられたかという問いには素直に頷くことはできない。私が大学で得た最大で最高の宝は、教授たちの指導よりも先輩たちや友人たちから得た知的刺戟であった。貧乏を絵に描いたような暮らしを強いられていた私は、大学入学から大学院を終えるまで寮で暮らしたが、あの場所は私にとって最高の学びの場であり、大学が持っている自由と多様性の象徴であった。
 だから、私の学びになにがしかの向上があったとすれば、それは大学という場で与えられた相互に権利を尊重した集団に支えられて獲得されたものだったといってよいだろう。手取り足取り学び方を教えられたことも、ノートのとり方を教えられたことも、論文の書き方を教えられたこともなかった。成長のそれぞれの時点で「見よう見まねで」学び取り、学問らしきものを演じてきたにすぎない。
 誰にでも学びその結果を表現する自由がある。とりわけ大学はその場を保障するものでなければならない。残念なことにこの国の大学制度は、権力の公然たる支配と教授特権をひけらかす勢力に支配され続けてきたといわざるを得ない。学生を学ぶ者としてその地位の向上を保障することなど考えもしない連中、異なった思想や研究方法の尊重、大學内での多様性の尊重などどこ吹く風と無視する輩が力を得ていた。大學内からマルクス主義者やリベラルな学者を排除しようとした占領軍の介入もあり、私が入学した頃の大学では公然たる思想差別と学生の自治活動への介入が横行していた。
  その点では、今の大学は私の時代よりもはるかに深刻だ。「学問の自由」という表現も「研究の自由」という表現も、今のこの国の大学では形骸化し、権力とそれに追随する輩によってみるも無残な状態におとしめられてしまった。私はというと、さぼり遊びまわることで変人の評価を得、それと引き換えになにがしかの自由を享受するという狡猾な道を選んで生き延びてきた。あるいは、大学と学会にそれなりに貢献するふりをして、なにがしかの自由を得た。それはきわどい生き方ではあったが、大学は自身の理想としてあるものだと言い聞かせながら、私は大学の中でぐずぐずと生きたようだ。浰
 現実の大学を離れて私はようやく文字通りの自由を得た。18歳の頃に戻ったのだ。ほっとした。ぐずぐずと生きた時代が少し長すぎたようだが。残された時間は少ないが、面白い時代を体験し考える楽しみは大きい。
 しかし、18歳の頃に私を捉え「学び」に突き動かしくれた好奇心と、83歳の今とでは私の「学び」の立ち位置の違いは明らかだ。あの頃とはまったく違う今の時代の「面白さ」に没入できるのだから。(続く)

  先日83歳になった。その日を迎えるのが待ち遠しく、小躍りしたくなるほどに喜ばしい雰囲気に満たされてその日を迎えた。世に言う還暦でも古希でも米寿などでもない、何か特別に節目のある年齢になったと言うことでもない、ただこの日が不思議と待ち遠しかっただけなのだ。昨年からの体調不良も影響していたかも知れない、極端な気候変動は病み上がりの私の体力にはとにかくこたえた。
 80歳を過ぎてから少しずつ死生観が変わりつつあるような気がする。以前のように長命を期待できる肉体的条件はもはやない。視力は日毎に低下しているし、聴力も徐々に低下している。願いとしてはあと10年も15年も生きたい。やりたいことはまだ一杯ある、美味を追求する欲望はまだ盛んだし、美しい人を見れば心ときめく。そう言うと周囲の人は嗤う。私自身はというと、体調のよい日が続くとそのように願い、そうでなければやはりあと1年かなと気持ちが萎える。その繰り返しだ。
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 人は会うと体調はいかがですかと訊ねる。「こんなもんでしょう」と私は答える。数え切れないほどの医師の診察、投薬、リハビリ、そして散歩、それでもこの年齢になれば、目立って改善されたという状況は起こらないだろう。悪くならないように手を打つ以外に生きようがない。先日も転ばぬ先のなんとかで、杖ならぬ手すりを玄関と勝手口に設置した。古い家の上がりがまちは高すぎて、いつもひっくり返るのではという不安に襲われる。その不安だけは取り付けで消え失せた。
 なぜ長生にこだわるのか。ただ無為に生きようというのではない。やりたいことは限られている。残されている可能性のうちで私が最後までこだわり続けたいのは、「学ぶ者」として生き続けることだ。今のこの面白い時代の結末を経験し考え表現してから死にたいのだ(続く)。

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