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 先日ドイツから来年2019年の手帳が贈られてきた。もう来年が見えてきたのかと愕然とした。そろそろ猪や豚の飾りを準備しなくちゃならないのか。
 今年は今までのところ実にさえない日々が続いた。この夏の連日の熱波を耐えて生きるのが精一杯だった。夏を越せずに逝った人も多かった。そのせいもあってか家に閉じこもりがち、外出はもっぱら病院通いということで、運動不足は極限に達した。よく生きながらえたと思っている。手術前の体調への復帰という願望の実現は遠のくばかりだ。解決しなければならない厄介な病も見つかった。病院通いはまた増える。
 昨年11月の北海道旅行について印象記をブログに載せ、その勢いをかって電子書籍を1冊書き上げるという目標はこれでは実現しそうもない。期限が切られた仕事ではない。考え書く喜びに浸りながら、自己満足のために気ままにやっているのだから、のんびりと構えていたらよいと言い聞かせている。
 そうはいうものの、先がない人生、限られた時間の中で可能な限り中身が濃い厚味のあるものを残したいという内なる切望は抑えがたいのだ。のんびりやろうという身体が求める道との葛藤は来年も続くだろう。来年は干支でいえば猪と豚、幸運と多産の年だ。それにふさわしい知的暮らしが待っているだろうか。
 台風21号の進路と風速の予想を見て、わが家の樹木たちも危ういのではないか、彼らの倒れ方によっては家も損傷する可能性がある、そう考えると不安になった。どんな命も終わりがある、それならこの目でその瞬間を見届けておこうと、嵐が過ぎる瞬間を観察することにした。
 午後2時を過ぎたあたりから空は急に暗くなりうなり始め、風も強くなり出した。1時間ほどの感動であった。樹木はしなれるだけしなりはじめた。台風の接近にあわせて風向きが東から西に変わり、前後左右に揺れた。樹の悲鳴が聞こえるかも知れないと思ったのだが、風のうなりににかき消されたのかそれらしきざわめきは聞こえなかった。
 京都ではこの台風で多数の名木が倒れた。京都御苑の古木、相国寺の松、平野神社の桜、賀茂街道や半木の道の桜の木、紫明通の樹も倒された。台風被害と言えば、その甚大さを視覚的に誇大に表現できるものがいつも報道される。樹、森林の被害、そしてその結果としての景観の破壊にももっと注目が集まってもよいのではないか。
 周囲の深刻な被害を見聞きするにつけ、わが家の樹木は思いの外強靱だった。捨てたものではないと思った。わが家の庭には2本の松がある。出入りの庭師のいうには、幹が一抱えもあるのは、樹齢300年を超えるのではないかという。3代にわたって1世紀近く守られてきたものだが、この小さな庭に移し替えられる前はどのように生きてきた樹だったのだろうか。
 2本の松を中心にこの家を建てた主の好みで植え込まれた樹のほかにいろんな樹木が雑然と生い茂っている。鳥たちがどこかで啄んだ種子を落としていき、それがいつの間にか大きくなったのだ。沢山の鳥が番でやってくる。小さな鳥にとってここはカラスや大型の鳥たちの攻撃を逃れる避難地のようなものだ。
 今度の台風は無事にしのげた。おそらく松の運命を見届けることもできず、私の方が先に死ぬだろう。願わくば、次の世代がいとも簡単に伐採せずにその生命力を尊重してほしい。庭木といえどもそれぞれに命の歴史があり、私たちの生活の同伴者なのだから。
 地震災害、停電など予想外の出来事に巻き込まれて大変なことでしたね。お見舞い申し上げます。
 北海道に生まれ育った私にとって、この地での災害の知らせは他人事とは思えずいつも心痛めています。今回はそれを通り越して腹立たしく狂い立ち、その気持ちは日を追うごとに募るばかりです。火山噴火・地震多発地域である北海道に住んでいれば、この程度の地震を一度や二度は経験しているひとは多いでしょう。高等学校卒業後すぐに北海道を離れた私でさえ、高校2年の時に発生した十勝沖地震の揺れを今でも覚えています。この時は太平洋岸で津波も発生し甚大な被害が出ました。しかし全道が停電し、公共交通がすべて止まるなどということは、あの戦争の時代でも戦後の経済危機の局面でもおきませんでした。
 どしてこうなったのか。責任ある組織と指導者の備えをしなかった怠慢によるものとしかいいようがありません。電力供給に責任を持つ北海道電力の危機管理の水準があの程度のものとは驚きでした。あの地域での地震の発生を想定していなかったのか、なぜ停電したのか、回復はどのように進んでいるのか、泊原発の外部電源喪失の実態はどうなのかについて会社のトップが直接説明したという報道は京都で見ていた限りでは一度も画面に流れませんでし。なぜ現地の企業の説明がないのに、東京の大臣が大雑把なパーセンテージだけをさも自分の手柄であるかのように発表するのか。本土と北海道との権力関係は開拓使の時代からすこしも変わっていないのではないでしょうかか。
 理想の北海道を求め続ける老いぼれヒグマの私の腹立ちは置くとして、皆さんにあらためてお見舞いを申し上げます。
 加齢としっかり歩調をあわせて体力は確実に低下し、身体の機能もそれぞれ弱まってくる。この傾向にあらがってみても仕方のないことだ。それにうまく調子を合わせて生きるのが長命の道だと思ってはいるのだが、寿命をあらかじめ知ることができない以上、この長命への道をやり遂げることはなかなか難しい。
 特に予想もしていなかった病気や事故に遭遇したときなど、先はまったく予想できなくなる。昨年春の胃ガンの手術などもそのよい例だ。突然の体力低下に襲われた。一年以上経っているのに、体力が手術前の水準に戻ったとは到底言えないのだ。しかもである。年齢相応に部分的にがたが来る。歯、眼、耳など次々と手入れが必要になってくる。「こんな筈ではなかった」。生き続けることがこれほどまでに手間のかかるお金がかかることだとは考えもしなかった。
 
 手入れの最初は歯の治療から始まった。高齢とともにいずれ歯が抜け落ち死に至るとは考えていた。野生の世界ではまさにそうなのだから、人間もそうだろうと考えていた。歯が弱り抜け落ちることは死を意味するのだ。
 治療台にあがって治療が始まってからK先生の言うには、「入れ歯にしますか、それともインプラントにしますか」「佐々木さんの生活態度ではインプラントがよいと思いますよ」、子どもの時からの暮らしぶりで身についた無精を見抜いておられた。毎日規則的に入れ歯を外して清潔にするなど不精者の私にはできない相談だった。「先生、噛む力ではどちらが上でしょうか」「インプラントの方がよいと思いますよ」「それでは先生にすべてお任せします」。
 その時頭をよぎったのは、なお食べ続けたい食のことだった。噛めば噛むほど味が出る干し肉、大好きなナッツの数々、そうだ「まだまだ食べたいものがある」。支払い能力を度外視して、なお食いしん坊であり続けたいる欲求のままに私の方針はこのように治療台の上で決まった。

 
 私が子どもの頃には、高齢者の容貌からその人の社会的経済的地位を判断できたものだ。その第一は入れ歯の有無だった。金やプラチナのかぶせをした入れ歯は金持ちどもを戯画化する際の常套手段だった。金の入れ歯をした腹の出た血色のよい男、これが金持ちの象徴であった。これに対して前歯が欠けて痩せ細った姿、これが貧乏人であった。前歯が欠け歯茎で咀嚼せざるをえない老人たちのすがたは滑稽に見えた。私たち子どもは「歯っ欠けじじい」「歯っ欠けばばあ」とはやしたてたものだった。
 100歳まで生きる時代だと喧伝する輩がいる。よく考えてみたらよい。衰えてゆく肉体の部分を補綴する費用をいったい誰が負担してくれるというのか。その点で言えばこの国の医療保険制度には問題があるように思われる。老化に伴う費用はすべて自己負担で、100歳までどのよう生きられるというのか。富めるものはますます長命に、貧しいものはますます短命に、100歳までの生きる時代という誰が言い出したのかわからない主張は、私にはそのように聞こえてならないのだ。私自身はどちらに属するかって聞かれたら、こう答えたい。「これまではなんとかやりくりできた、これからのことはわからない」「こんな筈ではなかった」。


 3週間ほど前、待ちに待った人工歯が出来上がった。新聞報道によると最近は技工士不足で深刻な状態という。しまも患者の年齢層をみると、高齢者の比重は高まるばかりで、私の通う歯科もその例外ではなかった。出来上がるまで十分に待たされた。
 出来上がった歯は口の中のそれそれの場所にはめ込まれた。ピタリとはまった。口腔を長きにわたって支配していた仮歯はようやくすべて外された仮歯を壊さぬよう負担の少ない食材を選び恐る恐る食べていた日常から解放され、大胆にかみつき咀嚼できるようになった。さっそくすき焼きに挑戦し、あまさずたいらげた。美味、言うことなし。まだまだ活力がある。餅も食べた、ナッツもジャーキーも試した。すべて問題なし。これで体力回復という昨年来の困難な仕事も順調に進むだろう。
 でも不安は次々と浮かんでは消える。次はいったいどこが弱ってくるのか、耳か目か。歯にしたって、まだかなりの本数が残る自前の歯を不精者の私が十分に手入れして維持できるとは思われない。だが、そのような不安の増幅とうまく付き合っていくのも、それはそれで人生の終末期の生きがいなのかも知れない。「まだまだ食べたいものがある」、このむき出しの欲望表現と不安との葛藤があり、生き続けたいという意志がなお内に秘められていると言うことは、私の人生まだ捨てたものではないということかもしれない。(2018.8.13)

82歳 - 北仁人雑録

 82歳になった。去年は胃ガンが発見され、その頃に入院し、手術していたから、あまりよい気分ではなかった。なんとか体調を回復して再出発となるはずだった今年も、どうも気分がすぐれない。
 昨年末から多くの訃報が寄せられた。あの人を目標にと秘かに思いを寄せていた先輩の学者たちの死に気落ちし、あれほどまでに聡明な人間でも脳の劣化が始まるのかと暗澹とさせらたりもした。私の身体の劣化は胃ガンで始まってよかったなどと妙な慰めの思いを、気持ちの中で繰り返している。
 それに加えてこの冬の寒さである。北海道生まれで寒さに強いと自負していたのに、身に応えた。インフルエンザの大流行に怯え、雑踏をものともせず外出していた気力はどこかに行ってしまい、おそるおそる生きる消極的な毎日だった。
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 このような弱気にはじまって、あっという間に時が経過し、2月も終わろうとしている。よろよろ歩きの老いぼれヒグマと自嘲してはいても、そろそろと冬眠から覚めて穴から這い出すべきではないか。その決意を込めて、数日前机の上のディスプレイを大きなものに買い換えた。大きな文字で入力できるし、それに前屈みになってのぞき込むような姿勢をとることも少なくなった。これなら体力に余裕ができて仕事を楽しくやれる。今年は今書きかけている部分ができれば、編集の仕事に入る。これならできそうだ。当たり前のこ
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とだが、体力の弱まりに合わせて仕事の(それだけでなく生活そのものの)やり方を変えていくことが重要だと、あらためて思い知らされている。
 80代をどう生きるべきか、この問いは愚問と言うほかはない。その種の教訓を垂れる書物は最近増えているが、個人としての体験を述べるだけならともかく、自分の体験を普遍化して書いているものは、有害無益と断定してもよいのではないか。自分の生命力がどこまで維持できるのか、どこでどのように尽きるのかは、どんなに聡明な人でもわからない。活力に満ちて生きる世代とは違う。願いとしては90代まで生きたいと思う、しかし今の体力から見れば、せいぜいのところ数年を予想できるにすぎない。
 そうはいいながら、なお残る好奇心と欲望はさかんにできる限り長く生きよと叱咤する。この面白いほど激動する時代に考えたい書きたいことは山ほどある。まだ読んでいない本はうずたかく積まれている。それに、まだ食べ尽くしたという気には到底なれない。「終活」などほったらかして楽しく生きよ、頭の中の自分はそのように求めている。
 
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11月26日(日)午後、永原診療会年末祭に出かけた。毎年淨福寺通上立売上ルの広場で開かれる。年末祭といいながら11月末に開催され、この地域の恒例の行事になっている。この数年天候が悪く、昨年は土砂降りの雨だったが、今年はなんとか天候はもった。私も含め参加した人の平均年齢は高いのだから、不安なく参加できてうれしい。
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 その時に撮影した写真を数枚。最後は六歳念仏でしめたのだが、私は少々お疲れで中座し帰宅。
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 9月の話である。小さな音楽会の案内を頂いて出かけた。長年西陣で地域医療に携わってきた永原診療会の企画で、私は今の病気を発症以来お世話になっている。会場は淨福寺上立売上ルにある織成館の催物会場、須佐命舎である。織成館は西陣織の老舗渡文さんが社屋を改築して西陣織宣伝の場所としてこしらえてもので、そのなかにこの会場がある。
 上立売通から寺ノ内通までの間の淨福寺通は石畳に変えられ、織物工房が集められている。確かにきれいにはなっている。しかしかっては職人たちが製品や半製品を持っていそがしく行き交っていたその雰囲気はもうない。周辺では空き家が増え、廃墟に近い家も目立ちはじめた。外国人観光客向けのゲストハウスもやたらと増えた。このまちがが歴史の中で培ってきた大事なものが確実に失われはじめている。
 それでもこの地域にはまだ都市があるべき姿の名残がる。まちが持つ生産の機能、地域に
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密着した商業活動、地域医療、そしてたくさん祭、地域に根付いた芸術活動、それらが渾然一体となって西陣という地域の魅力を作り上げている。それがまだ光っている。知恵を出しあえばまだ手遅れにはならない。
  このコンサートも診療会の医師、看護師、職員、患者が参加して盛会だった。
 京都に住みながら西陣の中心に足を運ぶ機会はほとんどなかった。立命館大学に用事があるときに時々鞍馬口通りを西に歩いて柏野あたりを通り過ぎるくらいだったろうか。6年ほど前に持病が急変し、身体が動かなくなってしまった。病院、医者をいくつか渡り歩いて永原診療会のリハビリとストレッチに行き着き、それ以来なんとか体力を維持している。
 その頃から診療所を起点にして散歩をはじめた。千本通を北から南に歩くことからはじまり、この通を軸に西陣の深部に向かい歩きはじめた。この散歩が実に面白く、いまだに続いている。このまちの奥深さと衰退に見るはかなさ、悲しさとを同時に観察できた。まだ現役で頑張っている仕事場と織機、職人たちの姿、戦前から続く飲み屋、食堂、喫茶店も生き残りに精一杯努力している。それらはどこをとっても魅力があり、書いてみたくなる。健康維持の目的で散歩をはじめたたのに、いつの間にかこのまちの魅力のとりこになりはじめていたのである。
 胃がんが見つかりすぐに手術、入院期間はそんなに長くはなかったのだが、筋肉と体力の衰え方は想像以上で前と同じ調子で歩くことは困難になった。退院後6ヶ月が過ぎなんとか足の力は回復したような気がする。再開したいという気持ちがうごめきはじめた。
 診療所でよくご一緒する福岡さんの工場が炭素繊維を布を織り上げることに成功して新製品を開発したという記事が新聞紙上で話題になっていた。炭素繊維という最先端の工業技術で生み出された高価な繊維と西陣織のような伝統的技法がどのように結びつくのか、衰退を押しとどめる策となり得るのか、関心があった。見せてほしいという厚かまし願いを聞き入れて頂いて、9月8日午後に仕事場にお伺いすることになった。ここから再開することにした。
 
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 フクオカ機業のある上京区淨福寺通五辻東入のあたりは何度も通った道なのだが、そのような工場があることにまったく気がつかなかった。西陣織の最盛期にはおそらく狭い淨福寺通の両側、路地には織屋さんがひしめいていて、荷を運ぶ職人たちが忙しく行き交う通りであったはず。いまでは看板を掲げた町家は何軒か残ってはいるが、路地からも長屋からも機を織る音は聞こえてこない。最近ははやりのゲストハウスの暖簾のほうがやたら目立つようになった。
 本輶寺の美しく仕上げられた土塀の前を過ぎて、上立売との交差点から先は石畳になり、両側に仕事場が並ぶ。もともとこの通りにあった仕事場を新しくしたのか、他から移したのかわからないが、その一つ一つを訪ねる楽しみはこれからの散策にとってある。
 この通り、何の変哲もないどこにでもある通りに見えるが、機織りの音、職人たちのざわめき
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は聞こえなくても、私は往時の繁栄を想像できて歩き観察するだけでうれしくなり、その衰退の姿にも同調させられるのだ。私は職人の子である。父を継げななかったのは、その才能がまったくなかったからだ。戦後職人の経済的地位は急落し、継ぐどころではなかったし、戦後の教育民主化は私に父とまったく違う道に歩み出すことを可能にしてくれたのだった。私が職人のまちをあるいて感じるある種の共感は、私の中にあるなりそこねたけれどもまだ残る何かが共振
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するからに違いない。このまちの散策は、私にとって回想の時を与えてくれるまさに至福の時なのだ。(2017.9.15)
 7月15日がまためぐってきた。10数年前頃に気持ちが大きく変わるまでは、私にとってははこの日は、再現したくない悪夢のような情景をよみがえらせる日だった。そのため、1945年(昭和20年)のこの日まで確実にそこにあった私の家の焼跡に、私は数十年間立つことはなかったのである。
 逃げ遅れて焼死した祖母の亡骸を町営火葬場は通常に火葬することは不可能だった。あの日の翌日、父は家の焼跡でまわりの焼け残った木を集めて荼毘に付して息子として家長としての務めを一人で果たしたのであった。その日の午後か翌日に、私は家族と一緒に骨を拾いに焼け跡に向かった。骨壺も骨箱もなく、近くで拾った焼けただれた石油缶がその代わりになった。骨太だった祖母の遺骨はことのほか多く、缶に入りきらず無理矢理押し込んだ。祖母は頭が大きい人だったから、まだ脳が黒く焼け残る頭骸骨の処理には苦労した。
 空襲とあの日の記憶は、つい先日のことのように生々しく私の脳髄に擦り込まれている。足裏で感知した大火による地熱をいまでも鮮明に思い出せる。アメリカ海軍艦載機グラマンの人をすくませるような急降下爆撃の轟音、機銃掃射、爆弾投下の音、どの体験も悪夢以外の何物でもない。
 あの数日の出来事は、私の深部に癒やしがたい深い傷として今も残る。私にとってあの現場での家族のやりとりは、いまだに人間不信の根として私の心の深層に潜んでいる。このことは言葉にできることではなかった。

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 10数年前頃から私のこの気持ちは大きく変わった。封印していた記憶を解放しなければならないと思うようになっている。戦争の記憶の中で生きざるを得ない世代が少数になり、好戦的態度がさしたる抵抗も受けずに主張され受容され始めている。無能で無責任な権力者によって特攻に駆り出され無残にも殺された若者たちが「英雄」にまつりあげられる時代が再来するとは、私は考えだにしなかった。それだけに、死ぬまでに自分の体験と考えを書き残しておこうと気持ちを切り替え始めたのだ。
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 私は記憶喪失症のような状態で生きてきた。あの日以前の私の周りの風景、私と家族の記録はすべて消え去った。実にさびしいことではないか。残っているのは真実かどうか確かめようもない記憶、それもきわめて僅かなものだ。子どもの頃の記憶を綴ることは、感傷的という表現が最もよくあてはまるだろう。その雰囲気はどうみてもすぐには勇ましい「反戦」の意思表明には結びつかない。しかし最近になって、「感傷」ではあっても、それが全体像に展開できる契機ともなれば「怒り」と同じように大きな力になるのではないか、そう考えるようになった。これまでに書いた朝鮮人強制連行や徴用船の問題も、子どもの頃の「感傷」が出発点だった。それでもよいのではないか。
 書いてみようと決意してあのまちを訪れ、かっての焼跡のあたりに立ってみた。私が拒否してきた数十年のそれとはまったく違った感覚のなかにいる自分を発見したのだった。私はあの日に生き延びられたのだ。私の家の筋向かいの旅館三洋館の裏手から火が出たと壕の中で騒ぎ始めた。男たちが組織する消防団ではとても消しようのないもののようで、火に巻かれるまえに逃げようと壕に避難している人びとは口々に言はじめた。どこに逃げろというのか、指示はまったくなかったと思う。勝手に逃げろと言うことだ。父は祖母の救出にかかりきりで家に残り、母と二人の弟と一緒に脱出した。坂を登ったあたりで第二波の攻撃に遭遇し、近くの防空壕に逃げ込んだ。爆弾が近くに落ち、潰れんばかりに揺れた。敵機が去り、とにかく逃げようと壕をでた。坂の上から私の家の方を見ると、三洋館のあたりはこれまでに体験したこともない火勢の柱になって炎上していた。あの炎の影には多くの死があった。私の祖母を含む幾人かの住民、消火に駆けつけた消防士たち、兵隊たち、徴用船の兵士と船員たち。あの時逃げる判断が少しでも遅れていれば、確実に炎に巻き込まれ、あそこで殺された人びとのいまだに未完成の一覧表に名を連ねていたはずだった。
 逃げ込んだ壕を揺るがせた爆弾は、50メートルと離れていない場所に落ちていた。まかり間違えば壕を直撃し、今の私はなかったろう。戦慄した。私はあの時に幸運にも生き延びられたのだった。生かされたのだと、つくづく思った。
 それ以来、思い出して書くことに突き動かされてきた。仕事はいつ終えられるだろうか、読んでくれる人は果たしているだろうか、読まれるに足る水準のものに仕上げられるだろうか。不安は募るが、とにかく書かねばならない。
 写真を説明しておこう。空襲の翌日か翌々日あたりに撮影された本町埋立地の様子である。新聞記者が撮影したものだろうか。まだ燃え続けている。消火に駆けつけ火に巻き込まれ炎上した消防車3台、銃撃で沈没した徴用船も写っている。写真の右下に写る坂道を下って一筋目の角に三洋館があり、そこを右折してすぐのところに私の家があった。撮影者がカメラをもう少し左によせていたら写っていただろう。この写真を発見したとき、この写真が示す残酷さの含意に私は思わず落涙したものだった。
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 後藤嘉七は治安維持法の犠牲者としてはけっして著名な人ではない。和歌山高商(現在の和歌山大学経済学部)を卒業して東北敵国大学法文学部経済学科(現在の東北大学経済学部)に進み、服部英太郎教授の演習に参加している。彼の逮捕については、『特高月報』昭和17年(1942年)3月分に記録されている。添付した写真を見てほしいのだが、念のためここに全文を収録しておこう。

 「五、東北帝国大学内左翼学生事件竝取調進展状況
 宮城県当局に在りては一時停滞の状態にありたる東北帝国大學内左翼運動が支那事變の長期化と複雑微妙なる国際情勢に刺戟せられ、漸次進歩的学生を糾合して壊滅せる學内左翼陣営の再建を企圖し、其の活動益々熾烈化の傾向あるを探知し、二月一九日容疑学生法文学部経済部二年生後藤嘉七他一名を検挙取調中、後藤の陳述に依り、現立教大学教授宮川實當四十七年は曽て和歌山高商教授として奉職中、昭和十二年頃より當時和歌山高商在學中の後藤嘉七グループを指導啓蒙し、後藤が東北帝大入學後も引續き連絡關係を持ち、同大學内左翼學生グループの中心的指導者として、諸般の活動を為し居たること判明せるを以て、本月十五日検擧取調中なり。」(6ページ)

 要するに、東北帝大の左翼學生を内偵していたら、文字通り「ひょうたんから駒」で、和歌山高商の左翼の「首魁」にたどり着いたというのだ。後藤の逮捕を特高が重要視したのもうなずける。当時の和歌山高商の左翼のもう1人の「首魁」北川宗蔵についての評伝を書いた中村福治は、後藤に直接取材して当時のいきさつを明らかにしている。後藤(中村はGとイニシアルで示している)は東北大学入学後、學内の左翼グループ(内藤知周、大島清ら)と親しくなり、読書会などを組織していた。當時特高は服部英太郎の検挙の機会を狙っており、そのために周辺にいる学生を内偵していたようだ。後藤は周辺に検挙が及びはじめて身の危険を察知し、本や日記などを愛知県の実家に送ったのが、それがたまたま特高に押収されることになり、検挙に至ったという(中村福治『北川宗蔵ー一本の道をまっすぐにー』創風社、1992年8月、115ページ)。後藤の逮捕は2人の大物の逮捕につながる重要なものだったのだ。

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 肝心の服部英太郎はいつ検挙されたか。彼は後藤の逮捕と同じ年の十一月十一日に検挙されている。『特高月報』昭和17年(1942年)11月分に「元東北帝国大學教授の治安維持法違反事件検挙状況」として記載がある。

 「右(服部英太郎のこと)は東北帝国大學内に於ける共産主義運動の中心的指導者として豫て宮城県当局に於いて行動鋭意内偵捜査の結果容疑濃厚なる犯罪事實判明するに至りたるを以て本月十一日同人を檢擧(召喚)及關係家宅捜査を施行すると共に引續不拘束の儘目下取調中なり。」(5-6ページ)

 服部英太郎は、私の知る限り文字通り学究の徒であって、「運動の中心的指導者」となり得るような人ではなかった。文部省と内務省は彼を追放して学問の世界にまだ残るマルクス主義の影響を一掃したかったのだ。そのためにまず学生たちの弾圧から始めたのである。太平洋戦争の開戦の年から翌年にかけて多くの学生が検挙されたという(東北大学百年史編集委員会編『東北大学百年史』、東北大学教育研究振興財団、2003年5月ー2010年3月、第1巻(通史1)435-436ページ)。この大学年代記でも逮捕、起訴された学生たちの具体的な氏名は記述されていない。把握していなかったためか、それとも本人たちの戦後の事情を考慮してのことか、わからない。
 戦後、服部英太郎他治安維持法によって失職していた教員は復職した。しかし学生たちの地位はどのように回復されたのだろうか。その記述はない。治安維持法で基礎されると、当時はたいていの場合無期停学の処分を受けたようだ。有罪となれば退学処分をうけただろう。東北大学が後藤の名誉を回復し復学させたのかどうか、その点の記述はない。私も後藤に確認しそびれた。
 私が後藤嘉七と知り合ったのは、大阪に職場を移してからだ。彼は大阪で繊維関係の企業の経営し、革新的、開明的経営者としても活躍されていたから、いろんなところでお目にかかる機会があった。企業業績がそれほど悪化しないうちに会社を清算して従業員に配分されたと聞く。その後は工場跡地でテニスクラブを経営されていた。亡くなられて10年ほど立つだろうか。
 知人を取り上げるのだから、せめて「さん」付けにすべき所だったが、ここでは略することにした。上述の中村福治の仕事では、Gというイニシアルになっている。存命であったうえ、後藤自身が実名を出すことを固辞されたのであろう。『特高月報』その他に実名で公表されてはいるものの、なお周囲への影響を考慮されたためかも知れない。あるいは後藤の謙虚な性格がそうさせたのかも知れない。彼が亡くなってからかなりの年月が経過しているし、治安維持法による犠牲を後世に継承していくためにも、実名で書くことが必要と私は考えた。
 後藤の事を書くとき、学生運動の渦中にあった私は教員の犠牲者のことにばかり目を向けて、多くの学生たちの犠牲に気づくことがなかった。学生はその批判的態度によって大学の自治の最も重要な担い手であることを主張しながら、先輩たちの犠牲の歴史を発掘し、その意義を示せなかった自分を恥じている。
 今のような時代だからこそ、つたない文章でも書き残して私の世代の責任をおそまきながらいくらかでも果たしたいと思うのだ。(2017.7.1)

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