7月15日がまためぐってきた。10数年前頃に気持ちが大きく変わるまでは、私にとってははこの日は、再現したくない悪夢のような情景をよみがえらせる日だった。そのため、1945年(昭和20年)のこの日まで確実にそこにあった私の家の焼跡に、私は数十年間立つことはなかったのである。
 逃げ遅れて焼死した祖母の亡骸を町営火葬場は通常に火葬することは不可能だった。あの日の翌日、父は家の焼跡でまわりの焼け残った木を集めて荼毘に付して息子として家長としての務めを一人で果たしたのであった。その日の午後か翌日に、私は家族と一緒に骨を拾いに焼け跡に向かった。骨壺も骨箱もなく、近くで拾った焼けただれた石油缶がその代わりになった。骨太だった祖母の遺骨はことのほか多く、缶に入りきらず無理矢理押し込んだ。祖母は頭が大きい人だったから、まだ脳が黒く焼け残る頭骸骨の処理には苦労した。
 空襲とあの日の記憶は、つい先日のことのように生々しく私の脳髄に擦り込まれている。足裏で感知した大火による地熱をいまでも鮮明に思い出せる。アメリカ海軍艦載機グラマンの人をすくませるような急降下爆撃の轟音、機銃掃射、爆弾投下の音、どの体験も悪夢以外の何物でもない。
 あの数日の出来事は、私の深部に癒やしがたい深い傷として今も残る。私にとってあの現場での家族のやりとりは、いまだに人間不信の根として私の心の深層に潜んでいる。このことは言葉にできることではなかった。

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 10数年前頃から私のこの気持ちは大きく変わった。封印していた記憶を解放しなければならないと思うようになっている。戦争の記憶の中で生きざるを得ない世代が少数になり、好戦的態度がさしたる抵抗も受けずに主張され受容され始めている。無能で無責任な権力者によって特攻に駆り出され無残にも殺された若者たちが「英雄」にまつりあげられる時代が再来するとは、私は考えだにしなかった。それだけに、死ぬまでに自分の体験と考えを書き残しておこうと気持ちを切り替え始めたのだ。
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 私は記憶喪失症のような状態で生きてきた。あの日以前の私の周りの風景、私と家族の記録はすべて消え去った。実にさびしいことではないか。残っているのは真実かどうか確かめようもない記憶、それもきわめて僅かなものだ。子どもの頃の記憶を綴ることは、感傷的という表現が最もよくあてはまるだろう。その雰囲気はどうみてもすぐには勇ましい「反戦」の意思表明には結びつかない。しかし最近になって、「感傷」ではあっても、それが全体像に展開できる契機ともなれば「怒り」と同じように大きな力になるのではないか、そう考えるようになった。これまでに書いた朝鮮人強制連行や徴用船の問題も、子どもの頃の「感傷」が出発点だった。それでもよいのではないか。
 書いてみようと決意してあのまちを訪れ、かっての焼跡のあたりに立ってみた。私が拒否してきた数十年のそれとはまったく違った感覚のなかにいる自分を発見したのだった。私はあの日に生き延びられたのだ。私の家の筋向かいの旅館三洋館の裏手から火が出たと壕の中で騒ぎ始めた。男たちが組織する消防団ではとても消しようのないもののようで、火に巻かれるまえに逃げようと壕に避難している人びとは口々に言はじめた。どこに逃げろというのか、指示はまったくなかったと思う。勝手に逃げろと言うことだ。父は祖母の救出にかかりきりで家に残り、母と二人の弟と一緒に脱出した。坂を登ったあたりで第二波の攻撃に遭遇し、近くの防空壕に逃げ込んだ。爆弾が近くに落ち、潰れんばかりに揺れた。敵機が去り、とにかく逃げようと壕をでた。坂の上から私の家の方を見ると、三洋館のあたりはこれまでに体験したこともない火勢の柱になって炎上していた。あの炎の影には多くの死があった。私の祖母を含む幾人かの住民、消火に駆けつけた消防士たち、兵隊たち、徴用船の兵士と船員たち。あの時逃げる判断が少しでも遅れていれば、確実に炎に巻き込まれ、あそこで殺された人びとのいまだに未完成の一覧表に名を連ねていたはずだった。
 逃げ込んだ壕を揺るがせた爆弾は、50メートルと離れていない場所に落ちていた。まかり間違えば壕を直撃し、今の私はなかったろう。戦慄した。私はあの時に幸運にも生き延びられたのだった。生かされたのだと、つくづく思った。
 それ以来、思い出して書くことに突き動かされてきた。仕事はいつ終えられるだろうか、読んでくれる人は果たしているだろうか、読まれるに足る水準のものに仕上げられるだろうか。不安は募るが、とにかく書かねばならない。
 写真を説明しておこう。空襲の翌日か翌々日あたりに撮影された本町埋立地の様子である。新聞記者が撮影したものだろうか。まだ燃え続けている。消火に駆けつけ火に巻き込まれ炎上した消防車3台、銃撃で沈没した徴用船も写っている。写真の右下に写る坂道を下って一筋目の角に三洋館があり、そこを右折してすぐのところに私の家があった。撮影者がカメラをもう少し左によせていたら写っていただろう。この写真を発見したとき、この写真が示す残酷さの含意に私は思わず落涙したものだった。
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 後藤嘉七は治安維持法の犠牲者としてはけっして著名な人ではない。和歌山高商(現在の和歌山大学経済学部)を卒業して東北敵国大学法文学部経済学科(現在の東北大学経済学部)に進み、服部英太郎教授の演習に参加している。彼の逮捕については、『特高月報』昭和17年(1942年)3月分に記録されている。添付した写真を見てほしいのだが、念のためここに全文を収録しておこう。

 「五、東北帝国大学内左翼学生事件竝取調進展状況
 宮城県当局に在りては一時停滞の状態にありたる東北帝国大學内左翼運動が支那事變の長期化と複雑微妙なる国際情勢に刺戟せられ、漸次進歩的学生を糾合して壊滅せる學内左翼陣営の再建を企圖し、其の活動益々熾烈化の傾向あるを探知し、二月一九日容疑学生法文学部経済部二年生後藤嘉七他一名を検挙取調中、後藤の陳述に依り、現立教大学教授宮川實當四十七年は曽て和歌山高商教授として奉職中、昭和十二年頃より當時和歌山高商在學中の後藤嘉七グループを指導啓蒙し、後藤が東北帝大入學後も引續き連絡關係を持ち、同大學内左翼學生グループの中心的指導者として、諸般の活動を為し居たること判明せるを以て、本月十五日検擧取調中なり。」(6ページ)

 要するに、東北帝大の左翼學生を内偵していたら、文字通り「ひょうたんから駒」で、和歌山高商の左翼の「首魁」にたどり着いたというのだ。後藤の逮捕を特高が重要視したのもうなずける。当時の和歌山高商の左翼のもう1人の「首魁」北川宗蔵についての評伝を書いた中村福治は、後藤に直接取材して当時のいきさつを明らかにしている。後藤(中村はGとイニシアルで示している)は東北大学入学後、學内の左翼グループ(内藤知周、大島清ら)と親しくなり、読書会などを組織していた。當時特高は服部英太郎の検挙の機会を狙っており、そのために周辺にいる学生を内偵していたようだ。後藤は周辺に検挙が及びはじめて身の危険を察知し、本や日記などを愛知県の実家に送ったのが、それがたまたま特高に押収されることになり、検挙に至ったという(中村福治『北川宗蔵ー一本の道をまっすぐにー』創風社、1992年8月、115ページ)。後藤の逮捕は2人の大物の逮捕につながる重要なものだったのだ。

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 肝心の服部英太郎はいつ検挙されたか。彼は後藤の逮捕と同じ年の十一月十一日に検挙されている。『特高月報』昭和17年(1942年)11月分に「元東北帝国大學教授の治安維持法違反事件検挙状況」として記載がある。

 「右(服部英太郎のこと)は東北帝国大學内に於ける共産主義運動の中心的指導者として豫て宮城県当局に於いて行動鋭意内偵捜査の結果容疑濃厚なる犯罪事實判明するに至りたるを以て本月十一日同人を檢擧(召喚)及關係家宅捜査を施行すると共に引續不拘束の儘目下取調中なり。」(5-6ページ)

 服部英太郎は、私の知る限り文字通り学究の徒であって、「運動の中心的指導者」となり得るような人ではなかった。文部省と内務省は彼を追放して学問の世界にまだ残るマルクス主義の影響を一掃したかったのだ。そのためにまず学生たちの弾圧から始めたのである。太平洋戦争の開戦の年から翌年にかけて多くの学生が検挙されたという(東北大学百年史編集委員会編『東北大学百年史』、東北大学教育研究振興財団、2003年5月ー2010年3月、第1巻(通史1)435-436ページ)。この大学年代記でも逮捕、起訴された学生たちの具体的な氏名は記述されていない。把握していなかったためか、それとも本人たちの戦後の事情を考慮してのことか、わからない。
 戦後、服部英太郎他治安維持法によって失職していた教員は復職した。しかし学生たちの地位はどのように回復されたのだろうか。その記述はない。治安維持法で基礎されると、当時はたいていの場合無期停学の処分を受けたようだ。有罪となれば退学処分をうけただろう。東北大学が後藤の名誉を回復し復学させたのかどうか、その点の記述はない。私も後藤に確認しそびれた。
 私が後藤嘉七と知り合ったのは、大阪に職場を移してからだ。彼は大阪で繊維関係の企業の経営し、革新的、開明的経営者としても活躍されていたから、いろんなところでお目にかかる機会があった。企業業績がそれほど悪化しないうちに会社を清算して従業員に配分されたと聞く。その後は工場跡地でテニスクラブを経営されていた。亡くなられて10年ほど立つだろうか。
 知人を取り上げるのだから、せめて「さん」付けにすべき所だったが、ここでは略することにした。上述の中村福治の仕事では、Gというイニシアルになっている。存命であったうえ、後藤自身が実名を出すことを固辞されたのであろう。『特高月報』その他に実名で公表されてはいるものの、なお周囲への影響を考慮されたためかも知れない。あるいは後藤の謙虚な性格がそうさせたのかも知れない。彼が亡くなってからかなりの年月が経過しているし、治安維持法による犠牲を後世に継承していくためにも、実名で書くことが必要と私は考えた。
 後藤の事を書くとき、学生運動の渦中にあった私は教員の犠牲者のことにばかり目を向けて、多くの学生たちの犠牲に気づくことがなかった。学生はその批判的態度によって大学の自治の最も重要な担い手であることを主張しながら、先輩たちの犠牲の歴史を発掘し、その意義を示せなかった自分を恥じている。
 今のような時代だからこそ、つたない文章でも書き残して私の世代の責任をおそまきながらいくらかでも果たしたいと思うのだ。(2017.7.1)
 札幌市のS水産から時々送られてくるカタログの表紙に季節限定の「北海しまえび」の広告があった。このエビのうまさは喩えようがない。欲求を抑えがたくぼくの在宅快気祝いはこれでやろうと決め、早速注文した。贅沢なことだ。まあ一生に一度のことだから許されるだろうと思った。
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 この海産物には思い出がたくさん詰まっている。戦前の子どもの頃、いつも振り売りの女性が魚を天秤棒で担いで私の家に売りに来る。祖母キノは夫に早くに逝かれ、魚の行商で一家を支えたふりうりの彼女たちの大先輩だった。そういうこともあってか、行商の女性たちの出入りが多い家だった気がする。「エビ」もその頃によく見た海の幸だった。一升枡を使っていた。ぴちぴちと跳ね回るエビを枡に盛り上げ、「はいおまけ」といって数匹を枡に加えるのだ。彼女たちはおまけをしても損にならない程度を会得していたのだが、子どものぼくには気前のよい行為に見えた。しかし、あの頃食したエビの味は思い出せないのだ。
 戦後、大学に進んだばかりの18歳の時のことだ。当時ぼくは別海町の網元Mさんのご子息の家庭教師をしていた。その縁で夏休みに野付湾での漁に招待された。鮭定置網漁も楽しかったが、一番は「北海しまえび」漁だった。
 エビは海藻が密集する浅瀬に生息する。馬の尻尾のような形状の野付半島に遮られて野付湾はエビにとって格好の生息地である。エンジン付きの舟ではスクリューに海藻が絡み舟を操作できないから、帆掛船を使う。
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たと記憶する。網で獲ったばかりのエビを船上で七輪を使ってくみ上げた海水でゆで上げる。美味、そうとしか表現しようがないあの味は今も忘れられない。
 あの日の陽光はドイツの初夏そのものだったことを思い出していた。ライン川を舟で旅しても、川沿いを列車でいっても、何度旅してもあの景色はドイツそのものだ。「北海しまえび」にはドイツワインがあうと勝手にきめ込んだ。ライン川中流域ラインガウのワインをはり込んだ。
 至福の時。しかもそれぞれの風土と景観を思い起こしながら賞味できるとは。生涯に一度とはいいながら、このような舌と心の贅沢をまた口実を作ってやってみたくなる。(2017.6.24)

酒なくて・・・ - 北仁人雑録

 退院してほぼ3ヶ月が過ぎた。先週土曜日退院3ヶ月目の診察で執刀医は順調な回復との判断、胃が手術前の水準に回復するにはあと3ヶ月の養生が必要という。おそるおそる気になっていることを訊ねてみた。お酒はそろそろ飲んでもよろしいでしょうか。まあ少しずつ試してみて下さい、急に酔いが回って失敗する人もありますよ。
 病院近くの中央卸売市場にある「すし市場」ですしをつまみながらの早速の飲酒。何ヶ月間、酒を断っていただろうか。ガンを宣告され手術を決意したときからだから5ヶ月以上にはなるだろう。小さくなった胃をするりと通り抜け、気にしていた急な酔いも来なかった。酒を本当にうまいと思った。ささやかだが、私の長い飲酒人生で最高の酒宴となった。もちろん医師の忠告通り、お猪口で2杯に止めた。
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 昨日、まちに買い物に出たついでになじみの「くりた」に立ち寄り昼食をとった。タクシーの運転手に行き先を団栗橋西詰と告げると、お客さん、あのあたりで昼食とは豪勢ですなとからかわれた。なじみの店なら、量も好みも無理を聞いてくれるし、時間をかけて食事できるしね。
 店主のすすめで、日本酒のオンザロックを楽しんだ。この次はどういう仕掛けで酒を試してみようか。ワインもいいかな。いろいろ構想している。考えるだけでも楽しいことだ。酒なしでの会食、酒抜きでの外での夕食など考えられないものね。
 「酒なくてなんの己が桜かな」
(2017/06/21)
  あの頃の授業で記憶に残るのは、現人神(人間にして神)である万世一系の天皇への絶対的な臣従をたたき込む画一的な指導だけだ。皇国史観などという表現をよく聞くが、国民学校でたたき込まれた歴史観はそんな生やさしいものではなかった。それは今の時代には想像もできない非科学的な神話的歴史観、神話とねつ造された歴史の混交物であった。
  神武が高千穂の峰に降臨して東征し国を建てたのが日本国の始まりで、それ以来この皇統は神武に始まり今上にいたる「2600年」連綿と続くと教え込まれ、それを暗記させられた。
 修身という科目は、イザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオ、オオクニヌシ等が登場する神話的挿話をちりばめながら、天皇制を危機に陥れた逆賊の告発とそれに抵抗した忠義の臣の話が続く。特に南朝正統論にもとづいて足利尊氏を逆賊とし、南朝に殉じた楠木正成一族を忠義の権化として持ち上げた。
 「修身」の授業で教育勅語が教材として解釈され説明されることなどあり得ないことだった。神聖にして侵すべからざる天皇の詔(みことのり)を教員が解釈するなど不敬に値した。それは諳んじて脳髄に擦り込むことだけが求められた。憲法というものがあるということなど教えられたこともなかったし、あることも知らなかった。
 当時の教師(訓導と呼ばれていた)はこのような理不尽で反知性的な歴史観を良心の呵責に苦悩することもなく子どもたちに強制していたのだろうか。子どもの個性を押し殺し、兵士になる基礎として画一的な知識をひたすら教え込んだ彼らは一体教師と呼ぶにふさわしい能力も品性も持ち合わせていなかったのではないか。戦争が終わっても彼らは子どもたちに戦時下での教育を謝罪したことはなかった。彼らは自省することもなく、突如として民主主義者に豹変した。何の制約もなく子どもに体罰を科していた彼らがその同じ手を自ら封じたのである。今日まで続く私の教師不信の根っこもここにあるのかも知れない。
 北海道の教師たちの権力への屈服と隷従には重要な歴史的前史があったことを知ったのは、ごく最近のことだ。治安維持法による北海道綴方教育連盟の弾圧である。「綴方」とは今でいう作文のことだ。この組織は政治団体でも労働組合でもなかった。作文教育を通じて子どもたちの感性を豊かにする以外の目的を持っていなかった。
 旧文部省の「思想情報」によると、弾圧は東北地方から始まり、1939ー42年に逮捕された教員は全国で137人、そのうち北海道は半数を超す75人に上ると、すぐ後に紹介する佐竹直子氏の著書は明らかにしている。拘束や連行、事情聴取の対象者はこれをはるかに超える数であったに違いない。
 
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 私がこの事件を知ったのは、三浦綾子が1998年に世に問うた力作『銃口』によってであった。三浦のこの作品は北海道近現代史を理解するには、いやこの国の近現代史を理解するためには、いかなる歴史書をも超えた必読の書である。学者なら無視するか1行で済ませる事件を、作家は見事に展開してくれたのである。最近北海道の若いジャーナリストがこの事件を再発掘し、注目を浴びた。次の書物がそれだ。佐竹直子『獄中メモは問うー作文教育が罪にされた時代ー』北海道新聞社、2014年12月刊、道新選書47。優れた仕事だと思う。だが、この事件の歴史的意義の掘り下げが共同作業として地域を越えて続けられていないのが残念だ。この事件への関心が全国で広がることを期待している。
 子どもたちの作文教育だけを考えている教員たちの組織がなぜ共産主義組織にでっち上げられ弾圧されたのか。その答えは簡単だ。天皇への忠義は一途なものでなければならず、すべての子どもがつねに一点のみを見上げ天皇に命を捧げる「少国民」として掌握されることが至上命題だったからだ。足下をみようという教育、子どもの多様な感性を育てようという教育は権力にとって有害であった。戦争は国民の暮らしを急速に蝕んでいた。一家の中心が徴兵されては経済的困窮が進むのは当然のことではなかったか。親にとっても妻にとっても子どもにとっても、家庭の中に突然生まれた空虚さは喩えようがなかったはずだ。いつ来るかもしれない戦死の知らせに怯えることも人として当然のことだったろう。しかし、当時の教室では作文に書くことも、ましてや発表することも許されない状況に追い込まれていたのだ。私が国民学校に入学した1942年は天皇と軍が始めた戦争に対する批判を封じ、子どもを心身共に捉え込む教育が完成した年だったのだ。
 戦後になって誤った歴史認識と画一的な思考方法の強要から脱却するのにどれだけ苦労したことか。この頃に作文教育で多様な感性を引き出してもらえたら、私の知的な生活も今とは大きく変わっていただろうに、残念なことだ。
 じっと耐えている教師たち、時代が変わるのをひたすら待ち続けた教師たちがいたことを知っただけでも、私には戦後民主主義をとらえ直す上で大きな救いではあった。
 この問題にはいずれ本格的に立ち返るつもりでいる。
(2017.6.1)

2017年5月5日、岡崎古書市にて - 北仁人雑録

 
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今年もまた東山の新緑に誘われて都メッセで開催されている古書市を覗いた。
 古書店を覗くのが好きになったのは、関西で働くようになってからだ。京都には大学周辺、寺町通、丸太町通等に古本屋が密集していた。大阪でも大学や旧制高校周辺にぽつぽつとだが、まだ残っていたし、釜崎周辺には企業が廃棄処分にしたり屑屋に出した書物が思いがけない価格で手に入る店がいくつかあり、よく覗いたものだ。このあたりは経済や企業関係の資料をあさる穴場で旧知の大先生と出くわしたこともある。阪急三番街にできたカッパ横町は仕事の帰りの格好の気分転換の場所だった。
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 沢山の書物から自分の求めている分野のものを発見するのは、視力が弱り体力が衰えた今では至難の業だ。まさに幸福な出会いそのものだ。今回の出会いは、写真に示した「アイヌ風俗」絵葉書である。この10年ほど、戦前のアイヌ関連の絵葉書が見つかれば買い求めている。今回のは8枚組の袋入り、1929年発行のものである。白老のアイヌ集落がやっていた「見世物」みたいな施設の絵葉書である。
 それにしても、アイヌを「原始人類」と呼ぶとは畏れいる。初めて聞く表現だ。興味をひくのは、外国人観光客に売るためか、英語の表記がある。アイヌを「アボリジニ」であるとしている。この表現は先住民の意味で、決して「原始人類」ではない。それともオーストラリアに住む「アボリジニ」を想定していたのだろうか。
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 私はこれらの葉書を興味本位で集めているわけではない。アイヌに強いた苛烈な収奪に次ぐ同化政策と差別は日本人の原罪ともいうべきものではないか。北海道に生まれ育った者にとっては特にそうだろう。先住民として認めるだけでアイヌに対する収奪と差別の原罪は許されるものなのか、歴史の書き換えは進んでいるのか、博物館の展示は変わったのか、この種の絵葉書を収集しながら私は問いかけている。
 旧知の古書店主に会場で出くわし、立ち話。話は私の最近の関心事、桑原武夫氏蔵書の処分問題に及んだ。どうもこの蔵書は最終的に屑として処分されたらしく、古書市場には出回らなかったようだ。この事件の悲喜劇について書いてみたくなった。
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  私は港町で生まれ、いつも船を見て育った。いろんな船を見た。大小の汽船、機帆船、漁船、捕鯨船、艀等、軍艦もやってきた。冬になると海が荒れ、アムール川に発する流氷が港と海峡を埋め尽くすと船は港から消え失せ、見ることはなくなった。翌年の遅い春がきて流氷が流れ去ると、船はまたやってくる。船を眺めながらその頃の私は何を考えていたのだろうか。船が結びつける外の世界を夢想していたのかも知れない。
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 こんなことがあった。国民学校3年生の夏ではなかったろうか。港内に停泊する商船を波止場の先に立って眺めていた。ボートでその船に帰る船員が声をかけてくれた。船を見たいなら連れて行ってあげる、と。客船だった。赤絨毯が敷かれたロビー、磨かれた真鍮製の手すりが今でもはっきりと記憶にすり込まれている。子どもの私にはすべてが大きく豪華に見えた。今考えると、あの船は徴用船だったに違いない。北の海のどこかでアメリカ潜水艦に攻撃され沈められ、あの親切な船員も船と運命を共にしたのかも知れない。
 時代の急変動に翻弄され続けたあの港に入港する船を眺めながら生き体験したことにさまざまな思いがよみがえる。とりわけ戦争も終わりの頃の体験を思い起こす。いま区切りをつけてまとめ上げなければならないと決意している。
  私の父岩次郎は腕の良い船大工だった。私は子どもの頃から父の仕事ぶりを眺めながら育った。いまでも船を眺めることが好きだ。特に木造の舟に出会うと、父の働く姿を思い出す。父は私が生まれた頃、中国大陸への侵略に徴兵された。父の年齢からいって本来ならもう一度徴兵されたはずなのにそれを免れたのは、あのまちの零細造船所が合同して設立した造船所で働くことになったからだろう。この造船所は木造船標船建造の軍需工場であった。新造船以外にも、おそらく北方で任務に就き被弾して帰港した徴用漁船の修理も重要な仕事だったに違いない。どんな仕事をしたのか、父から話を聞く機会は父の死によって失われた。それだけに、私は父から聞き出せなかった分も含めて、あの港を寄港地として犠牲となった多くの徴用船とその船員たちが被った苦難と悲惨な運命を調べ、書きしるしておきたいと考えたのだ。
  私のこの仕事は過去への感傷をまとめ上げたものでは決してない。徴用船の悲劇はあの戦争のもっとも犯罪的な側面であった。兵站の十分な体制もないまま無謀な戦争に乗り出し、兵士だけでなく多くの船員や漁民の生命をもてあそんだ。靖国に祀られる英霊はこの無謀さの犠牲になった兵士たちだ。兵士でもないのに駆り出されまきぞえになった人びとの犠牲は顧みられることもなく今も海底に眠っている。その結果が悲惨なものであったとする感傷に突き動かされない限り、追求し真実に接近する気力は生まれない。いくらかは戦争を体験したものが書く仕事の意味はそこにある。そのことを是非とも理解してほしい。
 あの戦争が終わって70年以上も経っているというのに、この問題の検証が十分にされているとは到底言いがたい。それどころか、検証もないのに、戦争への参加を煽り立て、それに積極的に関与することを表明する動きが具体化し始めている。私のこのちっぽけな仕事でもにわかに重要性を増してきたように思われる。あの無謀な戦争に国民を巻き込んでその惨禍を拡大した責任が解明されないままで、ことが進むことに私は反対する。
 集団的自衛権をめぐる議論のなかで、自衛隊が担うのは「後方支援」であって前線での戦闘行為ではないことが強調され、「後方支援」が戦闘行為にあたらないという妙な雰囲気が醸成された。「後方支援」と表現しようと「兵站(へいたん)」「ロジスティックス」と表現しようと、これが現代の戦争の遂行にあたってその成否、勝敗を決する最重要の点であることを曖昧にした議論ではないか。前の戦争では指導者たちはそのことの意義を軽視し、国民を戦争に巻き込んでいった。徴用船問題はその最も重要な側面であった。船乗りたちや漁民たち、徴用船を送り出した港町や沿岸部のまちは前の戦争の犠牲者だった。
 過去に庶民が戦争によって受けた苦悩の現実から教訓を真摯に学ぶことをしなければ、政治家たちの決断は、過去に犯した過ちを繰り返して、いやそれどころかそれをさらに拡大して国民に塗炭の苦しみを味合わせることになるだろう。
 昨年11月に『リーラ(遊)』第9巻(戦後70年と宗教)のために書いた仕事を、PDFファイルにしてブログに収録します。昨年12月にこのブログに収録した「戦時下に出会った朝鮮人たちー「私の戦争」準備ノートー」のエッセンスをまとめたものです。
 「私の戦争」シリーズは、完結までにあと何年を要するかわかりませんが、切れ目なく書いてまとめて公表するつもりでいます。読んで感想を寄せて頂くことが私には最高の支援になります。よろしくお願いいたします。

.80歳の検査入院 - 北仁人雑録

 
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2016年3月15日から26日まで、京都南病院に入院していた。身体検査のためである。これまでは2年毎に入院していたが、80代に入ったことでもあり、主治医の意見も入れて今年から1年半毎にすることに決めた。身体は健康も病気も含めて自分のものだ。医師たちの支援を得て身体状況を客観的に確認しておくことは、特にこの年齢になると身体を大事に使うために必要なことだと考えている。
 検査の結果は、年齢相応といったところだろうか。いくつか再度の検査が求められた。当分
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の間検査の後始末が続くことになるだろう。そんなに詳しく調べて病に対する不安はありませんかと、よく訊ねられる。決してないわけではない。しかし、80年も使い続けた身体の各部位にくたびれが出ていない方がおかしい。これから生きていくためには、くたびれた部位を大事に丁寧に使うことが重要なのだ。次に病棟でお会いするときはまた検査でと、退院の際に主治医は挨拶した。次の検査まで臓器のそれぞれを大事に使いますと、私は答えた。これから1年半の間は病に苦しまないことを切に望んでいる。

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 入院生活は退屈だ。検査と検査の間、検査のない日は身体をもてあます。以前は、病院近くを散歩することを認めてくれたのに、今は一切駄目。足が弱ると主治医に訴えたところ、病院内を散歩しなさいとのこと。早速実行に移した。他の病棟の看護師に、病室を忘れれたのですかと問われ衝撃を受ける。認知が始まった患者に間違えられたのは初めてのことで、院内散歩はこれっきりにした。
 よく考えてみると、認知が始まっている患者に間違われても当然なのだ。そういう年齢に私はとっくになっているのだから。病棟はそのような高齢の患者さんで満ちている。奇声を発する人、夜中に徘徊する人、病室に盗聴器が仕掛けられていると訴える人、さまざまだ。病院は社会が当面している高齢化の矛盾を表現しているなど間の抜けた評論をいまさら書いてもしようがない。私自身がすでにその当事者になっているのだから。
 「団塊の世代」が後期高齢者になる頃まで私は生きているだろうか。かりにその頃まだ生きていたとしたら、私には病院にも介護施設にも居場所は残されてはいないだろう。姥捨山が必要になる。学問を志して以来、ろくな死に方はしない、いずれのたれ死にと覚悟はしていたつもりだが、そのような状態になることを想像すると苦しくなる。

 いつもの入院のように書物とCDを沢山持ち込んだ。時代小説、サスペンス、ハイドボイルド、たまっていた黒井千次の短編集等10冊ほど、C・アバド、D・バレンボイム、N・アールノンクール等10枚ほど聞いた。読み疲れ聴き疲れると、病院で働く人びとの仕事ぶりを眺めていた。働く人びとに接することが出来るのは、書斎にこもりがちな私にとっては楽しいことだ。医師、看護師、理学療法士、食事を運んでくる人、湯茶を配る人、それに掃除の人、病との廊下まで巡回する警備会社の職員等々、私の世界とはまったく違うものを発見し、彼らの働きぶりに比較して時には自分の未熟を思い知らされる。

 入院の際には東寺金堂の薬師如来に参拝することにしている。厳しい外出禁止令をかいくぐって今回も出かけることが出来た。ちょうど「弘法さん」の市が開かれていた。無病息災と長命という私のあつかましい祈願はいままでのところは十分に叶えられている。弘法大師の霊験あらたかと言うべきか。

井上有一生誕百年記念展を見る - 北仁人雑録

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 2016年3月3日、日帰りで金沢市に出かけた。金沢21世紀美術館で開催されている書家井上有一の生誕百年記念展を見るためだ。
 彼の東京大空襲に関する作品はどうしても見たいと考えていた。特に彼が訓導(教師)として勤務していた横川国民学校の悲劇に寄せた書、「嗟横川国民学校」は丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」にも匹敵する、いやそれどころかそれを凌駕して訴えてくる。書物では見たことがあるのだが、どうしても現物の前に立ちたかった。
 この書の前に立って、私は感動のあまり落涙し、
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拝礼した。書の大きさと広がり、筆使いは書物を介しては感知できない。一字を書いた書、草野心平や宮沢賢治を写した書は書家の人間性を浮かび上がらせる。良いものを見たという充実感で満たされた一日であった。

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