根室臨港線軍事利用の痕跡を求めて ー2017年11月北海道の旅(4)ー

【綴りたいのは空襲だけではなく地方の戦争の姿】
 根室臨港線は表向きは北の小さなまちに敷設されていた、今ではほとんど知られることのない短い貨物線である。ところが、前の戦争の最終場面では秘密裏に重要な兵站路線に変わった、いうならば知られざる軍事路線であった。
 多くの兵士と朝鮮人労働者、そしておそらくは従軍慰安婦にされた女性たちもこの路線を使ってこのまちに集結させられ、全国から徴用された漁船に乗り換えて北東方面、とりわけ千島列島の最前線に送りこまれていった。ほとんど無防備に近い木造漁船では、彼らの多くはアメリカ軍の潜水艦と艦載機の攻撃の格好の餌食となり海底深く沈められたのであった。多くの漁民や船員も乗船していた兵士とともに犠牲になった。
 また朝鮮人労働者がこのまちの郊外の海軍飛行場の建設に動員され、厳しい労働環境の中でその多くの命を落とした。このことによって、このまちは強制連行の悲劇の地として記憶され続けることとなったのであった。
 空襲による都市住民に加えられた被害の深刻さはいくら強調してもしすぎることはないであろう。しかし、それぞれの地域で闘われた戦争の諸相にも、またそこでの犠牲者にもはたして十分に注意が払われてきただろうか。一つ例をあげよう。自分の持ち船なのに徴用船という名に変えられて強制的に戦場に送られ死んだ漁民たちを戦死者として敬意を払ったことが為政者たちにあっただろうか。これらの事実は地方の戦争の惨劇として十分に記憶されることもなく忘却されようとしているのだ。地方で進んでいた戦争の現実を直視し、地域での戦争の全体像を明らかにする努力は十分とは言えなかったのではないか。その不十分さが空襲の現実そのをも歪曲し、忘れさせようとする試みを補強しているのではないか。
 ところが今では、もうそんな程度のことをいってられないような状況が作り出されつつある。戦争が国内でも闘われたことさえ忘れ去られようとしている。激しい地上戦が闘われた沖縄でさえ、その体験が若者たちに十分に継承されているとは思われないし、「唯一の被爆国」という体験すら、核を容認する勢力の主張の前に無力なものになりつたるように見える。まして辺境にも似たうらぶれた地方の体験など、とうの昔に蹴散らされ、朝鮮人や中国人の強制連行の事実も、貴重な生産手段である漁船を徴用され、命を落とした漁民たちの犠牲も忘却を強いられようとしている。私の焦燥感も理解して頂けるのではないか。
 このような状況の中での私の願いは、地域の戦争のごく一部でも書き綴って現下の支配的流れに、たとえ微力であっても抗することにある。私が書き綴るのは「空襲」の悲惨ではない。地域の「戦争」の諸相である。そのなかで「空襲」が大きな比重を占めることは言うまでもないが、それと並んで、あるいはその下で闘われていた関係を示すこと、それが私の願いである。
 戦争の跡は、軍事利用の跡ははたしてまだ残っているだろうか、かすかなものであっても残っていてほしい、それをこの目で確かめ記録すること、これが今度の旅の目的であった。見栄えのしない写真を使って見聞したことを綴る、このことはある意味では筆者の自己満足にも見え、この時代を体験していない、あるいはこの土地を訪れたことのない人たちにとっては、おそらく退屈以外の何物でもないかもしれない。しかし、本質に迫る一つの方法の模索として、ご容赦を願うことにしよう。最後まで付き合ってくれることを願うのみである。


【二種類の航空写真が示すもの】
 この仕事の準備作業に役に立ったのは、アメリカ軍艦載機が戦果の確認のために撮影した写真と、それにグーグル・アースの提供する現在のこのまちの航空写真だ。前者は1945年7月15日早朝の攻撃の状況を写しているのだが、同時に当時のこのまちの姿もくっきりと写し出されている。後者の提供している航空写真は、これも戦争の痕跡を示してくれて非常に面白い。
 1枚目の写真には根室臨港線の支線の構造がはっきりと写し取られている。臨港線から分岐して海軍第二飛行場の建設現場まで敷設された支線は本線をはるかに超えてその数倍の長さであった。秘かに施設されたのだから名前もわからないのだが、いちおう「牧ノ内支線」と命名しておこう。
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 臨港線の終着駅である根室港駅から築港建設現場までわずか数百メートル延伸されただけのこの支線は、あとで見るようにその長さに関わりなく、このまちのちっぽけな港湾の軍港化に重要な役割を演じたものであった。「築港支線」としておこう。
 このまちの規模と牧ノ内支線の終点との距離と位置関係をグーグル・アースを利用して示しておく。海軍が戦争の終わる頃に、この半島に飛行場を建設した理由を私はいまだにまったく理解できないでいる。当初私は、友知海岸に今も残るトーチカ2基をこの飛行場防衛のためか、それともこの飛行場を含めた根室基地全体の防衛ラインとして建設されたのではないかと考えていた。ところが、北方軍の策定した根室防衛計画にはこの飛行場は含まれていない。飛行機が一度も飛来したことがなかった奇妙な軍事基地ではあったが、この飛行場跡が朝鮮人強制連行、学徒動員の記念碑としてこのまちの歴史に記録され語りつがれるべき大事な場所であることには変わりはない。
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 「根室臨港線」は時代の激動に合わせて秘密裏に拡大され、戦後には逆に秘かに縮小された奇妙な貨物線であった。この路線を公表通りに短小なものとしてしか理解しないのは、明らかに誤りだと思う。一時期重要な秘密の軍用路線として機能していたことは紛れもない歴史的事実であった。


【牧ノ内支線への分岐点はどこか】
 写真で見る限り、根室本線を使って列車で運ばれてきた兵士、朝鮮人労働者、そして軍需物資はいったん根室駅に着いた後、そこからスイッチバックして臨港線に入り、もう一度ポイントを切り替えて牧ノ内支線に入ったものと思われる。
 その分岐点がどのあたりにあったか、友人の車で探してみた。どのあたりかの見当はついたか、鉄道施設の残骸が残っているわけでもなく、そのことを示す説明板もなかった。このあたりと推定して駐車しても、地上からの確認は困難であった。ところが今グーグル・アースを使って空から確認すると、その痕跡ははっきりと見える。
 1枚目の写真には、右上に写る根室駅から発する根室本線から分岐している痕跡がよくわかる。臨港線から「牧ノ内支線」への分岐点は大きな茶色の屋根の建物のあたりだ。支線がここからどのように延伸していたかはその先の宅地化が進んでいるのでよくわからない。ただ写真の左の真ん中あたりにいくつかのグランドを持つ学校らしき建物がある。道路を隔てた牧草地に東西に走る緑の広い線は明らかに線路の跡だ。そのように判断してみると写真中央のグランドの道路に沿った緑地帯も線路の跡ではないか。
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【今に残る痕跡】
 写真を拡大してみよう。まず分岐点と想定されるあたりを見ると、製材所の木材置き場とおぼしき辺りがそれとわかる。画面の右に向かって続く道路がかっての支線が走っていたところであろう。グランドと道路を分かつ緑地帯も線路の巾があるように見えるから、これも支線跡ではないかと推定される。
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 根室空襲研究会の友人たちによると、臨港線から分かれた軍事用支線は8月15日の後にあっという間にレールも枕木も撤去されて消えてしまったという。誰が撤去したのか。どさくさに紛れて金目のものを隠匿して利益を上げようとした地元の業者だろうか、それとも戦争という犯罪行為の証拠をできるだけ早く隠滅しようという軍上層部の意図にしたがって実行されたのだろうか。自らの犯罪行為の証拠を消し去るために必死になって文書を焼いた行為と同類のものであったのだろうか。今となってはその理由はわからない。しかしそうやって隠しても、このように跡ははっきりと残る。
 もう1枚、現場を拡大した写真を見てみよう。このグランドを持つ建物は根室高等学校のようだ。その校舎の道路を隔てた緑地(おそらくは放牧地か牧草地であろう)に残っているのはまぎれもなく線路の跡ではないか。その先は校舎の建設によって失われたのであろう。友人の車で地表から観察した限りでは、ただの草叢にしか見えなかったのだが。この発見に私は驚き興奮した。
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【若い世代に問いたい】
 根室空襲研究会会長細川憲了師(清隆寺住職)は、師が根室中学(現在の根室高等学校)在学中に飛行場の建設現場に勤労動員でかり出されたと証言する。スコップを担いで徒歩で現地に向かい、貨車に上乗りして帰ったという。この証言を得て私は、この残された跡は単に戦争の跡としてだけでなく、多くの若い生徒たちや地元民の労苦の記録として後世に引き継がれなければならないのではないかと思った。
 この高等学校に学ぶ若い世代に問いたい。あなたたちはこの歴史的事実を知っているか、かって多くの朝鮮人労働者が運ばれ、あなたたちの先輩も学ぶこともかなわず労働を強いられたまさにその道の上にあなたたちの現在が打ち立てられていることを知っているか、と。反応など期待できない無益な問いかけかも知れない。しかし、いつかは応えてくれる時代がくることに期待しながら、私はこのように書き連ねている(続く)。

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