根室臨港線軍事利用の痕跡を求めて(続) ー2017年11月北海道の旅(5)ー

 戦時下の根室臨港線について残っている私の記憶は限られている。この線は私の母校花咲国民学校の裏を通っていたから、蒸気機関車に牽引された貨車を見ることは日常のことだった。しかし、あの頃校舎の半分を占拠することもあった兵士と兵器、軍需物資がいったいどのようにして運ばれてきたのかについては考えることもなかった。
 校舎の大半が軍隊の駐留によって占拠され、階段を使った授業を余儀なくされた国民学校なんてこの国全土を探してもあまりなかったのではないか。屋外運動場も軍需物資に占拠されることが多く、恒例の運動会が中止を余儀なくされることもあった。学校を兵営と化し戦場のようにしたのにはこの臨港線が大きな役割を果たしたことを理解したのは、ようやく最近になってのことだ。
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【暁部隊と臨港線、根室港駅あたり】

 この短い貨物線の軍事的意義を考えるとき、終点の根室港駅までに観察しておかなければならない場所がいくつかあった。その第1がこの私の母校である。もう一つは暁部隊が弾薬庫として掘ったされる横穴壕の跡である。私の母校については、この旅で得た感想を別に書くつもりなので、ここでは触れない。後者については、現場とおぼしき辺りを少し歩いてみたので、観察したことを書いておきたい。
 暁部隊とは何か。広島市近郊の宇品に本拠を置く船舶司令部傘下の部隊の暗号名だ。その任務は兵員輸送で、そのために必要な民間船舶の徴用と運用も担当していた。各方面軍や師団から独立した大本営直属の組織であり、その作戦行動は厳重な機密保持の対象であった。宇品の司令部が原爆で焼失したこともあり、その実態はほとんど知られていない。
 この数年、8月15日前後になると徴用船の悲劇がメディアで話題になる。しかし、それを仕切った組織が船舶司令部と暁部隊であることを明示する記事はほとんど見かけない。しかも徴用船はすべてが商船であったかのような印象を与える記事ばかりだ。現実はまったく違っていた。漁船、機帆船、捕鯨船から曳船、艀(はしけ)にいたるまであらゆる種類の船が暴力的に徴用され、中小生産者や家族経営の重要な生産手段が強奪された。多くの漁民や乗組員が戦場に駆り出されて殺された。あの戦争の最も凄惨な悲劇ではあった。それなのに、その正確な記録は残されていない。徴用商船の船員たちの悲劇を報じるのなら、漁民の悲劇も論じるべきではないだろうか。
 私のまちの空襲の時には200隻をこえる徴用された漁船が集結していた。この集結の目的はわかっていないし、そのうちの何隻が沈められ、何人の漁民が殺されたのか、その記録はまったくない。
 暁部隊は表向きは直接の戦闘行為に参加しなかったのだが、徴用した民間船には必ず若干名の兵員が乗り込んだ。そのための最低限の武器弾薬も必要だった。潜水艦からの攻撃に備えて爆雷も搭載されていた。徴用船の数からいってこれらの武器弾薬は相当量にのぼったはずで、いつまでも野積みというわけにはいかなかった。どこかに弾薬庫があった筈だと、私は想像する。
 根室空襲研究会の『根室空襲』(同会発行、1993年9月)に嶋津木工場の経営者嶋津豊氏の次の証言が収録されている。(1)「うちの汐見町の木工場の崖に横穴を掘って、暁部隊が三カ所防空壕をつくっていた(101ページ)。(2)「暁部隊の山崎隊が、汐見町の私の木工場のとこにいて、防空壕をつくっていた。(104ページ)」
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 この嶋津木工所は空襲の頃と同じ場所にまだある。現場に立ってみたが、それらしき痕跡は発見できなかった。あるとすれば、今は個人の住宅が建っている裏の崖辺りであろうか。船入墹、根室港駅に近く、ここに弾薬庫があったとしても不思議でない。しかし、崖は横穴壕を掘り込めるほどの高さはないし、しかも彼の工場敷地内に三カ所も掘られていたというのは、記憶違いではないかと思う。
 根室港駅近く、金比羅神社の下の崖にも壕が掘られていた。この壕には私の父も7月15日に燃えさかる家を脱出してから避難しているし、戦後に私自身もその存在を確認している。これも位置から見て暁部隊が掘った壕ではなかったか。嶋津氏の証言はこの辺りにも掘られた壕を誤認したのではないだろうか。あるいは金比羅神社下にも嶋津木工場の敷地があり、材木置き場があったようだ。あとで日通倉庫の所在地をめぐる推理のところで引用する当時の証言からもそのことは確実だと思う。
 この材木置き場は戦後もあった。父のお供をして丸太を仕入れに出かけた場所は、根室港駅の近くだったと記憶する。
 しかし、そうはいいながら、金比羅神社下の壕は埋め戻されたのか、この地域の開発で土砂が削り取られたのか、今では痕跡すら確認できない。


【旧根室港駅あたりー軍需工場、準軍属、日通倉庫、朝鮮人労働者ー】

 根室港駅があった辺りにはそれらしき遺構は何も残っていない。せめてここに駅があったくらいの表示があってもよいのではないかと思う。このまちと言わず北海道全体について言えることなのだが、この地域の近現代史の遺構を保存することにはまったく関心がないように思われる。 
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 「船入墹」は係留される漁船は少ないけれど、その形は昔のままだった。根室漁業会の2階建ての建物、その一階を子どもの頃には「魚菜市場」と呼ばれていたと思う。今どう言うかは知らない。私にとっては、市場に水揚げされたかごやバケツを持って魚をもらいに来た場所として記憶されている。何時入港の何々丸の誰々に佐々木を名乗って魚下さいと言いなさい、と親に言いつけられ出かけたものだった。この手伝いは厭だった。自分が物乞いのように扱われはしない
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かと思ったからだ。当時の船員たちには「ほまち」と言う権利があることなど私はまだ知らなかった。鮭を一匹頂戴して帰ったものだった。この記憶が戦時下のものか戦後のものか定かではない。この建物のどこかに暁部隊の指令所もあったはずだ。
 この建物の北隣に根室造船所があった。地元の企業が共同で設立した国策企業で、木造の戦時標準船を建造していたはずだ。戦争末期に輸送船不足を解決するために、戦時標準船なるにわかづくりの輸送船の建造が推進された。鉄船も木造船も写真でみる限り積載量重視の設計で、船足は遅かったと思う。潜水艦の格好の餌食となったはずだ。この造船所で戦標船が完成したかどうかは知らない。このまちの船大工たちは、私の父も含めて動力で動かす大きな船を作った経験がほとんどなかったから、さぞかし苦労したことだろう。徴兵逃れのためににわか船大工になるものもいた。こんな調子ではとてもできる船もできなかったはずだ。父もこの軍需工場で働いていたということで2度目の徴兵をまぬがれることができた。
 父が造船所で夜なべをするときには、夜食の弁当を運ぶのは私の仕事だった。

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 根室港駅の写真で入手できたのはたった1枚、谷正一編『ふるさとの想い出写真集ー明治・大正・昭和 根室ー』(国書刊行会、1983年6月)に収録されているものだ。小さな貨物駅だから、大きな駅舎はもともとなかったのだからある意味これはしようのないことだ。写真中央に写っている小さな木造の建物がそれで、この建物は戦後に引き継がれ写真も残っている。戦前のものと反対側から撮られている(東京根室会『懐かしの駅舎と学舎』2013年10月、3ページ)。
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 港駅に線路が入る辺りの直前に戦前からの建物の廃墟がこのまちの衰退を象徴するかのように残っていたので撮影した。調べて見ると、右側の建物は根室造船所同様、軍需工場に指定された金属加工の工場、鉄工所だった。この2棟が港駅の写真に写っていることを発見したのはごく最近のことだ。


【日通倉庫、朝鮮人用宿舎はどこにあったか】

 北海道の調査報告書『北海道と朝鮮人労働者ー朝鮮人強制連行実態調査報告書ー』(北海道、1993年3月)によると、あのまちで朝鮮人を使役した事業所は三つあったされる。その第1は根室海軍第二飛行場(通称牧ノ内飛行場)、第2はこの文章の後で紹介する築港工事のために森田飯場、第3は日本通運根室支店である(前掲、178−79ページ)
 日通根室支店は、1945年1月の動員計画で70人の雇用を予定していたとされる(日本通運の徴用の実態については、私のノートを参照。「戦時下に出会った朝鮮人たち」−「私の戦争」準備ノートー」、2015年11月、KITA1502、www.focusglobal.org/kitanihito_blog/2/2015/12/post-3,htmlに収録)。この数字の出典は調査報告書には示されていないし、実際に実行されたかどうかは明らかではない。戦争もこの時期になると兵士の確保もままならず、労働力の確保はさらに深刻であった。とくに北海道ではそうだったと思う。日本通運の社史『日通二十年』(東京、1957年3 月)によると、日通はもともと小口の運送を担う企業であったが、1945年3月に軍需充足会社に指定され、兵站を担う企業として「徴用」によって労働力を確保できるようになった。労働力供給源の逼迫にともない、「 特殊の労働力に依存せざるを得ないことになり、季節労務者や産業報国隊、受刑者、半島労務者等の使用について特別の配慮を受けるに至った。」(70ページ、佐々木建、前掲、21−22ページ)
 北東方面の兵站の重要性から見て、このまちでもかなりの程度の員数の「徴用」朝鮮人が割り当てられ、使役されていたと推定される。私が波止場で出会った朝鮮人たち、空腹に耐えかねて私の家に食べ物を求めた朝鮮人も日通の徴用工だったのではないだろうか。
 そううだとすれば、その使役の現場となった日通の倉庫はどこにあったのだろうか。私の母校である花咲小学校前から海に続く坂道、通称二十間道路を下がってゆくと、海岸沿いの右側に日通の大きな倉庫がある。この倉庫は戦前からあったものだ。しかし朝鮮人を使役していた倉庫はここではないだろう。根室駅から延伸された貨物線の終着駅からあまりに遠すぎるし、築港から積み出すにしても距離がありすぎるからだ。本町から続く倉庫街のはずれに位置するこの倉庫は、おそらく近くに建設中だった新しい桟橋(確か「郵船の桟橋」と呼んでいた)の完成に対応すべく建設したものと推定される。この郵船の桟橋は未完成のまま戦後も放置されていたが、いまでは港の埋立によって姿を消している。
 このように考えていくと、臨港線の終点近くにもう一つの日通倉庫があったのではという結論にいきつく。『根室空襲』に収録されている当時の証言のなかにそのことをうかがわせる苫谷正二氏の証言を見つけた。氏の体験は私の柳田埋立地(本町3丁目)からの脱出と交差している。読んでいると、あの時が生々しく蘇る。彼は本町1丁目で被災し、2丁目を経由して東に逃れ、金比羅神社あたりで再び空襲に遭遇する。「臨港鉄道丸通倉庫事務所」近くの半地下防空壕に避難しようとするが、入れてもらえず、近くの材木置き場に隠れる。おそらくこの時に丸通は直撃弾を受けたようで、翌日確認したら、丸通の倉庫は丸焼けだったと回想する(同上、170ページ)。これを読むと大体の位置関係がわかる。そして日通倉庫は第二波の攻撃で全焼したと推定される。
 朝鮮人徴用工は空襲の時に働いていたのだろうか、このことを確証づける証言も資料もまだ発見できないでいる。私は働いていたと確信している。そうだとすれば、彼らの宿舎はどこにあったのだろうか。私は想像力を駆使して勝手に推定することにしよう。
 船入墹一体には缶詰工場と東北地方からの出稼女工さんの寄宿舎があった。敗色濃厚になったこの頃には缶詰にするタラバガニの漁獲もままならず、休業していたのではないだろうか。空いた寄宿舎が徴用工宿舎に転用されたのかもしれない。少なくとも倉庫近くには寄宿舎を新たに建設する敷地の余裕はなかったと思う。


【築港、築港支線】
 
 築港と通称される岸壁と、そこに至る臨港線の延長の工事はいつ誰によって着工され完成したのだろうか。その点については、私の調べた限りでは確たる資料は存在しない。根室町編『根室要覧 昭和13年版』に添付されている市街図が私が入手した戦中のもので信頼できるものだが、この地図には臨港線の延長は示されていない。つまり着工の時期はわからないが、完成は1938年以降と言うことになる。誰が作ったのか。港は手狭であったから、拡張を求める声は大きかったはずだ。しかしそのあたりのいきさつは、たとえば『根室市史』のページを繰ってみても記述が見当たらない。
 それなのに、1945年7月15日の時点では埋立だけはほぼ完成していたようだ。そ
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の様子はアメリカ軍の撮影した写真から明らかだ。築港の岸壁には軍需物資が積み上げられ、兵器らしきものも見える。艀(はしけ)を使わずに直接積み込めるように桟橋も作られている。この桟橋の一部は戦後も残っていたと記憶する。
 完成してはいなかったことは米軍の写真からも明らかだ。空襲時に集結していた200隻あまりの徴用船に効率的に対応できる施設もなく、上屋もなくすべてが野ざらしだったし、倉庫もなかった。
 この築港は暁部隊専用の基地として建設されたと、私は確信している。おそらく立ち入りは厳しく規制されていたはずだから、当時の町民には実態はわからなかっただろう。だ
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からこの地域に高射砲が配備されていたとか、特攻用船艇を作っていたとか言う噂はあったが、どれもそこで仕事をしたという証言がないのだ。米軍の写真にもそのような建物は写っていない。
 臨港線をわずか数百メートル延長しただけのことなのに、これはこのまちの軍事要塞化にとって重要な路線であった。その痕跡はいまも航空写真にはっきりと写っているし、現場に立っても線路の跡ははっきりと確認できる。
 この工事は誰が請け負い、労働者はどこで調達したのだろうか。この時期には壮年の日本人はあらかた徴兵されるか軍需工場で働かれていた。特に北海道の労働力不足は
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深刻だったから、日本人の労務者や中学生の勤労動員に依存して建設することはどう考えても不可能であった。しかも道東の軍事基地建設は計根別の飛行場建設が中心だったから、限られた労働力の投入もそちらが優先であった。


【森田飯場はどこにあったのか】

 この築港は強制連行して朝鮮人たちを使役して造成したと考えて間違いないだろう。とすれば、彼らを寝起きさせた飯場はどこにあったのだろうか。米軍が撮影した写真を見ると、整地された築港にはそれらしい建物は写っていないが、土砂を採取したとおぼしき裏山に建物らしいものが確認できる。ここが飯場だったのではないかと私は推定する。
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 戦時下に内務省警保局保安課が内部資料として厳秘扱いで刊行していた『特高月報』に私のまちが出てくる箇所が一カ所だけある。『特高月報』昭和19年(1944年)1月分、75ページに1943年(昭和18年)12月6日に菅屋組配下森田飯場で発生した「内地人指導員に對する反感と指導員の取扱不適当なるための集団暴行事件」を取り上げている。
 「菅屋組」というのは誤植で「菅原組」が正確だ。菅原組は北海道土着の土建屋で、戦時下に基地建設を請け負って基盤を作り戦後にゼネコンにまで成長したいくつかの企業がある。菅原組は千島列島や計根別の陸軍軍事施設の建設を主として請負っていたと思うが、私のまちの要塞化とはあまり関係がにと思っていただけに、この記事には少なからず困惑した。森田飯場の「森田」とは下請けに入った企業の名前なのか地名なのか、私のまちには「森田」という地名はなかったから、多分企業名に由来するものと思われた。
 築港建設が私のまちの要塞化のかなめであることを私が理解し始めたのはごく最近のことだ。米軍機が撮影した写真によって眼を開かせられた。森田飯場は築港建設で使役された朝鮮人たちを収容管理するためのものだったのではないか。2015年11月に発表した「戦時下に出会った朝鮮人たち−「私の戦争」準備ノートー」(前掲)で私はこの事件を牧ノ内海軍飛行場建設現場で発生したものと推計した(同上33ページ)。90人もの朝鮮人を使役する場所はここしかないと考えたのだ。
 今回の旅で「森田」という土建関係の企業が地元にあることが確認できた。空襲研究会の友人たちに聞くと、戦後の立ち回り方に少々うさんくさいところがある企業という。この会社がおそらく菅原組の下請けに入ったことは確実なようだ。
 『特高月報』によると、1943年12月6日に発生した朝鮮人労働者の抗議行動は考えようによっては単純なものだった。飯場のなかで昼食をとることを願い出たのに対し、日本人のある人夫頭は食後の休憩を室内でしないことを条件にこれを認めたのだが、別の人夫頭がこれをとがめたことに発している。
 あのまちの冬の寒さは、体験したものでなければわからない。とくに築港の辺りでは半島を吹き抜ける風は強く冷たい。中学生から高校生の頃だったが、冬になるとあの辺りでよく父の仕事を手伝わされたものだった。上架された木造船の修理の仕事だ。足袋とゴム長を履いていても、しびれるような寒気から逃れることはできなかった。軍手をはめた手指はかじかみ、冷え切った製の道具を握ると、無感覚になったものだ。いつも石油缶で火を炊き暖をとりながらの仕事だった。
 そもそも冬に土木工事をするなどそのこと自体が無謀なことだ。土が凍りシャベルを使えなくなるからだ。おそらく完成を急がせた突貫工事だったのだろう。食糧事情の悪化していたあの頃に朝鮮人たちにどのような食事が提供されていたのだろうか。軍需産業で働く日本人には特配があった。私の父も酒やたばこを始めさまざまな特別配給があった。強制連行されてきた彼らにもそれがあったとはとうてい考えられない。かりにあったとしても、水気を含んだものなら瞬時に凍る寒風にさらされて、屋外でとることを強いられた食事がどのようなものであったかを考えてみるとよい。
 一人の日本人人夫頭がそのことに同情して室内での食事を認めたのに、別の日本人はこれをとがめた。そしてつもりつもった憤懣が爆発した。人間的な同情や温情すら否定される現場だったことがわかる。連行されてきた朝鮮人たちにとってこのまちはまさに「地獄」であったに違いない。かりにここから千島列島に送られることになれば、事態は彼らにとって最悪であった。
 森田飯場は地元企業である。係わった2人の日本人もおそらく私のまちの住民であろう。高等学校在学の頃にこの問題に関心があれば、二人を探し出して当時の事件に対する態度を聞けたのにと残念でならない。


【月見橋と臨港線】

  月見橋がまだ残っているというので案内してもらった。郊外の中学校への通学路の途中にあった場所で、いつも通った懐かしい道だった。このまちでただ一つ橋と名のついた場所だが、川に架かる橋ではない。臨港線と根室拓殖軌道が交差する陸橋だ。東からのぼる月がこの橋の上からあまりに美しく見えたので、この名がついたのだろう。
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 根室拓殖軌道は私がこのまちに住んでいた頃には根室原野の方々に存在した拓殖軌道の一つである。大抵は馬を動力にしていたのだが、根室ー歯舞間を走るこの路線は拓殖鉄道では異色の最新式のものだった。狭軌の線路の上を可愛らしい機関車が客車、貨車を引いて走る姿を「一銭ピーピー豆電車」とはやしたものだった。採算がとれなくなったのだろう、いつのまにかガソリン車に変わっていた。
 月見橋の情景はすっかり変わっていた。臨港線跡が児童公園になり、橋もかっての高さも構造も失われていた。記憶をたどって自分で探せと言われればおそらく発見できなかっただろう。かっての月見橋の姿を、東京根室会が収集した写真集に発見してので示しておこう(前掲書、9ページ)。1955年8月撮影の写真という。はるか遠くに港駅から登ってくるSLが見える。私にとって懐かしい「すり込まれているはずの風景」は完全にこの地上から消えていた。悲しいことだ。
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 それ以上に私を驚かせたのは、その公園に立てられていた臨港線についての根室市教育委員会の説明板の内容であった。説明板は言う。戦時下で取り扱われた貨物には「軍事物資」もあったとする。ただこれだけの説明なのだ。
 兵士も強制連行された朝鮮人労働者もこの路線を使って千島列島に送り込まれた。これは否定しようのない歴史的事実ではないか。しかも、この臨港線から枝分かれした牧ノ内支線も築港支線についてまったく指摘がない。これらが軍事目的だけの線路であり、その建設には多くの朝鮮人労働者が使役されていたことは疑う余地のない歴史的じじつなのだ。
 このまちは前の戦争によって千島列島を失い、まちの中枢部分を焼かれて立ち直ることのできないような致命傷を受けた。その歴史に正しく向き合っていないのだ。悲しい気持ちになった。


【忘却を強いる現代の流れに抗して】

 戦争を経験せず教えられもせずに生きてきた人びとにとっては何の変哲もない風景でも、戦中を生きた私にはまさにその風景の中にあの時代の体験と記憶が蘇る。中央、地方を問わずこの国では戦争の記憶を意図的に忘却させようとする傾向が日々強まっている。その傾向はあの戦争の広がりと深さを可能な限り小さく見せ、その責任を曖昧にする態度につながっている。そうすることによって、いとも簡単に戦争を挑発し開始できる条件を権力者たちに与えることになっているのではないか。
  それだけに私は自分自身に内在する風景、つねに反芻しながらかろうじて維持してきた記憶の中の風景を呼び覚まし書きめることも意義があることだと考えている。

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