北海道帝国大学模範生の悲劇ー治安維持法と大学の責任(1)ー

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  2015年11月にネット上で発表した「戦時下に出会った朝鮮人たちー「私の戦争」準備ノート−」で、上田誠吉の『ある北大生の受難ー国家機密法の爪痕ー』(花伝社、2013年4月)を、「特定機密保護法で注目された牧之内飛行場ー上田誠吉『ある北大生の受難ー国家機密法の爪痕ー』(花伝社、2013年4月)をめぐってー」として取り上げた(注)。最近の政治情勢に鑑み、読み直し手を入れて、もう一度紹介することにした。
 これを書いた当時は特定機密保護法をめぐる議論の真っ最中で、私の生まれ育ったまちにあったとされる海軍飛行場のことが話題になった。私のまちが全国の次元で話題にのぼることは滅多にないことなので、注目したものだ。国家機密を外国人教師に漏らしたとして太平洋戦争開戦の日、1941年(昭和16年)12月8日に逮捕された北海道帝国大学学生宮本弘幸の生涯を世に鮮やかに知らしめた上田誠吉氏のこの著書が再刊されたことにより、話題にのぼったのである(この書物は、1987年9月に朝日新聞社から刊行された同名の書物の復刻版である)。
 上田は、訴訟記録は失われているので(意図的に破棄されたとも推定される)、判決文の伏字を推定される文字で置き換える作業を行って、有罪と認定した事実を確定している。その中に私のまちが登場する。宮本が1941年に樺太・千島列島を旅行して得た見聞から七つの軍事機密を探知し、それを親交のあった外国人教師に漏らしたことが有罪の証拠となったのだが、そのなかに「北海道根室町には海軍飛行場が存在」(傍線は伏字であった箇所)することを漏らしたことがあげられている。
 私は太平洋戦争時の私のまちの要塞化について調べていたので、復元されたこの判決文の問題点を暴き出すことがこの書評の主な目的であったが、読み進めるうちに、上田誠吉のこの時代に警鐘を鳴らす態度に感動した。現実の戦争ともなれば、国家機密の保護を内容とする法律がどのように国民の権利を蹂躙して牙をむくのか、過去の事例から教えられた。治安維持法がなくとも、この法律があればいくらでも国家に対する犯罪をねつ造できるのだと。
 宮本弘幸は、この書物で理解する限り、北海道帝国大学の膨張主義的、帝国主義的体質を忠実に体現した模範的学生だったようだ。彼は1940年に満鉄(南満州鉄道株式会社)の懸賞論文に応募して入選し、満州を旅することになる。彼の満州への関心、それは北海道殖民論を満州へ展開させようとした北海道帝国大学の基本路線で育った模範生であった。
 北海道帝国大学になお自由主義的風潮が残っていたとすれば、彼の逮捕に何らかの形で抗議することも出来たであろうに、そのような動きはなかった。むしろこの大学の模範生ともいうべき人材をあっさりと見捨てたのである。
 上田はいきさつを次のように書いている。「宮沢の両親は、北大の今裕総長を自宅に訪ねて、大学側から当局に事情を聞いて貰うことを依頼したが、今総長はそれを断った。このことは、その後ながく宮沢夫妻の北大に対する気持ちを傷つけた。レーン夫妻とのことは、もとは北大での師弟の関係に発したものであり、千島旅行も北大の推薦があったから実現した。満鉄論文の入選と、「満州」旅行は、北大にとっても栄誉あることであったろう。それなのに、ひとたび検挙されて窮地に立たされたとき、北大は冷淡であった。宮沢夫妻はそのことにこだわりつづけた。このことは、戦後、宮沢弘幸が北大への復学を考えなかったこととも関係がある。」(138ページ)
 あり得たかもしれないアメリカ人教師の情報収集活動に利用され、彼は太平洋戦争開戦日に捧げられた生け贄であった。そして、母校にも見捨てられ、過酷な刑務所の生活で病に冒され、戦後すぐ喀血して倒れこの世を去った。時代に翻弄された純粋な若者の悲劇であった。もし私があの時代に学んでいたとすれば、彼と同じ道を進んだいたかもしれない。そう思うだけに、本書を読んで、その悲劇は人ごととは思えないのである。
 本書で見る限り、北海道大学の戦後の年代記には、逮捕された外国人教師については記録されているが、宮沢の名誉回復の記録はないようだ。大学の年代記とは総じてこのようなもので、学生の動向など大学の核心にあるものではないとする大学観の表れなのだといってしまえばお終いで、それでは戦時下の大学の責任もうやむやにされてしまう。
 大学は抑圧された人たちにとっていつの時代も避難の場所であるべきだと思う。残念なことに、この国の大学が多様な思想に対する弾圧に対して避難場所を提供するような柔らかな対応力を持ち合わせてはいなかった。それだけではない。戦後民主化の過程でもこの体質は維持され強化され、異質のものが生き延びられる隙間はますます狭まっているように見える。
 「共謀罪」をめぐる攻防の中でかっての治安維持法の役割に言及され比較されることが多くなっている。戦前や戦時下でそれがどのように機能したかについても多くの例が出されている。しかしながら、半世紀以上にわたって学生として教員として大学で生きてきたものにとって、大学の歴史的体験が十分に継承されていないことに、私は不満を覚えるのだ。
 治安維持法によって生け贄とされ、学問の自由のために命まで奪われた先人たちを思い起こしてほしいものだ。しかも、大学や学問の年代記に名前を刻まれている人たちに限定されてはならない。理不尽にも学びの場から放逐された学生たち、無残な死を遂げた学生たちも思い起こしてほしいものだ。彼らは名誉を回復されることもなく、年代記に記録されることもなく、歴史の記述者から顧みられることもなくその名は消え去ろうとしているのだから。これはあまりにも無残なことではないか。
 宮本弘幸のこの事件も、今のような時代だからこそ記憶がつねに再生され維持されなければならない。

(注)「戦時下に出会った朝鮮人たちー「私の戦争」準備ノートー」(KITA1502、2015年11月)の【補論1】として次のブログページにPDFファイルで収録してある。
www.focusglobal.org/kitanihito_blog/2/2015/12/post-3.html
(2017.6.11)

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