.80歳の検査入院

 
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2016年3月15日から26日まで、京都南病院に入院していた。身体検査のためである。これまでは2年毎に入院していたが、80代に入ったことでもあり、主治医の意見も入れて今年から1年半毎にすることに決めた。身体は健康も病気も含めて自分のものだ。医師たちの支援を得て身体状況を客観的に確認しておくことは、特にこの年齢になると身体を大事に使うために必要なことだと考えている。
 検査の結果は、年齢相応といったところだろうか。いくつか再度の検査が求められた。当分
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の間検査の後始末が続くことになるだろう。そんなに詳しく調べて病に対する不安はありませんかと、よく訊ねられる。決してないわけではない。しかし、80年も使い続けた身体の各部位にくたびれが出ていない方がおかしい。これから生きていくためには、くたびれた部位を大事に丁寧に使うことが重要なのだ。次に病棟でお会いするときはまた検査でと、退院の際に主治医は挨拶した。次の検査まで臓器のそれぞれを大事に使いますと、私は答えた。これから1年半の間は病に苦しまないことを切に望んでいる。

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 入院生活は退屈だ。検査と検査の間、検査のない日は身体をもてあます。以前は、病院近くを散歩することを認めてくれたのに、今は一切駄目。足が弱ると主治医に訴えたところ、病院内を散歩しなさいとのこと。早速実行に移した。他の病棟の看護師に、病室を忘れれたのですかと問われ衝撃を受ける。認知が始まった患者に間違えられたのは初めてのことで、院内散歩はこれっきりにした。
 よく考えてみると、認知が始まっている患者に間違われても当然なのだ。そういう年齢に私はとっくになっているのだから。病棟はそのような高齢の患者さんで満ちている。奇声を発する人、夜中に徘徊する人、病室に盗聴器が仕掛けられていると訴える人、さまざまだ。病院は社会が当面している高齢化の矛盾を表現しているなど間の抜けた評論をいまさら書いてもしようがない。私自身がすでにその当事者になっているのだから。
 「団塊の世代」が後期高齢者になる頃まで私は生きているだろうか。かりにその頃まだ生きていたとしたら、私には病院にも介護施設にも居場所は残されてはいないだろう。姥捨山が必要になる。学問を志して以来、ろくな死に方はしない、いずれのたれ死にと覚悟はしていたつもりだが、そのような状態になることを想像すると苦しくなる。

 いつもの入院のように書物とCDを沢山持ち込んだ。時代小説、サスペンス、ハイドボイルド、たまっていた黒井千次の短編集等10冊ほど、C・アバド、D・バレンボイム、N・アールノンクール等10枚ほど聞いた。読み疲れ聴き疲れると、病院で働く人びとの仕事ぶりを眺めていた。働く人びとに接することが出来るのは、書斎にこもりがちな私にとっては楽しいことだ。医師、看護師、理学療法士、食事を運んでくる人、湯茶を配る人、それに掃除の人、病との廊下まで巡回する警備会社の職員等々、私の世界とはまったく違うものを発見し、彼らの働きぶりに比較して時には自分の未熟を思い知らされる。

 入院の際には東寺金堂の薬師如来に参拝することにしている。厳しい外出禁止令をかいくぐって今回も出かけることが出来た。ちょうど「弘法さん」の市が開かれていた。無病息災と長命という私のあつかましい祈願はいままでのところは十分に叶えられている。弘法大師の霊験あらたかと言うべきか。

井上有一生誕百年記念展を見る

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 2016年3月3日、日帰りで金沢市に出かけた。金沢21世紀美術館で開催されている書家井上有一の生誕百年記念展を見るためだ。
 彼の東京大空襲に関する作品はどうしても見たいと考えていた。特に彼が訓導(教師)として勤務していた横川国民学校の悲劇に寄せた書、「嗟横川国民学校」は丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」にも匹敵する、いやそれどころかそれを凌駕して訴えてくる。書物では見たことがあるのだが、どうしても現物の前に立ちたかった。
 この書の前に立って、私は感動のあまり落涙し、
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拝礼した。書の大きさと広がり、筆使いは書物を介しては感知できない。一字を書いた書、草野心平や宮沢賢治を写した書は書家の人間性を浮かび上がらせる。良いものを見たという充実感で満たされた一日であった。

ある越中衆と能登衆の出会い

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  2016年2月28日午後、麩屋町押小路上ルのギャラリー「結」に梅原龍さんの絵皿展を覗きに出かけた。その時から考えていたことを少し書いておこう。
 梅原さんの仕事ぶりはフェイスブック上で拝見していたが、知りあいになったのはある酒場で偶然お会いしたときからだ。富山県出身と聞いた。その時、雪深い富山人が沖縄に住むことにも興味を覚えたが、それよりも富山県出身者に抱いている羨望の念を彼に率直に披瀝したと思う。
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 北海道の私の郷里では、当時富山出身者を「越中衆」と呼びならわし、「越中衆の歩いたあとにはぺんぺん草も生えない」と評していた。越中衆は数も多く、結束力も強く、働き者で、成功者が多かった。私の家は能登半島出身で「能登衆」と呼ばれていたが、彼らも働き者ではあったが、どちらかと言えば下積みの働き者だったと思う。「ぺんぺん草も生えない」という言葉は、富山県人の徹底した稼ぎぶりに対する悪口やひがみの表れというよりも、私にはある種の畏敬の表現だった。子どもの頃からそう感じていた。今でも変わらない。
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 毎年決まった頃に、富山の薬売りが大きな風呂敷包みを持ってわが家に現れた。一年に一度家に置いてある薬箱を点検に来るのだ。点検し、柳行李から使った分を補充する、矢立から筆を取り出しすらすらと記帳する、その仕事ぶりは、外の世界の仕事を滅多に見ることのなかった当時の私には新鮮で驚きの連続であった。私どもに持参した小さな景品も外の世界への憧れを高めたものだった。その頃から越中衆の強靱さは利益のあるところに群がった近江商人たちよりもはるかに魅力的だった。
 お皿のことよりも、おたがいの旅のこと、富山のことが話題の中心になった。富山にはまだ出かけたことがない。無性に出かけてみたくなった。能登衆も越中衆も幕末から明治にかけて北前船で北の海に乗り出していった。毎時の初めに私の祖父は佐渡島から、祖母は能登から北を目指し、言葉も生活慣習もまったく違う二人が北海道のどこかで知りあい世帯を持った。彼らは違いに対する寛容さと他者を受容するすぐれた能力を備えていたと思う。あの時代にちっぽけな船で難破をおそれることなく船出していったのだから、放浪することに抵抗はなかったと思う。
 私は彼らの気質を受け継いでいると確信している。北海道の東端のまちに生まれて放浪できる限り放浪した。異質のものへの寛容さや放浪への憧れも私に内在的なもののように思われる。梅原さんと話していて共感したのは、その憧れについてであったかもしれない。
 自分のことばかり語っているうちに肝心の絵皿を買わずに帰ることになった。そのことをわびると、旅の費用の足しにしてくださいとのこと、別れの挨拶は、またどこか旅先でお会いしましょう、だった。こういう挨拶も放浪者にふさわしい、いいね。(2016.3.5)

新しい上着がほしい(続)

  可能な限り自然の素材を身にまとい暮らしたいと、つねづね心がけている。環境保護主義者、エコロジストを自認する私には、綿製品、皮革、木の製品、特に自然環境に対する負荷の少ない森林から伐採された木材の製品を愛好している。しかし、天然素材のほうが合成物質よりも環境負荷が少ないとは必ずしも言えない。木綿はその栽培に多くの水を使用し、土壌の肥沃度を絞り上げる。安価ですぐに買い換えるような洋服の環境負荷は最悪である。出来るだけ長持ちするもの、直ぐに飽きが来ないものを買い求めることが環境負荷を軽くするためには重要になる。
 
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 さて上着をどうするか。私はこの20年ほど藍染のものを好んで着る。今度も藍染のブレザーがしくなった。西陣の千両が辻あたりに藍染を専門にする店がある。帯や金襴ではな、藍染で売る店が西陣にあるとはめずらしいことだ。診療所の帰り道に散歩を兼ねてこの店を覗いてみた。
 店主のUさんは、私の店の藍染は20年は着て頂けますよと何度も強調した。
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ちょっと待って下さい、私はもうすぐ80歳、20年保障されるなら、私は100歳まで生きなければならない、
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それは到底無理なことです。この問答を何度か繰り返しているうちに、この上着を着たら、曲がり始めた背筋もただされ、活力みなぎる暮らしが続くかもしれないと考え始めていた。新しい服をまとうことには、そのような力があるのだろうと考え始めていた。私が考えていたより高価ではあったが、長く着られ、その分環境負荷が低下すると言うのなら買ってもよいという気分になり始めていた。(2016.2.22)

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 2016年2月13日午後、お世話になっている永原診療会の新しい施設として「自在館ぼたんぼこ」が完成し、その内覧会があった。千本通をはさんで診療所のむかいに完成したいわゆるサービス付き高齢者住宅である。私は単身ではないからこの施設に入所できる資格はないのだが、老齢者、しかも比較的裕福な老齢者層がいったいどのような条件でこの施設で暮らすのか見ておきたいと考えた。
 率直に言って、私の所得では小さな部屋を借りるのが精一杯。ということは、現役の頃、企業内の地位の高かった人か現役の間に十分に蓄えた人に限定される施設と言うことに
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なるだろうか。小さい部屋は、今の生活を捨て去る状況に置かれるか、勇気を持ってその生活規模に合わせる決断をしない限り、私には適応が難しいような気がした。
 西陣地域は地域医療の水準の高いところだ。その支援があれば生存のぎりぎりまで自宅で頑張れるのではないか。私はその支援に期待をかけて厚かましくもそのように生きるつもりでいる。
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 窓から見える景色は魅力的でだ。東山連峰、比叡山も大文字が灯る如意ヶ嶽、北山、西山、船岡山、衣笠山、左大文字等、すべてが見渡せる。五山の送り火は4箇所は確実に拝むことが出来る。ここに住んで、この風景の中でのんびり過ごすのも案外良いのかなと考えたりもした。
 もう少し沢山の人の手に触れ、彼らの息遣いによって堅さが取れた頃に住んでみた見たいとも考えた。もちろんその時にお金があればの話だが。(2016.2.16)

新しい上着がほしい

 70歳を過ぎたあたりから、この世を去るまで何を着て生きるかについてつくづく考えた。洋服ダンスの中には外出の時にまあ失礼にならない程度のなりが出来るぐらいの数の洋服があると勝手に判断した。これらを組み合わせて着ていけば十分だろう、新しく買うこともないだろう、おそらく不格好にも貧相にも見えないだろう、人の値打ちは着ているものでは決まらない、襤褸ををまとっても自分は自分だ、そう勝手に考えていた。
 最近、つくづく感じることがある。どうも人の視線が以前と違うのだ。電車やバスのなかで奇異の目で観察され、時にはホームレスと間違えられた。自分のことを「よぼよぼ歩きの老いぼれ羆」あるいは「放浪老人」と呼び、自らの奇異ないでたちを楽しんでいるふうでもあった。それが最近はどうも周囲の視線が違うのだ。白髪でしみだらけの顔をした老人、色あせた洋服にリュックサック、買い物で膨れ上がったとても高価にはえない袋、これは確かに異様な風体ではではあるのだが。外出する際にはもう少し身なりに気を配るべきだと最近つくづく反省し始めている。
 この反省の態度を決定的にしたのは、昨年秋の北海道旅行の写真だ。自分の写真は滅多に撮らないのだが、珍しく友人に数枚撮ってもらった。写真を見て愕然としたものだ。老いの様々な特徴が露わになっている、白髪は顔色の悪さを際立たせ、精気がまったく感じられないのだ。元の鮮やかな色を失った上着は、この人相をさらに白っぽく貧相に見せるのに一役買っていた。これでは駄目だ、新しい上着を着て、活力のあるところを示さなければならないと、このときから考え始めた。
 「自分は自分」「俺は俺」の原則、わがまま勝手に生きてきた原則も、そろそろ見直しの時期にきているように思われた。いくら町学者を自称してわがままを生き続けたいとは言っても、これから老齢者として生きて行くには社会的な支えが必要ではないか。それなりに着飾って身綺麗にすごして支えてくれる人たちに不快な感じを与えないことが必要ではないか。ささやかでも変化を示せなければ、いくらかでも彩りある暮らしを実現しなければ、そのような思いが募って新しい洋服を買うことに気持ちが昂ぶり始めていた(続く)。(2016.2.2)

80歳の同窓会ー北帰行通信(7)ー

 80歳という区切りの歳になったので、全国に呼びかける同窓会はこれで最後にするという呼びかけが舞い込んだ。はるばる飛行機と列車を乗り継いで出かける気になったのは、この80歳という区切りを、かっての同級生たちはどのように生きているかを見たかった。それで出かける気になった。
IMG_20151108_0003_NEW.jpg 私は2月生まれ、言うとことろの早生まれで、80歳にはもう少し間がある。それなのにもうとっくに80歳になった気でいるのだ。この2,3年、私は早く80歳になりたいと願っていた。70歳代は大病をしたし、病院通いも多くなったかなんとか生きられると思った。80歳を節目に開けるであろう新しい人生の地平を早く覗いてみたかったのである。
IMG_20151108_0001_NEW.jpg 80歳代が今まで以上に死と直面する年代であることは言うまでもない。その年代をどれだけの体力でどれだけの知力でいつまで生きられるのか、どのような夢を見るようになるのか、それを体験できるのは生きながらえたものだけが持ちうる特権ではないのか。厚生労働省が作成している「平均余命表」によれば、男性は80歳になると、大病をせぬ限り、あと10年あまりは生きられるという。10年あれば、まだいろんなことが出来る。しかし、もう人生を10年単位で構想することは残念ながら出来ないだろう。5年単位なら考えられるかもしれない。
 私はこのところ2年毎に入院して身体検査をしている。先日主治医が言うには、80歳になられるのですから、1年半毎に変えましょう、と。医者がこのように提案するところからみると、やはり80歳は節目なのかと納得したものだ。
 同窓会は集まりは出席者はそれほど多くはなかったが、楽しかった。いかに自分が好きで選んだ道にしても、郷里を離れ異境の地をさまよい歩き孤独に生きてきた者には、彼らの交歓の情景を目前にすると自分がそこから疎外された存在として気が引けて、寂寞感が沸き上がってくるのだ。郷里を離れず生きる友を羨ましく思った。
 これでお終いとは言わず、また会いましょう、私はそう挨拶せざるを得なかった。(2015.11.23)
P9200096.JPG 9月19日朝、牧之内飛行場跡を訊ねる前に空襲犠牲者慰霊碑に詣ることにした。根室空襲70周年を機に私に友人たちの努力もあってようやく実現したものだ。当然私の祖母の名前も刻まれており、一度その前に立ちたいと考えていた。今度の旅の目的の一つであった。
 このまちにしては珍しい広さの緑地の公園の南西角に立てられている。この公園、鳴海公園といったと思うが、戦前は民家が密集した地域だったと思う。本町三丁目の自宅から花咲小学校までの通学路であった。集団登校なのであまりよそ見をせずに歩いていたのだろうか、このあたりの記憶はまったくない。平和市場という屋内市場があった、ここは記憶がある。直撃弾で多くの死者が出た場所だ。戦後家が建てられずに、いつの間にか公園になっていた。
P9200093.JPG あいにくの土砂降りの雨、芝生の水はけが悪く、足もとを気にしながらようやくその前にたどり着き、拝礼することが出来た。翌日の朝も、改めて一人で訪れた。雨もなんとか上がり落ち着いて前にたたずむことが出来た。私にとって、これは場合によっては私の名も刻まれたかもしれない墓碑に等しいものであった。
 根室空襲の死者数は正確な数字はわからない。しかし、軍人や軍属をのぞく民間人の死者数は空襲研究会の努力でほぼ確定されている。町民の死者数は従来一般的に通用していた199人を改めて209人であるとした。港外に逃れたが沈没させさせられた徴用船、浦河丸と東裕丸の死者、行方不明者を含めて400人近い人びとが犠牲になったとしている。数字から空襲の悲惨さを判断してはならないのは言うまでもないことだが、このまちの人的被害は北海道内で一番多かった。
P9200095.JPG にもかかわらず、慰霊碑ひとつなかったのは何故だろうか。私は東京大空襲にかかわって執筆した「無差別爆撃と戦争責任ー東京大空襲はなぜこれほどまでに軽視されるのか ドイツ連邦大統領J・ガウクのドレスデン演説に触れて−」(KITA1501、2015年3月、www.focusglobal.org/kitanihito_blog/2/2015/03に収録)の中で、なぜとあれほど甚大な被害と犠牲者を出した東京に慰霊碑が建たないのかについて論じた。東京都が建立しないのなら、他の自治体がそれに追随するのはある意味で理解することはさほど難しいことではない。
 『根室市史』はこのまちの運命を変えた空襲について次のように書いている。わたしはこの文言にずっとこだわり続けてきた。町民の犠牲者と家族に寄り添わないような表現が何故出来るのかと。その箇所だけを抜き出しておこう。「・・・町民は山手方面に待避したので人的被害は・・・僅少であったことは、せめてもの不幸中の幸いであった。」(『根室市史』上巻、根室市、1968年7月、533ページ)200人の犠牲者をどうして「僅少」であったと判断するのか。犠牲者を出した家族にとっては、「幸い」などという表現は禁句ではないのか。これが市当局の空襲に関する最終見解であったとすれば、「僅少」な犠牲者のために碑を建立することなど論外であっただろう。
 この石碑の建立には複雑な事情があったことは、碑自体にも映し出されている。前面に刻まれている根室市長の言葉を読むと、「根室市平和祈念の碑」として建立するとある。 裏にまわると犠牲者の名前が刻まれ、慰霊の碑であることがわかる。
 そうではあっても、このように形あるものとして記憶されることはよいことだと思った。私の気分も一応の区切りがついたようだったが、それでも私はまだ『根室市史』の記述に対するわだかまりを捨て去ることはできないでいる。(2015.11.1)


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9月17日は車で海軍第二飛行場、通称牧之内飛行場を案内してもらうことになっていたのに、あいにくの強い雨。牧之内の飛行場跡地で牧場を経営しておられる別所三夫さんが案内してくれるくれることになった。別所さんは、郡司成忠の報効義会に参加し、北千島の占守島に開拓移住した別所佐吉のお孫さんという。別所佐吉は、数年前に出版されて話題となった淺田次郎の『終わらざる夏』にも占守島に定住している老人として登場する。郡司らの仕事については、北海道開拓論に関わる思想として書いてみたいと構想している。よい人と知り合いになれた。一度ゆっくり話を伺いたいものだ。
 氏は戦後生まれだが、自分が住み働く土地の歴史に関心持ち、この飛行場跡の調査を続けられている。成果は地元の同人誌『わたすげ』に連載されている(別所三夫「牧之内飛行場を歩く」『わたすげ』(その一、その二、その三)第21号、第22号、第23号、根室・わたすげの会刊、2013ー015年所収)。
  私の今回の仕事は朝鮮人使役の資料と関係者の証言を探すことだったが、別所さんのおかげで当時の飛行場の状況を知ることが出来た。ただ、朝鮮人使役の当時の状況についての関係者の証言は少ない。理由はいろいろと考えられる。地元の人たちがこの問題に関心がなかったわけではない。その関心を集約して調査研究を志す人が残念ながらあのまちにはいなかったのではないか。1000人以上の朝鮮人、数百人もの日本人のタコ労働者を過酷に使役して進められた工事の跡を戦争遺跡オタクの独占物のしてはならない。
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 この飛行場は果たして完成して戦闘機が飛び立ったのだろうか。私は完成を見ずに中途で放棄されたと考えている。子どもの頃、木造飛行機が飛んだという噂を聞いたことがある。数機の木造機があったことは確かなようだ。しかし本島の戦闘機は一機もなかった。工事に携わった地崎組もこのことを証言している。それに本来あるべき弾薬庫(おそらく地下施設だったろう)の跡が見当たらない。弾薬庫がなくては戦
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争にならない。この飛行場は中途で放棄された壮大な無駄であった。
 あいにくの土砂降りの雨、車を降りて説明を詳しく聞けなかったのは実に残念だったが、今は近隣漁民の網干場になっている滑走路跡を走り、掩体壕その他を見た。議論は次の機会にと、再訪への私の期待は膨らむばかりであった。(2015.10.25)
    戦争遺跡探索の帰途、Kが花咲港近くに歴史と自然の資料館に私を連れて行った。この資料館にはこのまちに来るたびに足を運んでいるが、収集や展示にあまり変化がない。博物館に昇格を目指していたのだが、いまだに実現していない。できない理由を私なりに考えているのだが、ここでは書かないことにしよう。
 今年の夏に開催された空襲展のパネルが何枚か展示されていた。そのなかに私が探し求めていた写真の一枚を発見し驚愕。この発見が今回の旅の最大の収穫となった。本町3丁目9番地、私の生まれ育った地の空襲直後に撮影された写真である。おそらく新聞記者が撮影したものであろう。無理に連れてきてくれたKに感謝。
 コピーを頂戴し、京都に帰ってからアドビー・フォトショップ
を使って修正してみた。思いがけない当時の姿が現れ始めたのである。1945年7月15日午前8時頃、第一波の空襲で私の家の筋向かいの旅館、三洋館裏から出火。隣組の消防団に加え、消防署の最新鋭消防車3台が駆けつけたが、火勢の強さに立往生、消防士が5人殉職した。一般の民家や旅館がかまどの火を消し忘れ、爆撃により出火したとは考えにくい。旅館も含めて、前日の空襲に引き続き翌日の早朝から空襲があると確信していた。朝食の準備をしていた家があったとは考えにくい。
 三洋館の裏は倉庫であった。軍需物資が入っていたか、その周辺に野積みされていたはずだ。重油の入ったドラム缶もあったかもしれない。異様なまでの激しい火勢は、おそらくそれに引火したためだったろう。隣組の男たちも消火を早々と断念し、地域防空壕(写真右隅のあたり)からの脱出を求めた。脱出を早くに決断したのは賢明だった。坂の上に逃れ、第二波で命を落とすこともなく逃れていくとき、右手に三洋館の火を初めて見た。この世のものとも思われぬ高い火柱、あのように燃えさかる火色は今も私を不安にさせる。
P9180067.JPG 消火のため最後まで残った筋向かいのOさん、逃げ遅れた私の祖母、そして防空壕に残った若者の3人が焼死した。焼け跡には何人かの兵士の遺体があったという。おそらく爆風でどこからかとばされてきたのだろう。
 海上に沈没した船が見える。空襲とともに多数の船が港外に避難、散開した。すべてが陸軍が徴用した漁船であった。ここで何隻が沈められ、何人が殺されたか、記録は一切ない。抵抗する武力のない漁船を沈没させることなど何の技術もいらない簡単な戦闘行為であった。戦闘機の乗員たちはどのような気分で機銃を浴びせていたのだろうか。
 地域防空壕の前の道を10メートルほど進むと、私の家の焼け跡だ。写っていなかった。ほっとした。方々でくすぶり続ける様子からみて、この写真が撮られたのは空襲の数日後であろう。16日に父が一人で祖母の遺体を焼け跡で荼毘に付し、私ども家族が骨を拾いに出かけたのは17日であった。その日に私の家の焼け跡で見た光景、焼け崩れた防空壕から発見された若者の亡骸を膝の上にかき抱いて悲嘆にくれる彼の父の姿、燃え残った木を集め荼毘に付していたその姿を忘れることはない。
 この写真はいつ撮られたものだろうか。撮影者は葬送の姿を避けて撮影したのではあるまいか。それが写っていることを期待もしたが、やはりその光景は写されていないでよかったと思う。この地は私にとってあの日以来ずっと葬送の地である。それを知る人は私だけかもしれない。そうであれば、その姿は私の記憶の中にだけ止まっているほうがよいのではないか。(2015.10.18)