2010年7月アーカイブ

2010年7月30日

眼のこと

昨日N眼科で検査を受けた。眼底写真をとるために瞳孔を開かせる薬を眼に入れる。私の眼は私の性格を繁栄してか頑固でなかなか開いてくれない。両眼にたっぷり注ぎ込むので、丸一日新聞を読むこともテレビをみることもできない。前回の検査と変化なしとの診断だったが、念のため設備の整った京大病院での検査を勧められた。以前から何度も勧められているので、秋には紹介状をもって出かけなければならないだろう。

 眼の異常が発見されたのは十数年前、近くの病院で人間ドックにはいったときである。左眼の眼底に神経欠損が発見され、緑内障という診断が出た。それ以来目薬を持ち歩く日々である。死ぬまで何とか視力が持ってくれるだろうという自分勝手な楽観的見方をしているが、根拠はない。すこしまじめになって精密検査を受けてみようと決意した。

 視力を失った学者は数多い。しかしどの人も若いうちに失明しているから対処方法を発見できた。江戸期の国学者で『群書類従』を編纂した塙保己一は少年期に失明したが、本人の努力で大成する時間があった。多くの弟子たちに支えられての仕事であったろう。

 高島善哉教授の場合、徐々に視力を失って言ったようだから、これも対応するのに十分時間があった。高島教授にはお会いしたことはないが、忘れがたい思い出がある。私が20代の頃つたない論文をお送りしたことがある。丁重な礼状を頂いた。「内」と署名されており、奥様の手になるものであることがわかった。そのころ私は高島教授がすでに視力を完全に失われていることを知らなかった。ずっと後になってそのことを知り感動した。そのような肉体的状況なのに若輩の私の論文にまで気を配られていたからである。内容に関わって書かれていたから、おそらく奥様が読み上げられて感想を口述されたのであろう。

 私の年齢で失明したとすれば、対応策を準備する時間などない。そうならないことをただただ期待するのみである。

2010年7月27日

パンツを買う

肥ると困ることは、病気の因子が増えることのほかに、洋服を買うことに苦労することだ。要するにこの国にはあうサイズがないのだ。

ヨーロッパやアメリカでは私のサイズは通常で大きなサイズは普通にある。アメリカで洋服を買いに入って大きなサイズがたくさんあるのに驚き、喜んだものだ。ヨーロッパに出かけるときにいつもパンツを1.2本買うことにしている。あるとき友人がおまえは何をしにヨーロッパへ来るのかと聞くから、私はパンツを買いに来るのさ、と答えた。このこのようなふざけた会話をして友人と大笑いしたものだった。

この数年ヨーロッパに出かけないものだから、この猛暑をしのぐのに適したパンツがない。意を決して35度をこす猛暑日なのにパンツを探しに出かけた。無駄足とは知りながらデパートの紳士物の売り場にでかける、私は紳士の体型ではないからあるはずがないのだが(こんなに肥えた紳士はいないということだ)。最後はキングサイズの売り場に案内される。この名前も気にくわないのだが、そうも言っていられない。ここも無駄足であった。それから某アメリカ企業の支店を覗いたがせいかなし、結局通販に頼ることにした。通販でパンツを注文するのはリスクが多い。送られてきたものが体型に合わなくとも文句がいえないからだ。

スリムな頃に買ったものを何本か残してある。それにあう体型に戻るまで私のパンツ買いのいらいらは続く。

 

2010年7月21日

きれいに散髪された庭木

R0010919.JPG 異常な豪雨をもたらした梅雨もようやく明け、植木屋さんが庭木を2日がかりできれいに散髪してくれた。我が家の熱帯雨林も終わった。

2010年7月19日(続)

根室空襲65周年・祖母キノの65回目の命日

 奇しくも防衛研究所で資料調べをした前日7月15日は根室空襲の記念日であった。正確には根室空襲は正確には14日と15日の2日にわたる艦載機による攻撃であった。第1日目は主に港湾と船舶の攻撃で市街地の損害はほとんどなかったが、第2日目は港湾攻撃に加えて市街地に対する無差別爆撃を行いこの町の主要部分は破壊され焼失した。港湾に近かった私の家は早朝第1波の攻撃で猛火に包まれた。私の祖母は逃げ遅れて、というよりも助け遅れて無残にも焼死した。80才であった。足は不自由になっていたが頭脳は明晰、それだけに無残であった。

Save0004.JPG 祖母キノは1965年(慶応元年)に石川県羽咋郡西海村風無に生まれ、娘の頃に北海道根室町に渡り、佐渡出身の佐々木岩蔵と結婚、多くの子をもうけたたが、早くに亭主と死別、孫たちも抱えて苦しい生計を魚の行商によって支えた。字も書けずそろばんもできなかった。愛した孫の一人が大学に進み博士号をとるようになるなど夢にも思わなかったであろう。気丈な人だった。

 祖母の愛を受けて育っただけに、私はこの日には彼女のことをかならず記憶の中からひきだすことにしている。

2010年7月19日

防衛省防衛研究所

 半年ほど前に逝かれた同人仲間の上原真さんを偲ぶ会に出席するのにあわせて、以前から資料を集めに行きたいと考えていた防衛研究所資料室の調査に出かけることにした。数日前の16日のことだ。

 以前から根室空襲の理由について考えあぐねていた。あんな小さな町になぜ激しい空襲をしたのか、アメリカの対ソ戦略の始まりではなかったのか、それほど深い意味はなく航空母艦に砲弾を積み過ぎていて軽くしたかったからではないかなど勝手に考えていた。確証はなかった。この地域の防衛に関する日本側の戦略を見なければ解決できないと思うようになったのだ。

 日本の陸軍は敗戦と同時に文書を焼却した。戦時下の記録はこのときほとんど失われた。いくらあがいても資料がない限り真実の発見には至らない。それいらい日本の支配層は不都合な文書を破棄する習慣が一般化したように思われる。自分の責任が追及されないようにするためである。卑劣な慣習が定着したといわざるを得ない。

 5時間ほど調べたが、かって戦史研究所が戦史叢書をへんさんするために収集した当事者たちが所持していたものがほとんどだった。現実にあの町に何人が配備され、どのように要塞を構築し、空襲に対して反撃したか、その際に何人の戦死者が出たか等、具体的な資料は見つけられなかった。しかしおぼろげながら輪郭は見えてきたような気がする。

 資料の劣化は急速に進んでいる。平気で公文書を破棄するやからが資料保存にお金を出すとも思われないのだが。何とかしてほしいものだ。

 

 

 

 

 

2010年7月14日

我が家の熱帯雨林

R0010908.JPG  断続的にスコールのような雨が降る。台風の雨のようだ。雨のせいもあって我が家の庭の樹木も熱帯雨林のごとく繁茂している。数日後には雨も上がって植木屋さんが「散髪」にきてくれる。それまでの雨林の風景である。

2010年7月13日

リュック型トートバッグ

最後の運搬手段ー背負えるトートバッグー

数日前から新しいバッグを使っている。一昨年夏左肩が動かなくなってから、買い物がいっぱい詰まった袋をぶら下げて歩くのが苦痛になった。整形外科の医者からは左腕で重いものを運ばないように診断された。リハビリでかなり使えるようになったものの、まだ力が十分に出ない。たすき掛けできる鞄を買い求めたが、体のバランスがよくない。リュックサックが一番よいのだが、それ自体は買い物袋には向かない。トートバッグに背負子がついたような買い物袋を探していたが先日私の願いにぴったりのものを横浜のある店のショーウィンドウで発見し、買い求めた。使い勝手がよい。そのうちそれを背負っている姿をお見せしよう。

 私は書類鞄やアタッシェケースのたぐいは持っていない。大学教師になってから講演を依頼されることもあり、格好つけるために用意したこともあったが捨ててしまった。高校時代、大学生時代から私の運搬手段はもっぱら風呂敷であった。風呂敷の難点は雨に弱いことだけでかなりの書物を持ち歩けた。著名な教授が風呂敷に包んだ講義ノートと何冊かの本を携えて教壇に上る。格好がよかった。風呂敷をおもむろに広げてノートを広げるその間が何ともいえなかった。あこがれを抱いたものだ。

 あるときから京都ブランドの一澤帆布のバッグを使い始めた。書物がたくさん入る上、食品その他の買い物にも使える。鞄がないのだから外国出張にも持って行った。帆布は雨に強いし、時には座るときの敷物にもなった。かなり高価なのだが傷んだところを修理してくれるのでかなり長い間使用した。3個買い換えた。その間左の腕を通して肩にかけて歩くため、洋服の左肩と左脇腹のあたりがすり切れた。一澤の相続騒動が持ちあがり、一澤のバックを持ち歩くのは強引に店を乗っ取ろうとした連中に荷担しているように見えるので、一澤の袋を使うのをやめた。

 コンピュータの時代に入りノートパソコンを持ち歩くことが多くなった。対応のアメリカ製のリュックサックを利用することになった。コンピュータとたくさん書物を詰め込んで名古屋通いもした。

 職を退いて大量の書物を運ぶ必要もなくなった。財布と読んでいる書物、筆記用具とメモ帳、携帯電話、これぐらいで十分なのだ。常時持ち歩くものは少なくなった。コンピュータもネットブックの出現で小型になった。必要なのは背負い込める買い物袋、トートバッグ兼用リュックサックである。

 これが私の最後の運搬手段になるのだろうか。

 

2010年7月8日

政学

 数日前梅棹忠夫の死去をメディアが報じていた。90歳という。 この人の学問が後世にまで残る高い峰であったかどうかは知らない。ところがメディアの取り上げ方は破格のものであった。経歴を見ると実に多くの勲章を授与されている。これは彼の希有の政治的才能の反映であった気がしてならない。政治権力に取り入って利権を獲得する点で並の学者にはない能力を発揮したといえよう。政治と結びつきを強めて利益を求める経営者を「政商」と呼ぶ。梅棹は政治との関係で新しい学者タイプを作り出したといってもよい。その態度に対する賛否はおいて、彼に「政学」という新たな称号を捧げたい。

 

蛸(たこ)

 ワールドカップサッカーの報道の中で発見したエピソード。衛星で見たドイツのニュースである。ある水族館で飼育している蛸に好物の貝を入れ対戦国の国旗をつけた箱を二つ用意する。蛸がどちらを先に食べるかで勝負を占うというものだ。準々決勝まではドイツの箱を開け占いは当たった。準決勝前日にはスペインの箱を開け、占いはドイツ敗北とでた。報じるキャスターの驚きの表情が度をこしたものだった。占いどおり準決勝はスペインの勝利に終わった。

 もともとドイツ人は蛸やいかを気味悪がって食べなかった。それに対し、スペインほか地中海諸国では好んで食べる。蛸は常食にしてくれるスペイン人に近親感をを覚えて選択したのだろうか。

 

2010年7月4日

歯のこと

一昨日K先生のところに歯の治療に出かけた。特に痛む箇所があるわけではないが、歯のコンディション維持のために定期的に診ていただいている。女性の衛生士がいつものように歯茎の検査から始める。この検査は年々苦痛になる。手入れをサボっている自分が悪いことは承知しているが、昨日一日歯痛に悩まされた。

 年を重ねるにつれて体力の衰えを一番感じるのは歯である。歯茎は緩み歯並びは日ごとに悪化する。かっては特技ともいえたカボチャの種を前歯でわることなどもうできっこない。食べたものが前歯の間からこぼれるようにもなった。通りすがりの同年配の人を観察する際に視線がいくのはどうしても口元になる。どうにか義歯を使わずに過ごせているのはこの乱杭歯を生きながらえさせてくれてたK先生の治療のおかげなのだが、これがいつまで維持できるのか不安になる。

 見事な歯並びを維持している人をみるとうらやましくてしようがない。衛生士の女性にはいつもこのままでは義歯になるのは時間の問題といつも脅されるが一度でよいから年齢相応の状況からランクを上げて褒めてもらいたいものだ。ものぐさな生活態度を棚に上げた私のささやかな夢である。

 

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