2010年8月アーカイブ

2010年8月15日(入院日記抄)

 昨夜主治医から心臓は問題なしとの判断を聞かされる。安堵。

 帰宅。

 納涼古書市

R0010978.JPG 糺の森で毎年開かれている納涼古書市をmのぞく。お目当ての本屋は出店しておらず成果なし。京都では5月に岡崎公園、8月に糺の森、11月に百万遍と年3回古書市が開かれる。全国的に古書店は減っている。京都も例外ではない。本を読まなくなる傾向、経営者の高齢化を考えると書店数は急速に減るに違いない。店舗を持たずネットでだけ商売する書店も増えている。ネットを私は重宝している。本屋を散策する楽しみは減ったが、本を探す仕事はずいぶんと楽になった。

 「終戦記念日」

 今日はいわゆる「終戦記念日」、毎年腹立たしく、いらいらさせられる日だ。もっともらしく戦没者の霊に拝礼し、黙祷を強要する。東京大空襲や無数の地方都市が空襲によって甚大な被害を被った。私自身も家族を失い財産をなくして貧窮のどん底に突き落とされた被害者である。死者数、物的損害について公的な調査もない。民間人の被害は広島、長崎、沖縄だけではないのだ。調査と補償を求めたい。メディアによれば補償を求める全国組織が東京に設立されたという。補償よりも慰霊施設を作り、歴史として残してほしい。このままでは忘れ去られてしまう。

2010年8月14日(入院日記抄)

 今日は検査がないので朝食後帰宅。

 ベットに縛り付けられて見上げる天井の心象風景

  天井を凝視するなど病気になるまで体験したことがなかった。9年前の大腸癌手術の時が病室から手術室に向かう過程で強いられた天井の景色は廊下、エレベーター、手術室、手術台とめまぐるしく変化した。

R0010973.JPG  麻酔から目が覚めたのは種実室の中の一室だったが、天井の景色は麻酔の影響かゆがんでいた。寝返りを打てないから天井を凝視するしかない。病室の天井は無機質で単調なパネルの羅列で面白みがないものであった。同じパターンのパターンが同じ方向に並べられていえるだけだ。天井の風景はしみ一つを発見しても想像力をかき立てられおもしろいものだ。天井が高く遠いとそれの反比例して空想は広がる。それにしても病室の天井はなんと無味乾燥なものなのだろう。

 2年前某病院で検査を受けた部屋の天井は薄暗く煤けていた。担当した医師の技術の未熟さもあり、私は不安になっていた。痛みをこらえて凝視する天井の汚れは不安を増幅させた。この病院での検査の際のことだ。台に固定されて検査が始まると、顔の真上の天井は排気口だった。これいやですねえと言うと、検査技師いわく、これは空気の吸い込み口ですからゴミがおちてくる心配はありませんよ、それにいつも掃除をしっかりやっていますから。しかし見ようによってはその内部の様子は不気味にも思えた。

 病院の天井をこんな気持ちで眺めている人もいる。それとも私は異常なのだろうか。

 

2010年8月13日(入院日記抄)

 今日の検査、心臓の血流をみるIMP血流シンチ。

 栄養指導の会。

 開腹手術記念日

 今日は私の大腸癌開腹手術記念日である。

 9年前、人間ドックで直径2センチメートルのポリープがS状結腸と直腸の間あたりに発見され、癌化していると宣告された。転移の確率は20パーセント程度と言われたと記憶するが、即座に手術を決断した。

 執刀医と面談して手術の同意を求められたときのことだ。あなたは肥っているから合併症の可能性が大きいとして数十もの病名を告げられた。自分の放縦の生活が作り出した結果なのだから、やむを得ないことだと思った。厳しい宣告を下した執刀医も肥満していた。「そういう私も肥満ですがね」、これが彼の口癖だった。

 手術は無事に終わった。その頃麻酔医不足によるトラブルが相次いで報じられていたが、なにごともなく麻酔から目覚めた。手術室から無事に生還して五山の送り火を病院の窓から眺めたいという願いは達せられた。痛む傷口を押さえながら見た送り火は美しかった。私は送り火に送られることなく生きてその美しさを体験できた。

 午後、近くの西本願寺(正確には浄土真宗本願寺派本山)に散策に出かけた。七条大宮でバスを降り、龍谷大学大宮学者を抜けて西北の門から境内にはいる。

R0010961.JPG 龍谷大学大宮学舎は明治初年の建造で守衛室を含めて重要文化財に指定されている。日本の大学建築としては屈指の美しさである。このあたりには西本願寺系の教育施設が集中している。

 西北の門は何という門だろう。格の高い大名屋敷の門を思わせる。京都を訪れる人々のほとんどは下京区一帯が東西本願寺の寺内町であったことを知らないだろう。寺内町とは本願寺の信徒、いわゆる門徒がつくりあげた宗教的自治都市R0010967.JPGである。町の中心には集会所を兼ねた寺があり、堀を巡らし、敵の襲撃にそなえて町割りがされている。奈良県橿原市の今井町、大阪府の富田林市に見事な遺構が残されている。その時々の権力者は門徒の抵抗力を恐れたのであろう。両本願寺の堀と土塀を構えた風景をみるとその勢力の大きさを痛感する。このあたりを散策するといつも新しい発見があって楽しい。

 

2010年8月12日(入院日記抄)

 台風の影響で未明に雷鳴とどろく激しい雨。

 腹部超音波検査で前立腺肥大が確認されたので、泌尿器科受診。手術の必要なし、癌の心配もないとの診断。

 心理療法士の先生と面談。前回の入院の時にも面談があったが前回とくらべて変化があるかどうかの確認という。前回同様絵を描かされた。リンゴのたわわに実る樹をを描きたかったが似て非なるものになった。札幌市郊外にあったたくさんのりんご園、宅地化でもうあとかたもなく消え失せたであろう。ドイツ留学中に下宿した農家の庭にリンゴの木があった。実は小さいが美味であった。

 晴れ間に近くの東寺に散策に出かける。

R0010955.JPG 東寺、正確には教王護国寺、弘法大師空海にたまわった寺である。平安京の南の門である羅城門の東西に寺が建立されたためにこのように通称される。

 この寺を散策するのは今回で3度目である。最初は京都に住み着いてまもなくのことだった。金堂の薬師如来、講堂の大日如来を中心にした曼荼羅を表現したとされる仏像群が照明もなくほの暗い堂内に浮かび上がる様は「荘厳」としか表現しようがなかった。第2回目は2年前の入院の時に訪れた。今回は2年前の時よりも仏たちへR0010959.JPGの私の長命への願いは強まったいた。果たしてこのような身勝手な願いが仏たちに聞き入れられるものなのか。雨上がりの蒸し暑い堂内でしばらくの間仏たちの前に座していた。

2010年8月11日(入院日記抄)

 今日の検査。頚部単純MRA。

 看護師

 いつ頃から「看護婦」が「看護師」に変わったのだろうか。他の病院の状況はしらないが、私の入院する病棟には男性の看護師が一人配属されている。病院全体では10数人は働いているそうだ。

 看護の仕事には女性が向いているという考えは男性の身勝手が作り出した考えだ。男性看護師の働きぶりをみているとその感を強くする。しかもこの職種は男性の筋力を必要とする。今後も増えることを期待する。

 だいぶ前のことになるが、膨大新聞の夕刊一面にのった関西財界のリーダーといわれる人のエッセーを鮮烈に記憶している。外国人労働者問題に関するものだったが、看護婦としてフィリッピン女性の導入は結構、なろうことなら金髪白人女性をホステスにというものであった。その下品さに驚かされたが、それ以上に白人女性に対する劣等感とフィリッピン女性を看護婦にと言う身勝手さには驚かされた。このエッセーを載せた新聞のデスクの見識を疑った。

 つい最近だが、この新聞の文化欄にウィーンフィルハーモニーではじめて女性として楽長に就任した女性のエッセーが掲載された。ウィーンフィルは女性を採用しないことで有名なオーケストラであったが、最近否ってようやくその「伝統」を破棄した。そういうこともあってこのエッセーを興味深く読んだ。ところがである。筆者も翻訳者も肩書を「コンサートミストレス」としているのに、見出しは女性初の「コンサートマスター」とあった。あいもかわらぬデスクの見識のなさではある。

 

2010年8月9日(入院日記抄)

 今日の検査は24時間血圧と心電図を測定する検査。今夜は熟睡できないだろう。

 病院の食事

 大きな病院はケータリングを利用しているところが多いが、この病院では院内で調理しているようだ。中央卸売市場餅核にあり、よい素材を仕入れることができているのかもしれない。

 2年前の入院のR0010938.JPG時には毎食ほぼ余さずに食べていた。今回はどうも食欲がわかないのだ。理由ははっきりしている。年齢を重ねるにしたがって好き嫌いが強くなるようだ。家では朝食はパン食だから和食が出ると食欲が減退。家では玄米食で茶碗に少々頂く程度なのにここでは白米のご飯がたっぷりと出てくる。残すのがもったR0010941.JPGいないから量を減らしてくれるよう申し入れたら、さっそく栄養士さんが相談にやってきた。

 最小限必要なカロリーをご飯で確保できるように献立を作っているので、なんとか食べてほしいと言われた。私の嫌いな食品をできるだけ出さぬようにし、ご飯の量を少々減らしてもらえることになっR0010943.JPGた。

 私のようにうるさい患者に対応するのには苦労も多いだろうが、」このようなきめ細かい対応ができるのもケータリングに頼らずやっていればこそだろう。今日の食事の写真を載せておこう。

 長崎原爆投下65周年の記念日であった。

2010年8月8日(入院日記抄)

 朝食後帰宅し、洗濯、入浴、メール、来信等を処理。

 検査をすると、体のきしみと病が次々と見つかる。しかも検査機器の精度が上がっており、利用技術も向上しているので、以前よりも正確に状態を把握できるようになった。

 ひとによっては、知らなくてもよいことまで知って不安になることはないのではないかというかもしれない。

 確かに働き盛りの人たちにとっては病の発見や宣告によって不安のどん底に突き落とされることもあるだろう。私の年代になると、病に対する態度は変わってくるようだ。先祖から長寿のDNAを受け継いでいる人たち、裕福に暮らし病巣を先手を打って取り除いてきた人は確かにいる。長い間一心不乱に働いてきた普通の人たちがある時期から病に冒されるのはある意味で必然なのだ。

 老いと分かちがたく結びついた状況をあらかじめ把握しておくことはこの年代で生きていくには重要なことではないだろうか。

2010年8月7日(入院日記抄)

 散歩に出ていないので今日の負荷心電図検査はきつかった。

 午後意を決して散歩に出た。やはり足が重かったが市バスで烏丸七条まで行き東本願寺(正確には浄土真宗大谷派本山)に参詣した

R0010931.JPG 壮大な伽藍である。この寺は本尊の阿弥陀仏を祀る御堂より宗祖親鸞をまつる御影堂(ごえいどう)の方が大きく中心に位置している。御影堂では通常の宗教行事が執り行われていた。風通しがよく涼しいこともあって1時間ほどここで過ごした。風も読経の響きも心地よかった・

 私の家は熱心な門徒であったから、戦争前の私の家では毎朝家族全員が仏壇の前にあるまり、父が経を上げた。私の年齢の人には国民学校(現在の小学校)で強制された教育勅語、神武に始まる天皇の系譜を諳んじることができるひとがいる。私はすっかり忘れてしまった。しかし父のお経の声はまだ私の耳にのこり、所々を覚えている。

 道内に響く読経の響きのなかで私は父を思い出していた。父は胃ガンで59歳でなくなった。せめてあと10年生きていてくれたら。父と息子の対話が私の人生の最重要のたからとなったものを。残念でならない。

2010年8月6日(入院日記抄)

 午後近隣に散歩に出ようと思ったが、この猛暑。ものともせず外出する気力が萎えた、

今日は65回目の広島原爆投下の記念日であった。原水爆禁止運動に積極的に関わったいた学生時代を思い出していた。核廃絶を目指すの歴史の遅々たる歩みにもどかしさを感ぜざるをえない。

2010年8月4日(入院日記抄)

 6人部屋に入れられた。病の重い人たちのなかで暮らすのは少々気が重い。体の内部に変調があるとしても元気そうに見えるのだから。個室と違い夜は8時30分消灯、朝は6時30分頃電気がつく。エアコンがきつすぎて寒い。寝間着を冬物に換えなければならない。

2010年8月3日(入院日記抄)

 下京区西部にあるM総合病院に今日から入院。

 2年前の9月に入院したときには体調は最悪だった。この2年間は自制心も働いて体調はいくらかましになったような気もするが、なにしろだらしなく生きているのだから実際の状態はどうなの確認し、そろそろ生活設計を再検討することが必要だ。 

 無数の検査が待っている。

2010年8月5日(入院日記抄)

 60代半ばになって、生まれて初めて自分の体にメスを入れざるを得なくなったとき、ああとうとう体を切り刻まなければ生き延びられない年齢になったのかと、つくづく考えさせられた。それ以来自分の老いについても考え方が少しずつ変わっていったように思う。

 有り余るほどの活力を持って生きている人と老いていく人が直面する病では受け止め方が違う。前者は病と格闘するが、後者は結局は受け入れざるを得ないのだ。

 70年以上使い続けた体は至る所できしみ始める。高齢者の病はきしみと不可分にむずびついている。老いの現象と病を明確に区別することなどできないのだ。

 残念なことに知力は衰えない。記憶力は確実に落ちてはいるが論理的な思考能力はあまり衰えない。感性も同様だ。美しいもの、魅力的はものへの憧憬はむしろ強まる一方だ。体力の衰えとのギャップが焦燥感を生み出す。生きたいという希みはますます強くなる。だから私の病院通いは続く。

2010年8月2日

「努力」という並の表現ではとらえきれない営為ー下村脩教授の「私の履歴書」を読んでー

 2008年ノーベル化学賞受賞者下村脩教授の『日本経済新聞』「私の履歴書」の連載が終わった。毎回感動と畏敬の念をもって拝読させていただいた。

 連載には「努力」「がんばる」という表現が数多くしようされ、最終回(7月31日)にも若者たちに「あきらめず、がんばれー失敗気にせず逃げないでー」と呼びかける。しかし教授の努力の持続と研究対象に対する愛着は月並みな表現ではとらえきれない。しかも教授の経歴から見て取れるように、研究対象は主体的に獲得されたものではなく、上司から当てられたものであった。それを自らの楽しみに転換できるのは相当の葛藤と時間が必要だったのではないだろうか。

 私などは好きなものを研究対象として取り上げてきた。研究の経過の中でおもしろいと感じ始めたらしめたものだった。そんなことばかりやっているから研究成果も半端なものになり、周囲に嫌われもした。下村教授の生き様を私自身がまだ成長の過程にあるときに学ぶことができたら、私の人生ももっと豊かなものになっていたに違いない。

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