2010年11月アーカイブ

1010年11月17日ー江州豊郷町散策ー

   昨日江州豊郷(とよさと)町に調査をかねて散策に出かけた。関西に住む人ならこの町の名をしている人は多いだろう。10年ほど前だろうか当時の町長がヴォーリスの設計になる小学校校舎を壊して新校舎に変えようと画策し、反対する町民との騒動になった。結局旧校舎は保存され、新校舎も建設された。旧校舎は今ではこの町の最重要の観光資源となっている。壊さずによかったのだ。なんとも皮肉な話ではないか。上りの東海道新幹線で大津駅を過ぎて米原よりの左側ににたんぼが続く風景の中にこの二つの校舎の奇妙な風景を見ることが出来る。

 この町は多くの成功した近江商人を輩出したことでも有名である。立派な小学校もその成功者の寄付で建てられたものである。この町を前から訪ねてみたかった。幕末から明治にかけて蝦夷(北海道)、とりわけ私の故郷である根室を拠点に回漕業(北前船)、根室、国後の漁業場所請負、缶詰等の水産加工業で成功した豪商藤野家がこの地の出身であり、その屋敷が残っていると聴いたからだ。

 近江鉄道豊郷駅を降りて直進すると旧中山道にでる。左折すると伊藤長兵衛邸跡の記念碑、そのすこし先に伊藤忠商事の創設者である伊藤忠兵衛の邸宅があり、記念館として公開されている。その先数百メートルほど先に藤野の屋敷がある。

 その外観のみすぼらしさに失望した。藤野家の財力はこれほどのものではなかったはずだ。入場券を買って中にはいってもこの失望感は変わらなかった。展示されている彦根屏風や北海道松前町の繁栄ぶりを描いた松前屏風は素人の私が見ても模写であった。説明を聞くと藤野家は早い時期に没落し家財を手放して神戸に去ったという。その屋敷の一部が旧日枝村の役場に転用され、改造のためかなりの手が加えられたのだろう。豊郷町に合併後は役場が移転して空き家になり、放置されて荒れ放題となった。ごく最近に篤志家の支援で母屋の部分が昔の雰囲気に修復されたのだという。屋敷というよりもむしろ屋敷跡といったほうが正確だろう。

R0011021R.jpg しかしながらよく観察すると、むかしの雰囲気は母屋よりも大きな築山と見事な石組みの庭、かろうじて残された門と文書倉に偲ぶことが出来る。武家屋敷を思わせる門構えから推してかってはこの数倍の広さの邸宅だったのだろう。庭を囲むように10棟に近い倉が建ち並んでいたと言う。近江商人は天秤棒で古着を行商するだけでこれほどの財をなしたわけではない。利にさとい人たちであったことは確かではある。東海道、中仙道、琵琶湖という交通路の要にあって各地の情報を収集するのにこれほどまでに適した場所はなかったろう。資本主義という仕組みの成立には近代的資本に変わりうる蓄財が前提となる。北海道はそのための格好の場所であり、近江商人はその役割をになった集団であった。近江商人の広大な屋敷を見るたびに先住民アイヌに対する過酷な搾取をおもうのである。

R0011025R.jpg 藤野家はなぜここまで没落したのだろうか。第1に、銭屋五兵衛や高田屋嘉兵衛のように旧勢力に財をむしり取られたのであろう。高田屋の没落後高田屋の経営していた場所を請け負えたのも、井伊直弼の政治力が背景にあったのかもしれない。井伊家は当然のようにむしり取ったはずだ。第2に、近代的資本に変わっていくための決断と才覚に欠けていたのではないか。経営の現地化が必要だったのではないか。近江から経営するには北海道はあまりにも遠隔の地でありすぎたのではないか。

 部屋の隅を厚かましくも探しまくって埃をかぶったままの古い写真の山をみつけた。家族写真のなかに珍しい貴重な写真があった。明治20年(1887年)北海道開拓使から払い下げを受け、藤野の事業の中核となった別海缶詰所の全景と内部の機械設備を写したものである。絵図には残されているが、写真が残されているとは。産業史の貴重な資料である。この他に千島列島のどこかにあった缶詰工場のものもあった。これらの工場設備はその後日魯漁業に譲渡されたが、日本の水産加工業の先駆となったものだ。

 近江では商業的成功は地元への貢献を基準に評価され、北海道で何をやったのかなどあまり関心がないのだろう。北海道はやはり日本近代の裏なのだ。それに加えて、成功者である伊藤家と没落して歴史の表舞台から消えていった藤野家との対照的な光景をつくづく考えさせられた一日であった。

  

1010年11月15日ー地獄絵図ー

 先週、11月10日に龍谷大学大宮学舎で展示されている「均整庶民の信仰と学びと娯楽」と題する展示を覗いてきた。地獄絵図が展示されていると人づてに聞いたので是非ともみたいと思っていたので、最終日にようやく出かけることが出来た。幕末から明治初期の頃の極彩色の地獄極楽絵図の掛け軸、源信の『往生要集』の地獄の業火だけが赤で色づけされている絵入版本などが興味をひいた。

 地獄思想が浄土真宗の教義に本来のものかどうかは知らい。しかしこれらの版本が多くの家で所蔵されていたのはなぜだtろうかと考えている。戦前の私の家にも本ではないが絵図があった。嘘をつくと地獄で閻魔大王の前でその真偽が問われ、舌を抜かれると教えられた。仏壇のある奥の部屋は電灯もなく薄暗かった。灯明に照らし出された極彩色の地獄絵は子どもには刺激の強すぎるものだったのだろう。その恐怖心はいまも私に焼き込まれている。数年前に台湾を旅しているときにお寺で極彩色の閻魔大王像に対面したとき、同行のR君が「ものにあまり動じない先生らしくないですね」といったくらいに、あの頃の怖れの感覚がよみがえった。

 地獄絵は子どもに社会的規範を学ばせる教本のようなものではなかっただろうか。嘘をつくことはよくない、人のものをくすねることもよくないと諭すには効果的だった。そのような習俗はもはやない。社会的規範は家庭内でどのように躾けられているのだろうか。  

2010年11月8日−料理の意味ー

 「料理がお好きなそうですね」「料理がお上手ななそうですね」と問われると、いつも返事に窮する。そもそも台所に立つようになったのは、趣味や物好きのせいではない。始めたときもうまいものを作りたいという気持ちはさらさらなかった。いささかきざな言い方だが、生活のためだ。生きていく糧を、エサを調達し整えるためだといってよい。

 漢和辞典で「料理」「調理」を調べてみた。驚いたことに、私どもが想像する意味はなかった。「料」はその字から明らかなように、升で量るという意味で、適切に整える。適するように整えるという意味だという。「調理」もほぼ同じ意味である。ついでに言えば「割烹」とは切り裂くという意味だそうな。

 うまいものを拵える、うまいものを提供するという意味は日本語の意味であった。漢字の本来の意味は、まさに私がやってきたことで、そう考えると気持ちが楽になる。

  

 

 

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