2010年12月アーカイブ

2010年12月30日−歳末、おせち料理ー

  年齢を重ねるとともに、新年を迎えることに感動を覚えることはおろかあらたまって新年の行事を行うことも面倒くさくなってきた。子ども頃は年があらたまるごとに年齢が一つ増え、除夜の鐘を聞くと父と一緒に神社お寺に参拝し、雑煮の水を準備する。家族があらたまって新年の挨拶を交わしたものだった。今は年齢がふえる訳でもなく、新年に関わる宗教的習俗も私の家からは消えてしまった。残った習俗は年賀挨拶の代用として発達した年賀状交換とおせち料理くらいだろうか。

 年賀状は年々出すのもくるのも減ってくる。年齢を重ねるとともに、準備がだんだんとおっくうになる。今年で止めますという挨拶状も舞い込むようになった。生きている証として死ぬまで出したいと思っている。数年前からメールアドレスを持つ人にはメールで年賀状を送ることにしている。ところが個人や家庭の次元でのIT化は遅遅として進まない。紙を出来るだけ使わない暮らしを心がけることは地球への負荷を減らすために重要なことだと思うのだが。

 おせちは以前は料亭から取り寄せたり自分でかなりの数を作っていたが、今はもうそれにも飽きてしまった。食べたいものを二つだけ作っている。一つは棒鱈と海老芋の炊いたもの、それに数の子である。海老芋は別としてどちらも以前は北海道からきていたのだが今ではロシヤからの輸入である。

R0011042.JPG 真鱈の干物である棒鱈は水で戻す必要があるが、料理する日の朝に錦市場に戻したものを買いに出かける。適当な大きさに切ってもらう。海老芋は字の通りにその姿はえびに似ているのでこのように呼ばれる。里芋やセレベスよりも高価であるが、年に一度のことだからこの芋にしている。鱈や芋の本来の味を損なわないように味付けするのが私流である。 

2010年12月21日ー教授手作りの干し柿−

     この季節になるといつも厚かましくも心待ちにしている友人からの贈物がある。手作りの干し柿である。うれしいことに今年も頂戴できた。

 市販のものと違い外見は良くないが、口に入れとその自然の甘味ととろけるような柔らかさ感じ取るとまさに至福と表現する他はない。講義の多忙の合間に干し柿づくりに精をだしておられる情景を思い浮かべる。おそらく特別の種類の柿を使っていられるに違いない。その柿の木は自宅にあるのだろうか、皮をむき軒下に天日干しするその姿を想像するだけで美味はいっそう深まるのだ。

 作った人の姿が見えるものを食する、それが最高の美味ではないだろうか。いかに高級感のある店であっても食事の客から隔てられた厨房で料理されて供されるものには不安がつきまとう。縄のれんの店であっても板前で料理するところを目で楽しめることのほうがはるかに食欲をそそり、美味ではないだろうか。

 かって私たちは地域でそれそれの家で作ったものをおすそわけとして交換しあったものだ。その料理には作った家庭や個人に独自の美味があった。いまの都会の暮らしでは想像もつかないだろう。そのような関係はおそらくないだろう。地域の再生が叫ばれている。そのためには美味の交換も重要な意味を持つ。 

2010年12月27日−Mさんの訃報に接してー

 高校時代の同級生Mさんがなくなった。同世代が亡くなるとこたえるが、親しい友人、同級生となるとつらい。このブログでは昔話と政治のことは取り上げないことにしているのだが、Mさんを偲びながら昔のことを思い出していた。禁を犯して昔のことを少しだけ語りたい。

 Mさんの家と経営する工場は私の生まれ育ったまちの西端の海に面した小高い丘の上にあった。あのまちの冬の暮らしはきびしい。内陸部に比べると最低気温ははそれほど低くはないが、半島を吹き抜ける強い風を受けると身体は芯まで凍てつく感じになる。空も時化る海も水平線を確認できないほどにどんよりとしていて気分を憂鬱にする。低気圧がきて三日三晩吹雪くと、真っ白の風景に嫌悪感を覚える。こんまちは日本海側のようにあまり雪は降らないが、強風に雪が吹き飛ばされいつも地吹雪の状態になる。

 シベリヤ、アムール川に発する流氷の帯が知床半島をまわって根室海峡に入るのは1月末から2月頃だった002.JPGろうか。流氷の接岸は夜寝ていてもわかる。荒れる海の波音が消え去り、かわって氷のきしむ音が聞こえてくるのだ。湾の中が結氷するとその音も聞こえず全くの静寂となる。流氷の上を渡ってくる風の冷たさは表現のしようもない。あらゆる防寒服を突き破って骨の中まで凍り付くかのような感覚であった。これはMさんの家で 眼下に体験されるきびしい日常であったはずだ。

 もちろん美しい体験がないわけではない。流氷がわずかばかりを波打ち際に残して去った後の春の兆しの美しさは冬が長いだけに心が躍った。しかし、その美しさをもってしても長いきびしい冬の住みにくさに変りはない。

 私がこのまちからの脱出をはかったのはこの厳しさのせいだけではない。私を無謀な試みに駆り立てたのは向上心であった。このまちの外には自分の向上心を満たしてくれるすべてがあるように思われた。

 「運」とか「縁」という表現に最近こだわるようになっている。Mさんの訃報に接してあらためてそのことを考えている。私は脱出のためにしがらみを振り捨ててなりふりかまずさまざまな機会を利用した。誤解しないようにしてほしい。縁故を利用したり他人を踏み台にしても上昇したいと努力したわけではない。多くの人々の支援や励まし、機会の提供があった。その人々には今でも感謝している。与えられた機会に相応の努力をしたからこそ大学進学や学問への「運」を招き寄せることができたのだ。

 数年前から調査と同窓会出席のためこのまちに帰る機会が多くなった。私がなりふり構わず脱出した行為が幾人かの同級生には受容されていたことを知っていくらかは安堵した。Mさんもその一人であった。それとともにこのまちで、このまちを去ることもなく「運」を切り開くしかなかった彼らの努力を思わざるをえなかった。

  Mさんもまちに暮らしていたら、死に至る病の発見も容易であったろう。これも「運」がもたらしたものだろうか。あまりに早く訪れた死、あまりに残酷な「運」の結末に心が痛む。ご冥福を祈る。

2010年12月11日−肩のことー

 一昨年夏のことだ。台湾旅行から帰ったその日から左肩がまったく動かなくなってしまった。上がるどころか回りもしないのだ。重い荷物をひっぱてきたため疲労が蓄積したなどと勝手な理屈をつけて医者に出かけるのをためらっていたが、いっこうに良くならず、医者探しがはじまった。肩の腱が断裂しているから手術でつなぐ必要があると診断した医者もあり、最終的に京都府立医大神経内科の教授が頸椎異常による神経の圧迫によるもので、手術以外に治療の方法はなく、かりに手術しても元は戻る可能性は少ないとの診断結果が出た。元に戻らぬなら手術はしませんとの私の態度を受け入れてくれ、リハビリに専念させてくれた主治医のM先生には感謝の言葉もない。1年半も週1回リハビリに通った。なんとか肩が動くようになり、いまは力がつくように努力している。

 利き腕を使えば何とかなると強がりを言っていたが、左を使えないのは不便この上なし。洋服の脱着もままならず、外出しても手すりをつかむ、つり革につかまるのも右手ばかり、ものを落とすこともたびたびであった。しかし一番大きな影響は身体のバランスが極端なまでに悪くなり、腰痛や歩行の困難等の症状が現れ始めた。前途を悲観する気分にもおそわれたものだ。

 力がいくらかは戻り初め、身体のバランスもだいぶよくなったように感じられる。不思議のなもので頭の調子も明朗になり始めた。いまは持ち上げる力を回復させるために努力している。

 

 

 来春75歳になる。今の体調からすればよほどのことがない限り無事にその時を迎えられるだろう。70歳で現役を終えたとき、生活水準の見直しと整理の作業を始めた。大胆に取り組んだ筈だったが、私の身辺は依然としてものの山である。老いは急速に進むものと思ったが、そうはいかなかった。捨てる行為にあわせて書物を買い込んだ。衣服も着の身着のままとはいかなかった。これは想定外の成り行きだった。

 長く生きてこの世の末を観察したいという願望が強まっているが、70歳の時に見通せた程度に自分の生を見通すことはもう出来ないだろう。とすれば、そろそろ老いに備えなければならない。物忘れが常態化すれば、何を持っているのかさえわからなくなり、自分の生活そのものを掌握することさえ難しくなるだろう。

 生活を見渡せる規模に縮小しようと決めた。とりあえすは書物の山の処分である。ライフワークとしてそのうち取り組みたいと蓄えたものを破棄することにした。今取り組みたいテーマ、いま書きたいことに集中して生きることにした。なんとか書棚に重ねて積み上げる状態を解消し、どんな本を持っているかを見渡せるようにしたいと願っている。

 次は膨大なノートや手帳、日記のたぐいの処分だ。高校生の時のものもある。すでに出版、印刷されている原稿はとっくに捨てた。ノートやメモは眺めているとかっての努力の過程がよみがえってきて愛着心が強まるばかりだ。しかし書物はまだ他人の利用に供される可能性があるが、ノートは家族にとっても紙くず以外の何物でもない。大胆に捨てようと思う。

 

このアーカイブについて

このページには、2010年12月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2010年11月です。

次のアーカイブは2011年1月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。