2010年12月27日−Mさんの訃報に接してー

 高校時代の同級生Mさんがなくなった。同世代が亡くなるとこたえるが、親しい友人、同級生となるとつらい。このブログでは昔話と政治のことは取り上げないことにしているのだが、Mさんを偲びながら昔のことを思い出していた。禁を犯して昔のことを少しだけ語りたい。

 Mさんの家と経営する工場は私の生まれ育ったまちの西端の海に面した小高い丘の上にあった。あのまちの冬の暮らしはきびしい。内陸部に比べると最低気温ははそれほど低くはないが、半島を吹き抜ける強い風を受けると身体は芯まで凍てつく感じになる。空も時化る海も水平線を確認できないほどにどんよりとしていて気分を憂鬱にする。低気圧がきて三日三晩吹雪くと、真っ白の風景に嫌悪感を覚える。こんまちは日本海側のようにあまり雪は降らないが、強風に雪が吹き飛ばされいつも地吹雪の状態になる。

 シベリヤ、アムール川に発する流氷の帯が知床半島をまわって根室海峡に入るのは1月末から2月頃だった002.JPGろうか。流氷の接岸は夜寝ていてもわかる。荒れる海の波音が消え去り、かわって氷のきしむ音が聞こえてくるのだ。湾の中が結氷するとその音も聞こえず全くの静寂となる。流氷の上を渡ってくる風の冷たさは表現のしようもない。あらゆる防寒服を突き破って骨の中まで凍り付くかのような感覚であった。これはMさんの家で 眼下に体験されるきびしい日常であったはずだ。

 もちろん美しい体験がないわけではない。流氷がわずかばかりを波打ち際に残して去った後の春の兆しの美しさは冬が長いだけに心が躍った。しかし、その美しさをもってしても長いきびしい冬の住みにくさに変りはない。

 私がこのまちからの脱出をはかったのはこの厳しさのせいだけではない。私を無謀な試みに駆り立てたのは向上心であった。このまちの外には自分の向上心を満たしてくれるすべてがあるように思われた。

 「運」とか「縁」という表現に最近こだわるようになっている。Mさんの訃報に接してあらためてそのことを考えている。私は脱出のためにしがらみを振り捨ててなりふりかまずさまざまな機会を利用した。誤解しないようにしてほしい。縁故を利用したり他人を踏み台にしても上昇したいと努力したわけではない。多くの人々の支援や励まし、機会の提供があった。その人々には今でも感謝している。与えられた機会に相応の努力をしたからこそ大学進学や学問への「運」を招き寄せることができたのだ。

 数年前から調査と同窓会出席のためこのまちに帰る機会が多くなった。私がなりふり構わず脱出した行為が幾人かの同級生には受容されていたことを知っていくらかは安堵した。Mさんもその一人であった。それとともにこのまちで、このまちを去ることもなく「運」を切り開くしかなかった彼らの努力を思わざるをえなかった。

  Mさんもまちに暮らしていたら、死に至る病の発見も容易であったろう。これも「運」がもたらしたものだろうか。あまりに早く訪れた死、あまりに残酷な「運」の結末に心が痛む。ご冥福を祈る。

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このページは、kitanihitoが2010年12月16日 09:17に書いたブログ記事です。

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