2011年3月22日ーあまりに凄惨な(続)ー

 人はこの世に生まれて生活する場所と時代を選び取ることは出来ない。そこで災厄に見舞われた人の数だけ運命の岐路がある。阪神・淡路大震災のときにも燃えさかる長田の火を映し出す映像を見て、前の戦争の空襲の記憶が次々とよみがえってきたものだった。田舎のまちの戦争には空からの映像などなかった。わたしの家もまちもあのように燃えたのだろうと思った。あの火の下には人の数だけ人生の岐路があるのだと慄然とさせられた。それだけにヘリの上からの無神経な実況放送に立腹したものだった。
 今わたしの脳裏をよぎる思いはあの戦争の体験であり、その体験を重ね合わせた罹災した人々への共感である。戦争が人災であることはうまでもない。しかし大都市ならともかく田舎のまちが攻撃されると誰が想像できただろう。軍が密かに進めていた要塞化のをどうして知り得ただろうか。空襲はわたしにとってまさに晴天のへ霹靂であった。米軍艦載機の銃撃や爆弾を逃れたのは運としか言いようがない。家族はちりじりになり、お互いの安否を確認できたのは夜遅くになってからであった。祖母は逃げ遅れて、というよりも助け遅れて無残にも死んだ。焼き場(火葬場)は処理能力を超え、父はやむを得ず我が家の焼け跡で荼毘に付した。
 祖母の骨を拾いに避難先から出かけたとき、高台からみたまちの風景はいまだに忘れられない。町の中心はいくつかの鉄筋建造物の残骸の他は土蔵や耐火金庫が残るのみで見渡す限りの焼けただれた荒野であった。祖母の骨を皆で拾った情景はいまでもわたしの脳裏に焼き付き、家族を突如襲った災厄の記憶はこの歳になっても胸ふさぐ思いを蘇らせる。
 あの映像には罹災した人の数だけ悲しみがあり、生涯ともにせざるをえない体験がすり込まれるのだ。
 石原慎太郎はこの災害は積年にわたってためこまれた日本人の私欲という心の垢を洗い流す好機だという、「天罰」だという。あえて彼に問いたい。なぜ東北の民が、しかも高齢者や病を持つものが罰を受けなければならないのか。罰を受けるべき現代のソドムとゴモラは彼の統治する東京そのものではないのか。戦争を企んだものたちの責任を回避し、災厄を被って苦しんだ民に懺悔を強いた論理と同じではないか。

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このページは、kitanihitoが2011年3月19日 18:37に書いたブログ記事です。

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