2011年6月アーカイブ

 関西電力が需用者に15パーセントの節電を求めることを決め、着々と実施させているようだ。マスメディアはは毎日天気予報とあわせて電気予報なるものをを発表し、この雰囲気を連日あおり立てている。
 この状況は実に奇妙なことだ。私のような小口の需用者といえども電力会社と契約を結んで電気を買っている筈なのに、節電の要請を直接には受けてはいない。電力料金支払いを滞納すれば当然のように契約を盾にとって送電を止めるのに、いったいこの状況はどういうことだ。
 電力需給に関して電力会社から公表されるデータがはたして正確なものかについて、私どもに検証する手立てはない。しかしいい加減なものと断ぜざるを得ない。たとえば工場やオフィスビルの電力需要が減少する時間帯、日曜祝日の需給関係はどうなっているのか。この時間帯にまで節約の要請する必要があるのか。
 そうじてこの騒動は、原子力発電を延命させるための策動に見える。このまま電力消費を続けたいなら、原発再稼働を認めなさいと言う脅迫ではないのか。その策動に易々とのせられている状況を見せられると、戦時下の体験を想起させられる。「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」のスローガンのもとに節約を強いられ、挙げ句の果ては軍需物資に転用できる金属はすべて収奪された。いまでも教室の一角に積み上げられたつぶされたアルミニウムの弁当箱の山を思い出す。弁当箱はすべて木製のものに変えられ、中身も「贅沢なおかず」がないかを確認し合った。この行動に協力しないものは「非国民」であった。今にして思えばこれは根拠の示されない脅迫であった。しかも収奪された原料で飛行機や弾薬が作られた気配はない。戦争末期の生産設備の状況に加えて、軍需産業企業や軍上層部のサボタージュが
あったと思う。収奪された物資は戦後特定の企業と個人の手元に蓄えられ、彼らの成功の基礎になった。
 現在の節電騒動も、特定の集団の利益を守るという意図を隠して行われている。現体制を維持することで誰の利益が守られるのか。電力企業の企業価値を維持することで株価が安定し、銀行、巨大企業の権益は維持される。経営陣のボーナスも維持される。従業員に与えられているかもしれない特権も維持される。権益をめぐるからくりはそれだけにとどまらないだろう。変革の計画もなしに進められるこの脅しの正体を見抜く必要がある。
 政府と電力会社に強要されなくても、私どもは自発的に節約している。高い電気料にあえいでいるものにとっては、いつも節約を強いられている。地球環境問題に自覚的なひとたちは、さほど効果は期待できなくとも、「クールビズ」を実践してきたのである。変革の展望もなく電力会社の企業価値の維持を実質の目標にした今の節電騒動は笑い飛ばそうではないか。
 そして本当の節約をもたらす構造的な変革について議論を始めようではないか。小手先の節電ではなく、エネルギー効率のよい生産様式、生活様式を模索ししなければならない。とりわけ現在の都市、とりわけ首都圏への管理部門や大学の集中をやめ、都市の田園か田園化をすすめる必要がある。その議論なしには問題は先に進まない。 
【退院】

 5月31日、「手錠」がはずされ、無事退院となった。
 白内障手術は盲腸手術程度のものという人がある。私にとってはこれで最終的治療のの前段階が終わったと言うことで、とてもそのようにはいえないの。だが、一応は安堵したといえるだろう。そろそろと「読み、書き、入力」に復帰しようと思う。
 家に帰って洗面台の鏡の前に立ったとき、これまでに見たこともないしわだらけ、しみだらけの老人の顔が写し出された。これが私の本当の顔なのか、それとも人工的なレンズがつくり出した虚像なのか。そんなことはどうでもよい。拡大鏡を眼の中に入れたようなものと思えばよいのだ。
 女性たちのためにあえて付け加えておこう。人工的レンズによって彼女たちは今まで以上に麗しく見える、と。
【本を読めない日々】

 入院中は本は一切読めなかった。たえず瞳孔を開く点眼薬が注されて、いつも目がかすんでいた。日記を書くことくらいがせいぜいのところだった。予想していたことだったから、CDを数枚持参することにし、音楽で気を紛らすことにした。
 なにをもっていくべきか。手術を待つのに楽しげな感情を昂ぶらせる楽曲は避けたほうがよいように思われた。選んだのは、M.マイスキーの演奏するJ.S.バッハの「無伴奏チェロ組曲」であった。チェロの響きは心地よい。もし楽器を習熟できるものなら、そのための時間と経済的余裕が与えられるなら、迷わずチェロを選んだであろう。長い人生の中で出会えた名演奏もチェロが多かったように思う。
 バッハがオルガンの名手であったことはよく知られている。この楽器もこよなく愛したのではないだろうか。その響きの中に彼のその愛と祈りにも似た想念の高まりが感じ取られて感動する。感動は演奏するチェリストのこの曲への思い入れと重ね合わされてさらに増幅される。
 この曲は演奏会で聴くよりもひとりイヤホンやヘッドホンで聞くのが聴く方が心に響く。
 19世紀末にパブロ・カザルスによって再発見され、その価値が見直されて以来、この曲は名だたるチェリストたち指す最高峰となった。あらためてカザルスの演奏を聴いてみたくなった。
 この入院は自分を省みるよい体験となった。
 
【入浴】

 病棟には男女それぞれのために浴室が準備されている。手術の前日には入浴がすすめられる。向かいのベッドのTさんが一緒に入ることを申し出てくれた。83歳の方で加齢黄斑変性症でほぼ失明に近い状態と言う。容態の進行をくい止められる可能性にかけて眼球に注射するというなんとも恐ろしい治療を受けるために2ヶ月に一度入院されるのだという。
 背中を流してくれた。私も致しましょうと申し出たのだが誇示された。あまりのうれしさに涙が溢れそうになった。今回の入院で私が得たかけがえのない体験であった。
 背中を流してくれる Tさんの身体をみて、私は半世紀前の父との一時を思い出していた。
 私の24歳の夏のことであった。その前の年父は札幌で胃癌の手術を受け、医者はあと半年の命と家族に宣告していた。1年ほど健康に過ごしたが、病には打ち勝つことが出来ず再発した。知らせを 受けて私は直ちに帰郷したが、突然帰ってきた私を父はいぶかった。癌であることを知らなかった父はいずれ回復すると信じていた。少しの間滞在して帰らざるを得なかった。帰る日の前夜、父と近くの銭湯に出かけた。痩せ細り手術の傷跡がなまなましく残る父の身体をしたのは、その日が最後であった。父も私の背中を流してくれたと思う。

【病院食】

 病院での食事は、食いしん坊の私にはたまらなくつらい。食費の制限があるからそれほど質の高い食材は使えない上、人件費節約のため、ケータリングを利用する病院も多い。
 京大病院は調理部門を持っているようで、それなりにメニューに工夫がみられる。おそらくは1000人に近い入院患者すべてを満足させるメニューや味付けなどありえないことはよくわかる。しかし何とかならないものか。
 このことをある人に訴えたら、一笑に付された。「患者でしょう。患者には病人食を当たるのは当然でしょう」と。そうはいっても患者の人間としての権利はあるのではないか。解決法はないものか。
 


【病院の暮らしー相部屋ー】

 私は大きな手術や同室の患者に迷惑をかけそうな場合をのぞいて、個室に入院はしないことにしている。大学教師という職業柄いろいろな階層の人々と接する機会がなかっただけに、病院はこれまでに失ったもの得られなかったものを、回復し獲得する機会でもある。現役の頃は治療にあたる医師たちにとっては、私の肩書きは煩わしいものとうつったことだろう。なにしろ先生筋に当たるのだから。現役を退いたてようやく病院での「自由」を得た。
 同室者とお互いの病について語り、そこから会話がいろいろな方向に展開する、それはわくわくさせられる体験ではないか。
 眼にはさまざまな病があることも知った。とくに「加齢黄斑変性症」を治療するために入院し、失明の怖れと闘っているたちの苦悩を知らされ、片目を失ってもまだ残った片方で生きられるなどと放言していた自分を恥じた。大事に使わなければならない。
 

 
【手術】

 5月19日(木)、手術の時間が決まったことを知らされ、中央手術部から担当の看護師が手術の説明にくる。
 当日病棟の処置室は慌ただしく準備を始める。本人の確認を改めて行い、どちらの眼を手術するのかたずねられる。思いがけない質問にとっさに答えが出なかった。両眼を手術する予定だからどちらを先にするかなどあまり気にもとめていなかったからだ。「カルテを見てくださいよ」「右となっていますね」「それなら右でしょう」というやりとりの後、右目の上の額に「右」と書いた大きなラベルが張られた。正常な部分を間違って切らないようにする策だろう。手首のバンドに刷り込まれたバーコードと点滴の袋のコードが照合された。
 看護師の押す車椅子に乗せられて隣接する建物の4階にある中央手術部に向かう。受付で昨日説明に来た看護師が出迎え、手首のバンドに刷り込まれたバーコードを読み上げて患者が本人であることを確認して受け渡しが終わる。
 自動ドアが開き手術部の全体が見渡せた。廊下に沿って手術室が14室も並び、壮観と言うほかなかった。本人確認が再度行われ、手術台にのった。心電図、血圧計が取り付けられ、手術用の布がかぶせられた。執刀医のH医師、看護師その他の自己紹介が行われ、私の「お願いいたします」という挨拶とともに手術が始まった。
 手術が終わって再び車椅子に乗せられて病棟看護師に受け渡された。病室を出て帰るまで妬く時間、手術に要した時間は手術部の看護師に聞くと10分だったそうな。取り違え防止策もふくめ、完璧に流れていた。表現は悪いが、ベルトコンベアにのせられたような正確さであった。
 そうはいいながら、手術室での医師たちの自己紹介をする態度は、患者との信頼関係を作り上げようとする試みとして好ましく思われた。
【教授回診】

  大学病院を象徴する典型的な風景をあげよと問われるなら、私は迷うとなく教授回診をあげる。いくつかの理由がある。
  山崎豊子の小説『白い巨塔』を思い出す。山本薩夫が監督して映画化されたが、そこに登場する教授回診の場面が強く印象に残っている。あのころは回診は教授の権威と教授を頂点とする医局の職階制を誇示するパレードのようなもんだった。
 この教授回診に私は長い人生の中で一度だけ遭遇したことがある。それは生涯忘れられぬ屈辱の思いにとらわれての体験であった。私が23歳の時のことだ。58歳の父は末期の胃癌と診断され、札幌医科大学で手術を受けることになった。市内の系列病院でさんざん待たされての入院だった。道東の小さなまちからなんとかここでの治療に到達できたわたしどもにとっては文字通り藁にもすがるおみであった。当時の大学病院では家族の病室での看護は常態化していたと思う。市内の旅館に宿泊する(しかも長期にわたって)経済的余裕もなく病室でベッドのかたわらにござや毛布を敷いて寝泊まりした。そのような家族はわたしどもだけではなかったと思う。当時の大部屋はベッドは10以上あったと思う。
 教授回診の日になると、付き添いの家族たちはすべて追い出された。いうならば回診前の「大掃除」だった。廊下に立つ私どもの前を教授を先頭にした集団が通り過ぎていった。教授の名前も執刀した助教授の名前も忘れてしまったが、現実にある看護の姿を全否定して入室するこの状況はいまでも脳裏に焼き付いている。
 医局解体が叫ばれた大学紛争、さまざまな制度改革を経てどのように変わったのだろうか。屈辱感を感じた私自身も大学に半世紀も籍を置き、教育・研修施設としての大学病院のあり方をある程度は理解せざるを得ない立場にもなったが、今回も患者の権利に関わっては依然としていくばくかの違和感を感ぜざるを得ない体験ではあった。
【採血】 

 病院でする体験の中で一番嫌いなのは「採血」だ。検査のためには避けられないことなのだが、検査項目が増えて採血量が増えると針も太いもになる。私の場合はおおかたの看護師さんは針を刺す箇所を見つけるのに苦労する。そういう体質だから仕様がないのだが、いつも不安になる。
 今回の「採血」は最悪の体験となった。4人の看護師さんが次々と自信喪失して交代し、5回目で何とか成功した。「外来の時の中央検査部採血室は上手でしたよ」と私が言うと、「彼女たちは選りすぐりの人たちだからうまいのはあたりまえでしょう」と答えが返ってきた。それは見事なというより、奇異な光景であった。入室して順番札をとって待つと、電光掲示板に順番で対象者が表示される。銀行の窓口業務と一緒だ。何のためらいもなく針を刺し、それだけに不安は少なかった。
 相も変わらぬ場の雰囲気を読めぬ私の発言を中和すべく「人には得手不得手がありますからねえ」と付け加えたが、彼女たちは機嫌を良くしてくれたかどうか。
 考えてみれば、採血の技術はあまり進化していないように思われる。検査項目が増えて患者の負担は重くなったのではないか。本当にあれだけの血液が必要なのか、痛みを軽減する方法はないのか、誰か考えてくれないものか。現状を見ると、私の幼児の頃からの注射針に対する恐怖心は当分続きそうな気がする。 
 

【入院】

 大腸癌手術という大がかりな手術を体験しているし、部分麻酔の手術もいくどかやっている。しかし眼にメスをいれ、異物を挿入することにためらいがなかったわけではない。世に聞こえた名医が執刀されるのだから安心してまかせなさいとN眼科医院の先生に励まされた。
 「大学病院で治療すると助かる病人もたすからなくなる」とよく聞かされたものだ。これは大学病院の医療水準や内在する非人間性をについての言葉ではなかったと思う。大学病院は基本的には研究教育のための施設であり民間病院とは違うと言うことを強調する別の表現だったのだと思う。はじめて大学病院で治療を受ける日を興味津々の雰囲気で迎えた。
 病棟のセンターで挨拶し、病室に案内された。4人部屋の南、窓側のベットで、東山の新緑が美しかった。平安神宮、円山公園の緑も観察され、清水寺とその門前町もよく見える。
 左手首に患者を認識するビニールの腕輪がはめられる。これがこの病院に治療のために捉え込まれたことを示す儀式のようなものだ。退院の今で外すことが出来ず、言い方がよくないが、「手錠」や「手鎖」みたいなものだ。患者の名前に加えてID番号、バーコード、QRコードも刷り込まれている。

 5月18日から京都大学付属病院眼科に入院して白内障の手術を受け、31日に無事退院した。
 白内障が年齢相応に進んでいたことは知っていたし、左眼の緑内障も悪化していることは承知していた。眼圧を低下させるための点眼薬も、多忙でときどきわすれることはあったが、自分なりに努力して注していたつもりだった。
 ある日ふと印刷物の枠の直線を片目をつぶってみてみると、縦の直線が少し波打って見えた。そのことをかかりつけの眼科医にいうと、「加齢黄斑変性症」の疑いありとして京大にまわされた。原因不明の病気で失明の可能性が大きいと言うことであった。これがことの始まりである。
 3月中旬に京大眼科のH准教授の診察をうけたところ、網膜に異常は見られず疑いは消えたが、この際緑内障を治療しておきましょうということになり、その前に白内障を手術することになった。入院予約後ほぼ2ヶ月待たされて、ようやく入院となった次第。

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