2011年11月アーカイブ

2011年11月25日ー千本通の由来ー

 京都の地名はクロスワードパズル以上に複雑だ。日常は通りの交差点から北へ「上ル」南へ「下ル」、「東入ル」「西入ル」で片づくが、これは複雑さを回避するための方便で、公文書には町の名前を書かななければならない。町や通りの名前も古代以来の名前を残しているものから、通称がそのまま名前として定着したものまでさまざまだ。
 私のお世話になっている診療所のある千本通の由来はがになっていた。この地に生まれ育ったN医師に訊ねてみた。「祖母から聞いた話では、船岡山が刑場でこのあたりに卒塔婆が無数にあったことから名がついたそうです」。船岡山は千本通のちょうど北に位置する丘で、現在は遊歩道が整備され、散策の場所となっている。織田信長を祀る建勲神社がる。そのことを幾人かの女性たちに話したら、薄気味悪くて散歩にも行けないわとの反応が返ってきた。通の名前としては確かに気味が悪い。しかし京都の中心部、洛中は戦乱と殺し合いの舞台であったから、気味の悪さではどこも同じではないか。とは言っても公式の名前としてはこのような気味の悪さはめずらしいのではにか。
 『日本歴史地名体系』や『国史大辞典』をみても平安京の北、蓮台野は葬送の地であった。船岡山は保元平治の乱の頃から刑場であったらしい。この通りの周辺に寺院の多いのには驚かされる。幕末の古地図をみると、千本通は鷹峯にまで及び通の両側は寺院が連なっている。明治維新後の廃仏毀釈の流れの中で多くが廃寺になり、衰微したとしても、今日までその雰囲気は続いているようだ。
 この話を診療所でしていると、ある女性が別の由来を教えてくれた。昔は通に街路樹がたくさん植わっていたのが由来だそうですよ。江戸期にはこの通は細道であったというから、道の両側に今の通のように樹が植わっていたとは考えにくい。794年に桓武天皇が造営した古代平安京の朱雀大路は道幅が80メートルを超え、羅城門から内裏に至るまで両側に木が植えられていたという。度重なる火災で荒廃し、13世紀には天皇の住まいは旧内裏の東、現在の御所に移ったという。15世紀中頃に戦われた応仁の乱によって都は荒廃し、古代平安京はほとんど失われたが、朱雀大路の痕跡はかなり後まで残っていたはずだ。残らなくとも、その壮大な光景が伝承として継承された筈だ。羅城門から入ると街路樹が配された広い坂道の彼方に内裏の甍が見渡せるその光景は言葉にならぬほど美しかったと思う。荒廃の後に住んだ人々は宮廷に勤務する役人ではない庶民であったとしても、そのことは伝承されたのではないか。私は朱雀大路の残像説をとりたいと思う。
 このまちの中心である御所が東に移動したことによって、かっての都大路は衰微し、まちの外れとなった。桓武天皇が造営の際には玄武に擬せられた聖地である船岡山もその地位を失って刑場と化した。この町のおもしろさは、歴史が層となって私どもの前に示されていることではないか。

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