2012年1月アーカイブ

2012年1月29日ー千本通初詣(続)ー

 診療所の帰りに北野天満宮に参詣した。先日の初詣の続きである。
 この社には、菅原道真が祀られている。平安時代、怨霊を鎮めるためにさまざまな祭祀が行われたが、菅原道真は政敵によって太宰府に左遷されそこで没したが、道真は左遷の恨みから怨霊となり京都にさまざまな災いをもたらしたとされ、それを鎮めるためにここに社を建立したとされる。薄気味の悪い縁起を持つ社だが、いつの頃からか「学問の神様」としあがめられるようになっている。しかし最近では「受験合格の神様」になって、今の時期多くの受験生とその父兄親族が参詣する。私がここに詣でるのは私の学びの活動のためである。私の願いは単純だ。当面はぼけずに頭脳明晰でいさせてほしい、ただそれだけだ。その時が近い年齢となり、不安がよぎることもある。頭だけは維持していけたらと切に願っている。お詣りするのはそのための緊張感を維持するためだと勝手に解釈して自分に言い聞かせている。
 「北野」という名称から明らかなように、平安京の北に広がる荒野であった。今はその面影は数本の枯れかけた古木が残るだけでまったくない。拝殿前の左手に絵馬堂があり、その西側に、受験生用の絵馬掛けの場所が用意されている。500円で絵馬を買い、願い事を書いて掛けるのだ。壮観である。昔は大学受験が多かったように思うが、いまは時代状況を反映してか、中学、高校、専門学校の受験と多様である。本人だけでなく親兄弟、知人と願い人も多様化している。本人が掛けなければ御利益がないと思うのだが。手に取ってみているうちにそのうちの一枚を落としてしまった。掛けた本人が受験に落ちないよう手を合わせておいた。
R0011161.JPG
 この絵馬は3月末に全部取り払われる。私のように「学問成就」を願うものは4月の初めに掛けるのが一番よいということだ。1年間御利益があるのだから。4月に散歩を兼ねてこようと思う。
 上七軒にまわって、喫茶店を覗き帰宅
 少年時代の初詣風景は父の姿と結びついている。それだけに思い出すたびにいつも胸が熱くなる。それらの光景は切れ切れの記憶となって私の脳髄の深層に刷り込まれている。その記憶が確かなものか、それとも半世紀を超える記憶の反芻によって練り上げられたものなのかは、今となっては確かめようもない。考えようによっては、どうでもよいことではないか。少なくともそれに似た体験があり、それが記憶に止められているのだから。
 第1の記憶、それは父と一緒に初詣に出かける風景である。除夜の鐘が聞こえ始める大晦日の深夜に父と一緒に家を出る。この記憶が前の戦争で家を焼かれる前のことか、それとも戦後のことなのか、確かめることは出来ないのだが。他の兄弟たちが一緒に出かけたかも記憶にない。あるのは父と二人の風景だけだ。
 なぜ元旦の深夜に出かけたのか、日が昇って少しは暖かくなってから、家族みんなで出かけてもよかったのにと今でも思う。家を出てまずまちの東はずれの小高い丘の上にある金比羅神社にむかう。記憶に残るその日の外気温は零下十数度であったろうか。顔がこわばり、鼻腔がくっつくほどの厳しい寒さであった。その日は風もなく雪も降っていなかった。波の音もこのようにしばれる日には聞こえない。静寂のなかでは、参詣に向かう人々が凍り付いたざらめ雪を踏みしめる鳴り音が響くだけだったように思う。不思議と人のざわめきが記憶に残っていない。私同様皆寒さをこらえて無口になっていたに違いない。
 参拝を終えて今度はまちの西側にある東本願寺別院に向かう。納骨堂で先祖の霊に灯明を上げ、本堂で拝礼する。このまちの東から西までかなりの道のりを歩き、雪の坂道を踏みしめて歩いたので身体は十分に暖まってはいたが、それにしても本堂の板敷きの床は冷たかった。
 この慣習をいつから始めたのかは今となっては調べようもない。佐渡出身の祖父は早くに死に、長男も逝って若い家長となった父は、おそらく祖母と連れだって初詣でに出かけていたに違いない。それは祖母の出身地である能登の新年の風景の写しであったのかもしれない。
 第2の記憶は、初詣から帰った父が、若水を汲み、神棚と仏壇に水を備える風景である。これは家長である男の役目であった。その水で顔を洗い、新年を祝う雑煮を準備する。記憶に刷り込まれているのは完全に戦前の家でのものだ。神棚の場所も仏壇の形も戦前の記憶であることの証拠だ。眠気をこらえて深夜まで起きていて、父と一緒に初詣に出かけたか、あるいは父の帰宅を知り目が覚めたのであろう。
 それにしても父は若水をどこで汲んだのだろうか。坂の上の公共の簡易水道にまで出かけていたようには思われない。家の近くに地域共用の井戸があったのだ。この間私は戦争前の私の住んだまちの姿を切れ切れの記憶をつないで再現しようと試みているのだが、共同の井戸が町内にあった筈でそれがどこだったかを考え続けていた。一つの疑問がようやく解決に近づいた気がする。
 第3の記憶、これは確実に戦後のものだ。それが中学生の頃か高校生の頃かは定かではないが。父が若水を汲む仕事をそろそろ代わって私にやれといった。その頃私の身長は父をはるかに超えていた。父の健康状態も、過労がたたり思わしくなかったのかもしれない。あるいは、父はこのことによって私にそろそろ家を背負っていく自覚を求めたのかもしれない。その時からこの家を最終的に離れる時まで元旦のこの仕事は私の役目になった。
 欧米的価値観に急速に傾斜していた、いうならばアメリカ・ヨーロッパにかぶれていた私には、初詣も若水を汲み新年を祝う慣習も、捨て去るべきものとはいわないまでも、自分のこれからの生活には不要な因習に思えてならなかった。それ以上に、血縁や地縁の関係を離れて自由に生きたいと考え始めていたから、父の提案を受け入れるにはためらいがあったと思う。その父も早くに亡くなり、関西に大学教師の職を得て暮らし初め、念願のヨーロッパ留学も実現して、「因習」から解放された気分でずっと生きてきたのに、今になって私は父の提案に答えを出さぬままに生きてたことに、形容しがたい寂寞感を感じ始めている。

2012年1月7日ー千本通初詣ー

 昨日診療所の帰り道に、千本通初詣と称して近くのお寺に参った。
 最初に訪れたのは、千本鞍馬口を少し下がった西側にある引接寺である。通称千本えんま堂とされ、閻魔大王(閻魔法王)がご本尊である。閻魔が本尊とはめずらしい寺だが、この寺の北一帯は蓮台野として中世には葬送地であったというから、閻魔はその境を画するものとしてこの地に置かれたのだろう。
 見事なまでに大きな閻魔さまで、一昨年ご開帳の日に訪れて、その厳しい姿に畏怖したものだ。創建時のものは応仁の乱で焼失し、現在の像は1488年に再現されたものという。再建当時に彩色が再現されるなら、その恐ろしさに身が打ち震えるに違いない。このようにいうとひとは笑う。こんな像が怖いのですかと。子どもの頃、親たちに極彩色の地獄絵図を示し、嘘をつけば地獄で舌を抜かれるなどとおどされた。薄暗い仏間の灯明の下で見せられた時の恐怖は今でも私の感性に残っている。そのことが閻魔に向かわせるのだろう。
 今日はご開帳の日ではないので直接拝むことは出来なかったが、あまり早く地獄にお迎え頂かぬよう願いし、お賽銭も少々はずんだ。あの合理主義者の経済学者らしからぬ行為と嘲笑されるかもしれないが、信心して手を合わせているのではない。生き方の区切りの術(すべ)として習俗に従っているだけなのだ。
R0011137.JPG
 そのあと千本通を上立売まで下がり、通りの東側にある石像寺、通称釘抜き地蔵にお参りした。このお寺には数年前から参拝しているが、去年は行く機会がなかった。そのことが身体不調の原因ではないのはいうまでもないが、なんとなく気がかりであった。
 道々、少年の頃に父といった初詣の情景を思いだしていた。あの風景も確かに私の感性に染みついている。あまり昔話をしたくないのだが、そのうちにこのことも書きしるしておきたい。
 京都で生活するようになってから、調べてみようと思いながら実現していないことの一つに、水上勉が1963年に著した名作『五番町夕霧楼』の舞台となった土地を探すことであった。夕霧楼という妓楼の名はフィクションであることはいうまでもないが、西陣にある五番町とはいったいどこなのか、調べてみようと思いながらその機会が与えられなかった。
 水上の作品は自らも体験した社会底辺の人間模様を巧みに切り取って感動させる。いくつか好きな作品があるが、これもその一つである。
 リハビリに通う診療所の医師に聞いてみた。この土地に生まれ、粋人と自認する彼ならよく知っていると思った。即座に答えが返ってきた。すぐ近くですよ。千本今出川を下がって中立売通を西に入ったあたりから五番町です。実在した町だった。うかつなことに、私は地図で探すという基本的な作業すらしていなかったのである。
IMG.jpg
 水上を読みなおしてみると、なんと場所を明確に書き込んでいるではないか。引用しておこう。
 「五番町は、京都人には「ゴバンチョ」と少し早口でよばれる語調をもった、古い花街である。
 詳述しておくと、西陣京極のある千本中立売から、西へ約一丁ばかり市電通りを北野天神に向って入った地点から南へ下る、三間幅ほどしかない通りである。この通りは丸太町まで千本と平行してのびているが、南北に通じるこの通りを中心にして、東西に入りこむ通りを含めて、凡そ二百軒からなる家々は軒並み妓楼だった。」このあとに妓楼の外観の説明が続く。水上勉は還俗してから、僧侶をやめてから立命館大学の夜間部に入学、そのころ頻繁に五番町に通ったという。
 古代平安京の内裏、大極殿の上にネオン輝く繁華街と妓楼がち並んだというのは、確かに対比としては面白い。しかし、私が惹かれるのは、京都というまちは世界遺産、観光都市として存在感がるように見えるのは虚構であって、まちの至る所に豊かな人間模様をひそませていることだ。水上の京都を題材にした作品はそのような意味でもっと読まれてもよいのではないだろうか。
 五番町はどこにあったかなどと詮索すると、あなたは風俗史や売春史を研究しているのですかたずねる人もいる。人によってはなんと好色なと顔をしかめる人もいるかもしれない。花街、遊郭、廓(くるわ)は多様な人間関係が交差する場所として多くの文学作品や芸能の題材となった。近松を持ち出すまでもないであろう。1956年(昭和31年)に売春禁止法が成立して妓楼も娼妓も姿を消した。五番町のその後の変遷を観察してみたいという気持ちが強くなった。
  そのうち散策してみようと思う。  

このアーカイブについて

このページには、2012年1月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2011年12月です。

次のアーカイブは2012年2月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。