2012年4月アーカイブ

 一昨日、千本五辻を西に入って散策したときに考えたことを書いておこう。五辻通は今出川通は今出川通の南側の通で西陣と通称される地場繊維産業が密集していた地域の中心的な通の一つである。昔の繁栄の面影はまだいくらかは残っている。西に少しいくと千本釈迦堂(大報恩寺)の参道があり、北野天満宮の東門でこの通は終わる、天満宮の北門を出て西に折れ、天神川を越えると桜の名所、平野神社の朱塗りの鳥居が見えてくる。昨日の散歩の目的は花見だったが、今なおの多くの暖簾がかかる店を観察することも目的の一つであった。
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 最初に眼に入ったのが長谷川杼製作所の看板と暖簾、こしらえている現場をみせてもらいたかったが、暖簾をくぐるのをためらった。もう少し西に歩いて七本松通の角に面白い看板の店がある。稲垣機料株式会社とある。厚かましく入ってみた。手織り織機とその部品を扱う店
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で、ご主人は冷やかしの客なのに親切に応対してくれた。西陣に限らず全国の機屋さんと取引があり、最近は沖縄との関係も深いという。伝統産業の衰退と同時に道具をつくる職人が減っていることに危機感を持っておられた。
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 木製の道具はどれも丁寧に仕上げられており、見ているだけで心がなごむ。店内のあちこちに使い込んだ道具が展示してあった。それを眺めていると、私の視線が欲しそうに見えたのであろう、あれは売り物ではありませんと釘を
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刺されたが、古物商で買うと結構な値段だそうな。
 このような使い込まれた古い道具を見ると、船大工だった父を思い出す。さまざまな種類の鉋(かんな)、鑿(のみ)、ちょうな、鋸、金槌、げんのう、かけや、墨壺、曲尺、そして道具箱。父は几帳面な人だったから、道具の整理
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と手入れを怠らなかった。私は父の仕事を継がず、職人とはまったく正反対の学問の道に進んでしまったから、父を偲ぶ道具類は手元に一つも残されていない。それでも、学者として成長していく節目の時にには、父の職人としての生きざまは手本になったと思う。
 道具は職人たちの熟練の手にあわせて改良されたてきた。それだけに道具は美しい形になる。使い込まれた道具は、それを使った職人たちの心意気を感じさせる。
 このような道具の美しさは、博物館では感じ取れない。神戸市に竹中工務店が収集した道具の博物館がある。一度見に出かけたが、あまり感動しなかった。道具の美しさは使う職人あってのことだと思う。伝統産業の衰退でその職人が減ると、どうなるか。当然のことながら、道具をつくる職人も減る。父が生業としていた木造船つくりの技術もほぼ絶滅に近い状態である。父が愛していた道具の産地はどうなっているのだろうか。
 稲垣さんの店を覗いて帰宅してから、つくずくこの国の産業構造のいびつさを考えていた。職人の手仕事の世界が廃れる経済が人間的であるはずがない。

2012年4月8日ースリランカと私ー

 一昨日、名古屋市の名城大学に招請研究員として1年ほど滞在していたスリヤラタさん(スリ・ジャエダネプラ大学上級講師)がスリランカに近く帰国されるので、京都に挨拶に来られた。彼女は以前に、私が名古屋を去るのと相前後して前後して来日し、名城大学大学院でPh.D(課程博士)をとられた。私は彼女の来日のお手伝いをしたこともあり、いまでもこのように挨拶があるのはうれしいことだ。
 彼女以外にも私は10人をこえるスリランカの若い研究者のPh.D取得のお手伝いをした。20年ぐらい前になるだろうか、文部科学省奨学生で来日したウィラシンハさんの学位取得を支援したのがことの始まりであった。彼はいまは大学教師のキャリアを中断して、National Institute of Business and Managementのdirector generalとして活躍している。
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 この国については、私はセイロン・ティーの国という以外まったく知識を持ち合わせていなかった。南アジア地域については学問的な関心はまったくなかったといってよい。この国の若い研究者の指導を次々と依頼してくるウィラシンハさんの熱意にほだされて、私の大学教師としての最後の仕事のほとんどはこの国を含む小国出身の大学院留学生の支援に費やされることになった。私は大学教師としては無能で、あまりよい仕事を残せなかったのだが、この最後の十数年の仕事には満足しているし、いまだに私の財産である。
 大学は学ぶ意欲のあるものに国籍を問わず最大限の自由と支援を与える場所でなければならない。ところが日本の大学の支援体制ときたら話にならないお粗末さだ。私はドイツにDAAD留学生として、アレクサンダー・フォン・フンボルト財団のフェローとして何度かお世話になった。支援の組織、帰国後のサービスも非常に快適で、この国での教育と研究の地位の高さを体験できた。日本の場合は外国人研究者の受入れはお世話をする教授たちにかなりの負担となる。その実態は今でも私が苦労した頃とあまりかわってはいないだろう。
 小国の大学の水準を高めるための支援が重要だと思う。Ph.Dの学位を出せない国も沢山ある。大学がない国もある。スリランカは国の規模に比較して多数の国立大学があり、教育熱心な国である。しかしまだ修士の学位を出せる水準でPh.Dを取ろうとするとどうしても外国の大学に進学しなければならない。そのためにはお金がかかる。また外国で学位をとると、帰国しない研究者が増え、国の教育や研究の水準を高めることにならないという状況も生まれてくる。私が小国の若い研究者の受け入れに努力したのも、いくらかでもこれらの国々の水準の向上に寄与したいと考えたからであった。
 ODA等で道路や橋をつくるよりも、今以上に若い研究者を招請する制度を作るべきだ、現地大学への支援を増やすべきだ。そうすれば、日本の大学の国際的評価も高まる。
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 3月25日、友人のお招きを頂いて上七軒北野をどりの初日を楽しませて頂いた。京都にはいくつか花街があるが、それぞれの花街で桜の時期にあわせて芸舞妓子たちの出演で踊りの公演が5月上旬まで続く。京都の春の風物詩である。今年は異常な寒さで、いつもなら咲き始めているという歌舞練場庭の桜もつぼみも色づくところまでなっていなかった。
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 上七軒の起源は室町期にさかのぼり、京都の花街では一番古い歴史を持つ。しかし、さびれ様は歩いてみただけで理解できる。その理由はふたつあるように思う。一つは、花街そのものを支えてきた都市の中身が変わったことである。かって京都のまちを支えていた地場産業が衰退し、学者や文人とされる人たちも花街に遊ぶ経済的余裕も慣習もなくなってしまったのである。上七軒の場合、西陣地場産業と映画産業の衰退が影響しているように思われる。このままでは、観光産業と結びつく以外にないのだが、祇園のようにはいかないだろう。それに遊び方が世代間で継承されていないことにも問題があるのではないか。これが二つ目の理由だ。
 私自身、大学教師というしんどい仕事のなかで、ここで安らぎを得られたら、どんなに気持ちの豊かな暮らしが出来ただろうかとつくづく思い返す。根拠のない職業倫理の強制と安月給がそれを妨げた。人間たるもの、食欲と性欲、そして好奇心の解放が生活を豊かにしてくれる。もちろんそれは節度あるものでなければならないのだが。
 花街や遊郭はそれ自体として文化の中心であったし、そこを媒介にしてさまざまなジャンルの文化が誕生し、発展してきた。遊里の存在なしに江戸文学はあり得なかったし、浮世絵もあれほどの流行を見なかったであろう。近松門左衛門の名作も生まれなかったであろう。樋口一葉や永井荷風の作品もあり得なかった。水上勉の作品に登場する娼婦たちが人間関係の深層を映し出してくれる鏡となっていることを理解しないでは、作品の魅力を感知したとはいえない。たとえば、『飢餓海峡』の八重、彼女が大金を恵んでくれた犬飼を発見し訪ねたのは、その時のお礼を言いたいだけであったのに、犬飼は自分の地位をまもるためにその純粋無垢な気持ちを蹂躙する。彼女の存在があればこそ、犬飼に象徴される人間の業が鮮明に写し出されるのである。今の時代の若者たちははたしてそれを理解できるだろうか。
 花街が都市文化の重要な部分として今後も維持されていくためには、双方での工夫が必要だろう。花街をただの観光資源として維持するのであれば、都市文化はその色香を失い、衰える。
 脱線してしまったが、北野をどりの話に戻ろう。祇園の都をどりは何度か出かけたことがあるが、ここは初めてだった。面積で見てもお茶屋の数でも、芸舞妓の数でも上七軒は祇園に比べものにならぬくらい小さい。歌舞練場の舞台も小さく、踊り手と観衆の通じ合いをお互い感じ取れる広さと距離であった。それだけに全員参加の一生懸命さや充足感が伝わってくる舞台であったと思う。
 フィナーレで全員が踊る「上七軒夜曲」、はじめて聴いた曲だが、またの邂逅をそそるに十分な色香を感じさせられた。
 上七軒、北野をどりよ、永遠なれ。
 舞子たちよさらに可憐に、芸子たちよさらに美しくあれ。

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