2012年4月2日ー上七軒、北野をどりよ永遠なれー

 3月25日、友人のお招きを頂いて上七軒北野をどりの初日を楽しませて頂いた。京都にはいくつか花街があるが、それぞれの花街で桜の時期にあわせて芸舞妓子たちの出演で踊りの公演が5月上旬まで続く。京都の春の風物詩である。今年は異常な寒さで、いつもなら咲き始めているという歌舞練場庭の桜もつぼみも色づくところまでなっていなかった。
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 上七軒の起源は室町期にさかのぼり、京都の花街では一番古い歴史を持つ。しかし、さびれ様は歩いてみただけで理解できる。その理由はふたつあるように思う。一つは、花街そのものを支えてきた都市の中身が変わったことである。かって京都のまちを支えていた地場産業が衰退し、学者や文人とされる人たちも花街に遊ぶ経済的余裕も慣習もなくなってしまったのである。上七軒の場合、西陣地場産業と映画産業の衰退が影響しているように思われる。このままでは、観光産業と結びつく以外にないのだが、祇園のようにはいかないだろう。それに遊び方が世代間で継承されていないことにも問題があるのではないか。これが二つ目の理由だ。
 私自身、大学教師というしんどい仕事のなかで、ここで安らぎを得られたら、どんなに気持ちの豊かな暮らしが出来ただろうかとつくづく思い返す。根拠のない職業倫理の強制と安月給がそれを妨げた。人間たるもの、食欲と性欲、そして好奇心の解放が生活を豊かにしてくれる。もちろんそれは節度あるものでなければならないのだが。
 花街や遊郭はそれ自体として文化の中心であったし、そこを媒介にしてさまざまなジャンルの文化が誕生し、発展してきた。遊里の存在なしに江戸文学はあり得なかったし、浮世絵もあれほどの流行を見なかったであろう。近松門左衛門の名作も生まれなかったであろう。樋口一葉や永井荷風の作品もあり得なかった。水上勉の作品に登場する娼婦たちが人間関係の深層を映し出してくれる鏡となっていることを理解しないでは、作品の魅力を感知したとはいえない。たとえば、『飢餓海峡』の八重、彼女が大金を恵んでくれた犬飼を発見し訪ねたのは、その時のお礼を言いたいだけであったのに、犬飼は自分の地位をまもるためにその純粋無垢な気持ちを蹂躙する。彼女の存在があればこそ、犬飼に象徴される人間の業が鮮明に写し出されるのである。今の時代の若者たちははたしてそれを理解できるだろうか。
 花街が都市文化の重要な部分として今後も維持されていくためには、双方での工夫が必要だろう。花街をただの観光資源として維持するのであれば、都市文化はその色香を失い、衰える。
 脱線してしまったが、北野をどりの話に戻ろう。祇園の都をどりは何度か出かけたことがあるが、ここは初めてだった。面積で見てもお茶屋の数でも、芸舞妓の数でも上七軒は祇園に比べものにならぬくらい小さい。歌舞練場の舞台も小さく、踊り手と観衆の通じ合いをお互い感じ取れる広さと距離であった。それだけに全員参加の一生懸命さや充足感が伝わってくる舞台であったと思う。
 フィナーレで全員が踊る「上七軒夜曲」、はじめて聴いた曲だが、またの邂逅をそそるに十分な色香を感じさせられた。
 上七軒、北野をどりよ、永遠なれ。
 舞子たちよさらに可憐に、芸子たちよさらに美しくあれ。

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このページは、kitanihitoが2012年4月 3日 10:53に書いたブログ記事です。

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