2012年5月アーカイブ

   5月22日、評論家吉田秀和が逝った。98歳であった。言葉の力で自立する文章家であった。音楽評論などに時々接しながら、その自立した姿勢に惹かれた。評論のあるべき姿に最も近い形を示してくれて、私が目標とする大先達であった。
 昨日は、映画監督で作家の新藤兼人が逝った。100歳であった。愚直なまでに、自らの生活感と体験を普遍化して示してくれた。遺作となった映画『一枚のハガキ』は今にして思えば彼の体験普遍化の集大成だったのではないか。この姿勢に私は共感を覚え続けてきた。
 このお二人の仕事を若者たちが読み継ぐで欲しいと思う。私にとっては追いかけて生きる大きな目標を二つ失ったことになる。彼らの死によって私は自らの力で海図なき航海に漕ぎ出さねばならない年齢に確実に到達しつつあるのだ。
  ドイツのバリトン歌手、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウさんが5月18日に86歳で亡くなった。彼のリサイタルには残念ながら一度も出会えなかった。LPやCDで聴いていただけで、一度でよいから彼の肉声でしびれるような感動を体験したかった。かれが世紀の名歌手であったか、世界的な歌手であったかは私にとってはそうでもよいことだ。私にとって彼はドイツ歌曲という新しい領域での感動を引き出してくれた歌手のひとりであった。
 ベートーヴェン以来、F・シューベルト、R・シューマンと続くドイツの歌曲の流れは、ゲーテ、ハイネ等の詩との見事な共鳴関係をつくり出し、その解釈者としての歌手たちの感性を際立たせた。大学でドイツ語を習得し、ドイツ資本主義を研究テーマに選んだ私にとって、マイナーな言語に習熟したことことの悲哀を感じることもあったが、他方でドイツ歌曲を聴ける喜びを得た。
 ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウさんの歌唱との出会いは私のこの喜びの出発点であった。最初に買ったLPはR.シューマンがハイネの『歌の本』から抜粋し作曲した歌曲「詩人の恋」であった。このLPはすでに手放してしまったが、CDで今でも聴いている。彼の歌唱で示される感情の高揚感、呻きにも似た苦悩の表現に今も感動させられる。

2012年5月27日ー過疎のまちに旅してー

 紀伊半島のこのまちには30数年来小さな庵(いおり)をしつらえ、年に数回は出かけている。庵とはいいながらプレハブである。粗末な作りとまわりの草深い雰囲気からそのように表現してもよいだろう。
 先週も久しぶりででかけた。ところがおいてあるコンピュータが動かず、メールも文章も書けず、3日間ぼんやりとして暮らし退散した。コンピュータが故障すると手足を失ったも同然で、思考もにぶってしまうのだから、始末が悪い。
 それにしてもこのまちの過疎と高齢化は急速に進んでいる。人口の尾イー区は1960年(昭和35年)で訳3万400人、」それ以降は減少するばかりで今年5月現在で2万400人、来年はおそらく2万人を割り込むだろう。高齢化率(人口に占める65歳以上人口の比率)は1995年(平成7年)には22.4パーセントであったものが、2011年(平成23年)には35.7パーセント、3分の1以上が高齢者で占められている。私が時々住まわせて頂いている集落では、2005年には人口が786人、高齢化率は46.9パーセントであったものが2011年にはそれぞれ664人、53.9パーセントになっている。
 集落をあるいても住民に滅多に合わないのは理解できることだ。過疎化とか限界集落を通り越して消滅に向かっているとしか表現しようがない。それなのに変化が進んでいる。私の家の向かいに特別養護老人ホームが登場した。自然災害のたびに老人ホームの被害が報じられるが、土地が安いところに立地するからである。いきおい災害に遭う確率が高くなる。それに道路建設、民主党政権が登場した頃は公共工事にストップがかかったが、いまでは方々で再開されている。過疎地をや消滅しかかっている集落をつなぐ道路である。道路が出来れば過疎化と高齢化はさらに進む。そんなことはお構いなしに道路建設は進む。後は野となれ山となれと言うことか。
 旅人として時々やってくるよそ者には批判されたくないだろうから、私はあえて地名を示さないことにする。

2012年5月26日ー仕事を再開できる喜びー

  昨年早春からの体調不良よって私の生活は激変した。多くの人の支援と励ましに支えられて入院検査、週3回のリハビリをやり通し、体力も発病以前に比べて5割程度にまで回復したと思っている。再発の不安はあるので、リハビリと散歩による基礎体力の強化には怠りなく努力している。机に向かって仕事する時間もかなりの程度に長く維持できるようになった。
 あまり無理は出来ないのだが、少しずつ慎重に仕事を始めている。手始めにこの10年の仕事でましなものを編集、構成してPDFにする作業から初め、先日「すり込まれている筈の風増補改訂版ー」をアップして、予定の作業を終えることが出来た。これまでは成果をプリントして冊子にしてお配りしていたが、これからは書籍感覚で読めるようにPDFにすることを重点にし、冊子の配布は希望される方に限定することにした。
 これでようやく昨年春に中断を余儀なくされたテーマに復帰できる。うれしいことだ。
 私の仕事にアクセスするには、まず私のブログ・メインページ(http://www.focusglobal.org/)を開き、[KIOG仕事」「北仁人仕事」にファイルを添付してある。ファイルを書籍風に読むには、Adobe Digital Editions(Adobe Readerから無償で入手できる)を利用するか、iPadをお持ちの方は、そちらに取り込んで読むことが出来る。

2012年5月15日ー今宮神社祭礼散策(3)ー

 12基の鉾が勢揃いした祭は華美に彩られたものだったことが想像される。それらを担ぐ男たちもそれを支えて甲斐甲斐しく働く女たちも若々しかったことだろう。千本通
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り、大宮通を行く祭列を見物に通りに出てくる人々も多かったに違いない。これらの情景は、西陣の衰微とともに消え去った。還幸祭の日に通りを歩く人には祭に浮き立つ感じ
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は見て取れない。御旅所も御輿も祇園祭のそれよりもはるかに立派なのに、見物客も観光客もあまりに少ない。
 この祭は御霊会としては、本来の姿を残しているものではないか。怨霊を打ち払うために鉾がそろう、昔の姿を再現して欲しいものだ。

2012年5月15日ー今宮神社祭礼散策(2)ー

 五辻通を東に歩いて大宮通の角を北に折れる。大宮通商店街の通である。このあたりはわが家の歴史と関わりのある場所である。明治の初めまで妻の先祖の庄家はここで町年寄を務めていた。大宮通を北に上がって東側に、蓮鉾展示の案内を見つけ、厚かましく門をくぐった。
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 鉾と山車の部材を収納する蔵があり、その前に鉾だけが展示されていた。居合わせた町の世話役のFさんが収蔵庫の中を見せてくれた。山車の一式が収納されているそうだ。これだけよく保存されているのにどうして組み立てられないのか、動かせないのか。Fさんによると、もともと12基の鉾が
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あるのだそうな。現在この地域で飾られているのはその半数にも満たないという。私がこの数日で拝見したのは4基、しかも鉾だけを立てているもの、この町内のように鉾の頭だけを展示するものも含めての数字である。祭を支えてきた西陣の衰微を反映しているだけでない。文化財の散逸が国際文化都市を自称するこのまちで現実のものになろうとしている。暗澹たる気分であった。Fさんとの会話は祭のことから、西陣の今後にまで及んだ。

2012年5月15日ー今宮神社祭礼散策(1)ー

 診療所近くの牡丹鉾、枇杷鉾を観察したら、今宮神社の祭礼をもう少し観察したくなった。13日、御旅所に出ている御輿が戻る還幸祭があると言うことなので、散歩を兼ねて観察に出かけることにした。その記録を3度に分
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けて書くことにする。 千本通りと五辻通りの角あたりは祭の提灯を飾っている家が多く、祭の雰囲気が感じとれる。その角を東に折れるとすぐに西五辻東町の龍鉾が飾ら
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れていた。鉾を飾る龍も、山車の龍の彫り物も見事なものだ。その飾りの美しさに比べて、見送りのタピスリーは図柄を判別できないほどに傷んでいる。新しいものに作り替え
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るための財力はこの町にはもう失せているのだろう。このような物言いはこの町の住民の努力に対してしつれいかもしれないのだが。

2012年5月12日ー花車町、枇杷鉾ー

 千本上立売上ルに、花車町という町がある。先日書いた牡丹鉾町の少し北である。昨日診療所の帰りに散策してみた。
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 何ともかわいらしい町名ではないか。近所の大きな寺の行事に花車を出していたのだろうか。この町にも鉾が立っている。枇杷の花をモチーフにしているので、枇杷鉾というらしい。形式も大きさも牡丹鉾と同じである。ただ違うのは、この町内には献灯の提灯が多数飾られていることだ。お世話になっている牡丹鉾町の人々には失礼だが、住民の結束力が繁栄しているのだろうか。
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  今宮神社は徳川家の庇護で社殿も大きくなり、西陣の繁栄に支えられて祭は盛んになった。地場産業の衰微は祭そのもののあり方を変えざるをえなくなるなるだろう。祇園祭は住民不在でも、観光化と補助金で維持されているが、この祭に観光資源になり得るだろうか。私が写真を撮っているとき外国人観光客の一団が通り過ぎていったが、鉾には目もくれなかった。ガイドブックには祭の説明は載っていないのだろう。
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2012年5月8日ー牡丹鉾ー

 新緑の頃になると、このまちのあちこちで神社の祭礼のが始まる。西陣では今宮神社の祭礼の最中である。
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診療所のある町は「牡丹鉾町」といい、今宮神社から鉾を下賜されたことに由来するという。昨日、その鉾が診療所の近くに祀られているのを発見。見事な作りである。2階建ての町屋がほとんどであった時代には今よりもはるかに光り輝いて町の上にそびえていたに違いない。全体に金色の椿の装飾があり、先端には鉾が飾られている。御霊信仰は祇園祭だけでなく、このまちの至る所に潜められているようだ。私の近くの御霊神社もその一つだ。いま祭礼の最中だが、鉾があるかどうかは知らない。
 鉾はおそらく各町に下賜されたはずなのに、なぜここ
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の町だけに名前が残されているのだろうか。他の鉾はまだ残っているのだろうか。西陣散歩の目的がまた増えた。
先日5月3日、友人K氏を千本中立売のちょっと名の通った居酒屋に飲みに誘った。そのあたりについてブログに散歩の記録を書き続けてているので、一度このあたりの居酒屋探訪をしてみたいと考えていたところだった。 引き戸を開けた途端に「今日は予約で満席です」の声がかかった。見渡したところカウンター席の半分は空いているのに、さてはまた私の風体をみて断りおっったかとも考えめぐらしたが、すでに席に着いている客は居酒屋の客には見えない服装と雰囲気の人たちであった。おそらく観光にやって来た人たちであろう。ついに辺鄙な地域の居酒屋も観光客に占拠され、地元の飲み助(?)が排除されるところまで来たか、居酒屋で飲むにも予約がいるようになったかと少々落ち込んだ。
 居酒屋は、地元の人、常連が集ってこその居酒屋である。イギリスのパブ、スペインのバルにも匹敵する日本の地域文化である。この国では、まちを住宅が建ち並ぶだけの地域に作り替えたときから地域文化は衰退した。居酒屋はターミナルや雑居ビルに集められ、地域社会の交換の場としての酒場は消えつつある。これでは居酒屋を題材にした、居酒屋を舞台にした映画、小説も意味を失っていくのではないか。
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 かって西陣の最盛期には千本中立売あたりの飲食店も地元の客で賑わっていたに違いない。いまではその数も少なくなり、この地域のさびれぶりがよくわかる。生き残るために客層を拡大しようとするのもわかるが、地域の交流の場としての居酒屋は消え失せる。
 地域文化として
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の人間味のある居酒屋が生き残ることを切望する。たかが居酒屋、されど居酒屋。
 数日前、友人に教えられてジャカード(力織機)を製作している職人さんの仕事場を訪ねた。ジャカードが動いているのさえみたこともない。ましてやそれを製作しているところなど見学出来る機会がと思い、厚かましくも玄関の戸を明けた。
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 藤井機械店、千本上立売東入ル一筋目をあがったところにある。京町家特有のうなぎの寝床のような造作の奥に突然仕事場が現れた。外から見ると奥にものづくりの工房があるようには見えない。ご主人の藤井さんがひやかしの私に梱包しかけていたジャカードをわざわざひろげて見せてくれ
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た。本体は鋳物を使っているので外注だが、それ以外の木工、金工の部品づくり、組み立ては全部ひとりでしているという。後継者はおられないよお見受けした。
 ご主人の祖父、藤井徳治郎氏は西陣を近代的繊維
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産業に転換させる原動力となった人物のひとりである荒木小平のもとで修行して独立された方である。荒木小平はフランスから輸入したジャカードをもとに日本独自のジャカードを工夫し製作した「機大工」であった。その苦労が西陣を初めとする全国の繊維産業の繁栄の基礎をつくり出したのである。その意味では藤井さんの一族は日本繊維産業史の要に位置する人々といってよいであろう。
 仕事場は金工、木工両方の道具、乾燥させるために壁に立てかけられている木材、現状からは工作機械を動かすベルト、この仕事場の雑然とした雰囲気は美しく感動した。職人は自分の使いやすさにあわせて仕事場をつくる。どこに何があるかもよく知っている。雑然さの中に精緻な技術にもとずく秩序があるのだ。説明を聞きながら「船大工」であった父の仕事場を思い出していた。多くの道具のある場所を熟知していたし、その手入れを怠らなかった。私はその点では父にはるかに及ばない。必要な書物や文献をどこに置いたのか忘れているし、道具の手入れなどいかげんななものだ。
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 見せて頂いたジャカードの値段を聞いて驚いた。あまりに安すぎる。職人が一つ一つの部品までつくり、丹念にくみ上げた仕事に合わないことは素人の私でも理解できる。京都繊維産業の衰滅の証であろう。西陣で力織機を作っているのはもうここだけだという。この店が終われば機械を修理する職人もいなくなるのだろうか。必要な機械を作れず修理も出来ないとき、その産業は衰滅する。
 日本の工業的発展の最重要の遺産の一つとも言うべきこの仕事場は、歴史的遺産としてそのままの形で保存すべきだと思う。こわしで整理してしまったら、ただの道具の山になってしまう。この仕事場を残すことに意味があるのだ。地場産業として生かし続けることが最重要課題であることはいうまでもない。しかし、産業遺産として保全していくことも必要ではないか。多くの仕事場を残して、博物館群をつくり出す施策があってもよい。
 このまちを維持してきたのは公家や武士だけではない。数百年にわたってこの国の美意識を支えてきた西陣の職人集団であった。それが衰滅すると言うことはとりもなおさず、このまちの文化と伝統、ひいてはこの国の文化は滅びることを意味している。水族館やオペラハウスをこしらえる前に行政はもっとすべきことがあるのではないか。
 数日前、岡崎公園都メッセの古書市にでかけたついでに道路を挟んで向かいにある京都会館を覗いてみた。京都市が建て替えを提案しているというので、今はどのような状態なのか確かめてみたかった。
 京都市は老朽化を理由に建て替えるとし、オペラも上演できる装置を持つ、国債観光都市にふさわしいホールにするというのだ。当然、景観地区の高さ規制を変更して立て直すということになる。
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 覗いてみるとすでに閉鎖されて、人影もなかった。取り壊しを待っている状態に特有の寂寞感が身にしみた。この建物にはいろいろな思い出がある。音楽会、演劇に出かけたほかにも、ここでさまざまな会合に参加した思い出がある。
 建物の外観を見る限り、洗えば見違えるほど美しくなるはずだし、内部の構造を変えるだけでまだ十分に使えるのではないか。何でも古くなったことを理由に壊して新しいものと取り替える行政はやめにしよう、ハコモノをつくって成果を強調する政治は終わらせよう。
 それにしても、オペラも演じられるホールをつくる必要があるのだろうか。大阪にも大津にもオペラを上演できるホールがあるのに、あえてもう一つつくる必要だどこにあるのか。しかも景観を壊してまで大きな威圧感のある建物を造る必要があるのか。どうしてもつくりたいというのなら、地下を掘り下げるのがよいだろう。このまちの姉妹都市であるドイツのケルン市のフィルハーモニー・ホールはライン河畔の歴史的保存地区であることから、地下を掘り込んで建てられている。それくらいのことをして賞賛を浴びることも必要ではないか。しかしその場合でも採算を考えてのことではあるが。
 今からでも遅くない。壊すのを延期し再検討せよ。

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