2012年6月アーカイブ

 和装着物が民族衣装であるかどうか、この国の支配層があらためてそのことを認めるかどうか、そのことについて少し意見を述べた。しかし、それは着心地のいい美しい着物を求める市民にとってはどうでもよいことではないか。私の場合は、とにかく着てみたいのだ。ただし条件がある。
 父が亡くなったとき、私は父の着物を引き継がなかった。父は羽織、袴もふくめて結構着物を持っていた。戦争ですべてを焼き尽くされたのだから、おそらく戦後に買い求めたのであろう。厳しい冬のためにラッコの毛皮の襟のついたマントもあった。その頃まだ私は大学院生で絵に描いたような貧乏暮らしであったから、父の着物を引き取る余裕などなかった。作務衣、浴衣、どてら以外は和装とは無縁の暮らしが続いた。
 学者としてやっていける自信も出来て気持ちに少しはゆとりが生じたとき、着物が欲しくなった。着付けが難しくないこと、片付けが簡単なこと、それで外国にも持って行けること、こんな条件を満たす着物などあるはずがない。そういう求めに応えてデザインしてくれるところがあっても良いのではないか。
 先日織成ミュージアムのKさんとの会話の中で、今の女性たちの着物はそれほど古いものではないのですよ、と指摘された。この指摘で私の着物に関する固定観念はひっくり返された。確かにその通り。今の女性たちが身につける豪華な織りの帯はそれほど古いものではない。安土桃山期の絵や洛中洛外図屏風などを見ると、女も男も自由で動きやすく、しかも美しい衣服を身にまとっている。今の着物よりはるかに美しくも見える。
 和服はまだ変化する、大胆に変えることが出来るのだ。動きが自由で美しく、外国人でも着られる和服が誕生しないものか。
 先日渡文さんの博物館を拝見したとき、案内して頂いたKさんとお茶を飲みながら、着物の将来について意見をうかがった。それ以来、古代以来の西陣織物業の伝統は一体どのように、どのような規模で維持されるのだろうか、そのようなことについてあれこれ考えている。
 今のまでは結果は見えている。西陣織のような高価な衣装を着られる階層、花街の芸子さん、能狂言、歌舞伎等の伝統狂言の担い手、華道、茶道の家元制度にかかわる人々、タレント、神官や僧侶などの特定の職種の人の需要を満たせる規模と水準に縮小されるだろう。しかもすでに始まっている急速な人口減少によって需要はさらに縮小するはずだ。残念ながら、日本の着物はフランスやイタリアの高級ブランドのように世界市場商品になるとは考えにくい。その水準まで縮小しても良いというなら、致し方ない。そうなれば、和装着物は特定職種のユニフォームみたいなものになってしまい、民族衣装とはいえないのではないか。
 和装がこの国の民族衣装であり、西陣織工業はそれを担い継承するリーダーであるとするなら、致し方ないではすまないだろう。もう一つ引っかかる問題がある。和装着物を着てみたいが、いろいろと面倒くさい、非実用的過ぎる、高すぎるという問題を解決するような方向性が出てくれば、需要は拡大するのではないか。この2点について少し考えてみたい。
 和装着物の衰退は、明治の初めからとっくに始まっていた。この頃から日本人は洋服を着る機会が多くなった。着ることを強いられた側面もあった。軍隊や警察機構はその機動性を強化するために、和装を捨てたのは理解できる。しかしこの国の支配者たちが洋装を正装とした時から、洋装と和装、洋服と和服のく別が生まれ、洋服による伝統の浸食が始まった。
 この国の支配層が和装を急いで捨てたのには背景がある。鹿鳴館である。不平等条約改正を実現を実現すべく、欧米諸国に文化的にも並べる水準であることを示したかったのである。栗原俊雄氏によれば、古来からの正装である衣冠束帯には勲章は合わないとされ、1872年の太政官布告によって文官の大礼服は洋装と定められ、従来の衣冠は祭服になり、直垂(ひたたれ)や狩衣(かりぎぬ)、裃(かみしも)は廃止された(栗原俊雄『勲章ー知られざる素顔ー』岩波新書1306、岩波書店、2011年4月、22-23ページ)。国民統合の象徴である天皇が和装を捨ててはもうどうにもならない。
 それでも和装の衰退が顕著にならなかったのは、市民は和装着物で生活していたからであった。変える必要もなかったし、親から子に受け継がれる和装の方が安かった。思い返してみると、私の親たちの世代の日常生活は基本的に和装であった。私の両親は戦後も和服を着こなしていた。
 支配層が伝統的生活様式の変更を迫ったのは、先の戦争であった。市民の服装を戦争対応型にすることを強要しただけでない。「贅沢は敵だ」というスローガンで、華美と評価されるものを社会生活から追放した。戦後のアメリカ文化の影響が急速に拡大する中で、洋装は無制約に広まったのである。
 もはや民族衣装とは何か、和装は民族衣装かと問うのも無意味に見えるような状況になったしまったのではないか。市民に愛国心を求めるというのなら、この国の支配層が率先して和装着物を民族衣装として見直し、奨励することから始めなければならないのではないか。率先して捨て去ったのだから、その復興のためにリーダーシップを発揮するのは当然のことではないか。先日ブータン国王夫妻がこの国を訪問したが、彼らが民族衣装を正装として着用していることに感動した人も多いだろう。ブータン国王に学べ(続く)。

2012年6月12日ー追悼、原田正純さんー

 原田正純さんが11日午後に亡くなられた。77歳という若さであった。
 原田さんには直接お会いする機会はなかったが、水俣病という世界に例を見ない大規模な企業の公害犯罪に揺るぎない態度で抗し、科学者のあるべき姿勢を示してくれたことでまばゆいばかりに光り輝いた人であった。
 福島原発災害を契機に科学者の社会的責任があらためて問い直されている今、原田さんの仕事、原田さんの勇気が科学者の鑑として評価されるべきであろう。彼の仕事は人類の科学史に書き込まれるべきものであろう。それがかりに無視されたり歪められたりするのであるならば、私はその流れに敢然と抗議するであろう。

2012年6月8日ー西陣・喫茶静香ー

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 千本今出川西南のバス停前に、気になる喫茶店がある。外観から見て戦前からの店のようだ。入り口は最近の自動ドアや引き戸ではなく、観音開きで真鍮製の把手、はめこまれた一枚物のガラスに花の図柄のフッ素による彫刻が施されている。面白いのはガラス窓に内側から貼られたポスターだ。特に「懐かしいホットケーキあります」には考えさせられた。ホットケーキが懐かしい食べ物であるはずがない。昔を偲ばせる味ということなのだろうか。「ます」を正方形に斜線を入れて表現するやり方など今の若者たちの絵文字も形無しだ。店の名前「静香」も女主人の雰囲気を想像させて覗いてみたい気持ちを昂ぶらせる。
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 このまちにはお化けが出るような古い小料理屋、喫茶店が多い。ほとんどの市域が前の大戦の戦災をまぬがれたという事情もあるが、所有者が古いスタイルへのこだわりをまもっているからであろう。昔と変わらぬ花街の存在も影響しているのかもしれない。
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 そういうわけで6月5日正午過ぎに、減量作戦の禁を破ってホットケーキを食すべく、ドアの把手をおそるおそる引くことになったのである。1938年(昭和13年)の開店という。天井のシャンデリアは当時のものと違うが、それ以外は開店時の雰囲気をよく残しているように思われた。西陣が繁栄していた頃にはこの地域きってのハイカラな店だったのだろうと想像する。テレビの台になっている電蓄は戦前のものか、NCRのレジスターはまだ現役であった。
 私より少し若い女主人にホットケーキの由来や静香という名前について取材するつもりが、彼女の迫力に押されて聞きそびれた。もう一度覗いてみることにしよう。

2012年6月7日ー西陣・織成館あたりー

 6月1日、上京区大黒町にある織成館(おりなすかん)を見学した。このあたりを一度ゆっくり見て回りたいと以前から考えていた。西陣にしてはめずらしく、このあたりだけがアスファルト舗装を引き剥がして石畳にし、店も仕事場も美しく改装されている。それでもこのまちの店の暖簾をくぐるのには勇気がいる。門前払いを食わされるのではないか、観光客程度にあしらわれるのではないか、それ以上に仕事の邪魔だと言わんばかりにあしらわれるのではないかと、いつも前に立って入るかどうか決断を迷うのだ。今回は主治医に紹介してもらって、おそるおそる暖簾をくぐった。
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 このミュージアムは渡文(わたぶん)さんが自宅兼工場の建物を改造して作ったものだ。高価な帯地をおる工程を見学できる。その隅で観世流能衣装の復元に若い織子さんが取り組んでいた。テレビ番組等で見るといつもご高齢の方が多いので、その若さに驚き技能の継承もまだあるのだなと安堵した。
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 目もくらむような華美な帯地、その華麗さは私どもには手の届かぬような値段のせいかもしれない。西陣織のネクタイ、いったいどのような階層の人が買うのだろう。こんなことを考えながら展示品を眺めていた。和装産業の危機、西陣の危機とは何だろうか。奢侈を求める人々とと和服がなければその生業を維持できない人々を相手にすれば、花街、家元制度、能狂言、歌舞伎等の伝統芸能等の限定すれば、それなりに販路を確保できるようにも見える。しかしそれでいいのだろうか。和装産業のあり方だけでなく、考えなければならない問題が沢山ありそうだ。
 昨日は神戸市に出かけ、神戸市立博物館で開催中の「南蛮美術の光と影ーの謎ー」をみた。この展覧会の目玉であるサントリー美術館と神戸市立博物館がそれぞれ所蔵する泰西王侯騎馬図屏風は30年前に見ている。
 南蛮美術と総称される分野は、今回の展覧会もそうなのだが、権力者たちの異国趣味やキリシタンの宗教芸術の視点から観察されてきたように思われる。私は今回の展示をそれとは違った視点で見たいと考えていた。その中に日本という小国の位置を読み解く方法として見てみたいと考えた。
 面白かったのは、螺鈿蒔絵の工芸品の展示である。南蛮貿易は異国の文物を持ち込んだだけでなく、日本の工芸品の評価を高めることに貢献した。繊細に交錯できる技術に支えられた美意識、それがこの国の評価として定まった時期ではなかったろうか。
 今回の私のお目当ては世界地図や都市図を写し取った屏風であった。これらの屏風の前に立つ権力者たちは何を考えていたのだろうか。この世界地図にちっぽけな日本と自分の権力を位置づけたのだろうか。どのような時代認識と世界認識を持って眺めていたのであろうか。そのことを想像して、私はあらためてこの時代の世界性に思いを致す。信長や秀吉が服装を華美にし、異国の衣装を身につけたのも、ただの異国趣味ではなく、彼らの時代認識のなせる技であった。安土城も大阪城も炎上し、彼らの眺めてであろう世界地図も地球儀も残ってはいない。彼らが国家統一の先に海外進出を考えていたことは十分に考えられる。秀吉の大陸進出の野心はヨーロッパのアジア進出とのせめぎ合いの中で構想されたのではないだろうか。
 そんなことをあれこれ考えて、久しぶりに面白い展覧会であった。

2012年6月2日ー西陣を考えるー

 「西陣」という呼び名は、このまち集約されている伝統的技術を表して誰でも知っている。祇園祭の山鉾の胴掛けを見て観光客は賛嘆の声を上げる。修学旅行生なら西陣会館で織りの実演をみてその技術の精緻さと費やされる労力の大きさに驚かされるだろう。しかし、西陣という産地を見る人、現状を理解できる人はそれほど多くはないだろう。かくいう私自身もこのまちに住みながらこの地域に足を踏み入れることはこれまでなかった。この地域の診療所にお世話になったことから、千本通の散歩を始めたのだが、繁華街、今宮神社の祭などを観察する中で、観察の対象を通りから地域に広げることを思い立った。そうしてみると、この地域の抱える問題が素人の私でも理解できるように見えてくるのだ。
 西陣の衰退が叫ばれて久しい。当然のことだと、ほとんどの人は思うに違いない。日本人は伝統衣装である着物を着なくなった、人口減少が進めばこの傾向にさらに拍車がかかる。押しと止めることは困難なようにみえる。産業としての西陣の衰退は、そのように簡単にはかたづけられない問題を孕んでいる。西陣の衰退とは何だろうか。
 第1に、和装産業が集積する西陣地域の衰退、ひいてはこのまちの中心である上京区の衰退と空洞化をもたらす。これは大変な事件ではないか。古代以来この都の政治的中心であった場所の衰退なのだから。
 第2に、この地域が支えてきたこの国の技能、美意識の衰退をもたらすことになる。このことの重要性はあえて説明するまでもないだろう。
 第3に、この地域が支えてきた祭その他の行事が衰退し始めている。このことは今宮神社の祭礼をみて痛感されたことであった。祇園祭も空洞化が進んでも観光資源として維持されたが、この地域ではどうなるのであろうか。
 西陣という表現には産業、地域、文化が不可分に結びあわされている。今年の散歩は、少し方針を変えて西陣にも広げてみようと思う。

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