2012年7月アーカイブ

 .都はるみは私の大好きな歌手の一人である。
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 彼女は西陣に生まれ育ち、生家は私の通う診療所のすぐ近くにあるという。古くからここに住む人に場所を聞いて、先日探索に出かけた。千本上立売を西に入ったあたりに作庵町という小さな町がある。そこが彼女の生まれ育ったところだ。
 有田芳生さんの『歌屋 都はるみ』(講談社、1994年3月)によると、都はるみ(北村晴美)が生まれた頃は、このまちの世帯数は約60、住民は約250人であったという。1世帯あたり4人あまりであった。いまではさびれにさびれて、2012年4月現在で世帯数は31、住民は62人である。いまではこの町に子どもの声が聞こえることなどおそらくないであろう。北村家の敷地内にお地蔵様が2体安置されている。通常なら町内のお地蔵さんは立派な祠に祀られているのだから、別の場所に町内のお地蔵さんは安置されているのあろうか。それともたまたま地中から掘り出されたものを北村家の敷地内に祀っているのであろうか。子どもも少ない、世帯数も少ないこの町内で地蔵盆はどのようにされているのか、一度覗いてみたいと思う。
 都はるみは西陣を映した、西陣的な歌い手だと思う。それは単に彼女が身にまとうステージ衣装が西陣織の着物であるというだけではない。
 彼女は自分のことを「歌手」ではなく「歌屋」だという。このいきさつは前述の有田芳生の著書に紹介されいるし、書物のタイトルにもなっているので、繰り返さない。都は一度引退し、復帰を決意した頃、自分を「演歌歌手」と括られたくないといい、有田がどういう表現がふさわしいのかと問うたとき、「歌屋」という答えが返ってきた。私は、この答えは西陣的であると思う。
 西陣は織に関わって生きる職人と労働者の町である。西陣織を支えるさまざまな職種が生産工程に対応して絡み合い展開されている。その繁栄に依存して商店も食堂も映画館も飲み屋も何でもあった。このまちに生きて自分を位置づけようとするなら、つねに「屋」と関連づけることになる。
 このような地域内部の分業関係と連帯感は、私のこども時代でもそうだった。私は船大工の子であり、そのことはわが家の屋号とともに誰でも知っていた。父の職業に関わる分業の関係も私はよく知っていた。舟釘を作ってくれる鍛冶屋、鋸の目立てをする職人、木挽き等々、道具や材料に関わって多様な職人が同じ地域の中で働き生きていた。この関係は前の戦争で壊された。船大工の子でも博士になれたのは、戦後の秩序の緩みのお陰だと思っている。ただ、私はその関係を振り捨てて飛び出した世界が私が本来生きてきたものとあまりに異質であることに常にこだわってきた。大学教師も職人も社会的分業の関係では同じ平面にあると理解できたのはごく最近のことだ。
 このような水平型の関係性にかわって支配的になったのは所得によって区別された階層性だった。この階層性はずたずたに破壊された地域にとっては連帯や関係を再構築するものには到底なり得ない。「絆」という言葉が空しく響くのはそのためではないのか。
 都はるみと言わず歌手やタレントたちは、歌がうまい、容貌が人並み以上だと言うことで社会的関係性から引き抜かれ引き上げられる。売れなくなったらもう用済みで消されてしまう。都はるみは自ら引退を表明して歌手としての自分を消し去った。歌の舞台への復帰は、自分の社会的位置を確認することが前提となった。だから浮き草のような「歌手」ではなく、「歌屋」だったのではないか。
 有田氏が紹介している、『月刊角川』1984年9月号掲載の中上健次との対談で都はるみは、やめたら京都で八百屋をやりたい、「魚屋さん、うどん屋さん、八百屋さん、私好きです」と言う。彼女が育った西陣の繁栄期の残像がすり込まれている発言ではないか。だからこそ彼女は「歌屋」としていきたかったのではないか。
 西陣は現代の都市にはめずらしく、社会的分業の関係が最近まで維持されたまちである。その西陣もいまでは重大な転機を迎えている。(続く)
 1945年7月15日、正確にはその前日の14日を含めて、この日は私が戦争に巻き込まれ、家も家財もすべて焼きつくされ、家族の一人をなくしたことを思い出す日である。当時私は9歳、国民学校(現在の小学校に相当)4年生であった。戦争の体験を語ったことはほとんどなかった。家族にもしたことがない。忌まわしい記憶を再生することへのためらいもあるが、体験したことのない人に説得的に語ることなど出来るものではなかった。
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 一枚の写真を示しておこう。米軍が撮影したものだが、煙をあげて激しく燃え上がっているあたりに私の家があった。米軍機のロケット砲攻撃で最初に炎上した。8時半頃に撮影したようで、この時間には私はこのあたりを脱出していたが、この写真を撮影した飛行隊の第二波攻撃をかろうじてかいくぐり、死をまぬがれた。
 この10年、私は私の戦争を書き遺しておきたいと考えるようになっている。戦争の体験者が少なくなり、体験の風化が叫ばれている。その流れに抗したいという気持ちも強い。しかし書き遺すことをためらったのには、それがあまりに些細な個人的な体験ではないかということだったと思う。戦争の悲惨さは包括的に記述されても、その現実は伝わってはこない。200人の死者よりも1万人の死者のほうが悲惨さが大きいように見え、200人の事例は軽視される。東京大空襲や広島、長崎、沖縄の体験がその規模の故にその非人間性が強調されて示される。しかしながら、家族を失い、貧困のどん底に落とされたものにとっては、自分の体験が重要なのであって、死者数の多少は関係ないのではないか。戦争体験の風化とは、そのような個人の体験が失われることなのだと最近ようやく気がつき始めた。体験した人の数だけ戦争の悲惨の告発の仕方があるのだ。
 あの忌まわしい悲惨な体験が幸運にも生き残った私のその後の生にどのような影を落としているのだろうか。そのことをずっと考え続け、反芻してきた。それはある意味ではまったく個人的なとだ。それだけに書くことがはばかられた。
 そのような躊躇を捨て去ることにした。かすかな記憶らしきものとすくない資料を綴り合わせて書き続ける「すり込まれている筈の風景」、つたない文章でもそのうち一人でも良いから人の目にとまることを期待する。
 一昨日からの話の続き。ブラームス愛が募ってワインの銘柄を「ブラームス」と命名したオーナーがラベルに採用した図案はチェロであった。ブラームスのチェロ作品がお好きなようだ。このことも、チェロの響きに魅せられている私にとってはたまらない。
 この人はどの曲が好きなのだろうか。チェロはブラームスが好んだ楽器のようで、美しい曲はいくつもある。二つのチェロソナタも良いし、「バイオリンとチェロの協奏曲」、いわゆるドッペルコンツェルトも名曲だ。残念なことに、この曲を取り上げた演奏会には滅多にあたらない。同じ程度の力量のソリストを二人そろえるのが難しいということだろうか。彼はチェロ協奏曲を書いていない。師であるR・シューマン、世に出るのに力を貸したA・ドヴォルザークにはそれぞれ協奏曲の名曲がある。この二人に敬意を表して断念したのだろうか。そんなことをあれこれ空想していると、もう一度、南アフリカに旅をしてこのワイナリーでオーナーとグラスを片手にのんびりとブラームスを聴いてみたい気持ちにもなってくる。
 私が最も愛好するチェロの曲はというと、ピアノ協奏曲第2番の第3楽章で奏でられるチェロのソロだ。ピアノ協奏曲といいながら、この楽章ではチェロがピアノと主役を分け合っている。数年前ベルリンで遭遇した演奏会の興奮の余韻はまだ私の感覚にに残る。敬愛するダニエル・バレンボイムをソリストに迎えたサイモン・ラトル指揮のベルリン・フィルハーモニー演奏会、日本からネットで予約を入れ、演奏会に合わせてベルリン滞在の日程を決めた。
 鳴り止まぬ喝采、その時にソリストはチェロのソロを弾いた首席奏者に敬意を表するのが「儀礼」となっている。第3楽章の冒頭からのびやかに弾き出される主旋律にピアノが続く。首席チェリスト、L・クヴァントが響かせたあの音色、そんなことを考えていたら、ドイツ再訪の気分が高まってくる。そのためには体力を回復させなければと、グラス一杯に限ったワインを楽しみながら夢想する。

 なんとも不思議な組み合わせと、いぶかる人も多いだろう。どちらも私が愛好してやまないものの二つである。
  ヨハネス・ブラームスを初めて聴いたのはいつだったろうか。大学生になって名曲喫茶なるものに出入りするようになり、その頃交響曲の第1番かヴァイオリン協奏曲を聴いたのが始まりか、それともD・オイストラッフの演奏会か、まあどちらでもよいことだ。いずれにしても半世紀以上ずっと愛し続けているのだから。ブラームスを聴いていると、ハンブルク生まれと北海道生まれの感性が響き合うような気持ちになる。
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 南アフリカ産ワインを知ったのは、30年ほど前であろうか。研究のため訪れるたびに、ウェスターンケープ州のワイン産地を幾度か訪れた。それ以来その風光、友人たちとのグラスを手にしての交流を思い出しながら愛飲している。ドイツ、フランス、イタリアのワインも嫌いではないが、アフリカへの思い入れもこの選択に影響していることは否定できないだろう。まちに出てコーヒー豆をひいてもらうときも、いつもアフリカ産のものを買うのだが、店の女性たちが時々訊ねることがある。「アフリカのコーヒーがお好きなのですね。どこがよろしいのですか」。この質問には答えようがない。私の思い入れは簡単には説明できないからだ。私のペンネームの由来を説明する訳にもいかない。
 ところで、この二つにどのような関連があるのか。種を明かすと、答えは簡単だ。ネットで「ブラームス」という名のワインをたまたま発見。ワイナリーのオーナーのブラームス愛が高じてワインラベルにその名を冠したという。ブラームスを愛好する私がそれを試さぬ手はない。そのためしばしば口にすることになった次第(続)。

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