2012年8月アーカイブ

2012年8月15日ー「終戦の日」を思うー

 毎年、この日を迎えると気が滅入る。
 マンネリ化した式典、閣僚の靖国神社参拝の報道、通り一遍の生き残りの元兵士の回顧記事と特集ばかりが垂れ流される。なぜこの日が「終戦の日」なのか。1945年(昭和20年)のこの日の正午に、昭和天皇がラジオ放送を通じて「終戦の詔書」を発表したからである。しかしこの「詔書」は「終戦」宣言である以前にポツダム宣言の受諾の宣言ではなかったのか。そのことが今に至る領土問題その他の混乱の根源ではないのか。冷静にこの日がもたらしたものを報道し、議論して貰いたいものだ。
 この時期になると、なぜ周辺の国々と戦争責任をめぐって諍いが生まれるのか。そのことも、戦争を体験していない世代を巻き込んで真剣に議論して貰いたいものだ。
 そして私はこの日にはいつも苛立つ。戦没者とはいったい何か。支配者たちは本土決戦を叫んで戦火を国内に呼び込み、多くの市民が犠牲になった。彼らは「戦没者」ではないのか。広島、長崎の原爆による死者は「戦没者」ではないのか。沖縄戦で軍の盾となって死んでいった人々は「戦没者」ではないのか。
 戦争の体験は確実に風化している。あの大戦の惨禍を地震、津波、台風の被害と同列視して欲しくない。東京でも大阪でも、地方の小都市でも無数の悲しみが埋もれているのだ。
 毎年夏になるとめぐってくるこの日、私のこれまでの生の中でこの日はさまざまなことを考えさせてくれる契機ともなった。学生時代、原水爆禁止運動の創生期に運動に関わって、大学教師になってからは原子力潜水艦寄港反対の運動にも参加した。それらの機会に多くの事実を学び、」多くの人から学んだことが自分の成長を助けてくれたと思う。あらゆる組織から自由となり、運動に積極的に参加するには体力的に衰え始めている私には、いまは書くことしか参加への道は残されていない。読んでくれる人は少なくても、書き続けたい。
 何年前のことだったろうか、広島のある大学に集中講義に出かけた時のことだ。8月6日、慰霊の式典に参加したいと思った。広島の大学なら、しかも人権問題について積極的に取り組んでいる大学なのだから、この時間だけは特別に休講くらいにはするものと期待したが、そのような気配も感じられず、聴講する学生たちに講義の開始を遅らす理由を説明しようとも思ったが、とてもそのような雰囲気ではなかった。結局、私は学生に告げることもなく、早朝平和公園の会場に向かい、投下の時間に広場の片隅から祈りを捧げてすぐに大学にタクシーで駆け込んだ。かろうじて講義の時間に間に合った。この体験で私は、原爆投下から半世紀も過ぎて広島市民の中でその体験は共有されず、式典も十分な注目を集めていないのではないかと感じたものだ。原爆も平和の問題もただの遠い昔の問題になりつつあるのだろうか。
 私のこの感想に比較して、今年は違うようだ。今年はこの日を反原発運動のうねりの高まりの中で迎えている。原子力の兵器利用も「平和利用」と称する原子力発電もその根は同じだ。自分と家族の上に放射能が降り注ぐのはごめんという自己愛的
視点を超えて、原子力という悪魔的技術に依存した得た先進国の生活の豊かさなどはかないものだと自覚して欲しい。そして、原発がなくてもやっていける生活様式のあり方をこの際学習して欲しいものだ。そうすれば核兵器廃絶の実現も近くなる。

 北村晴美(都はるみ)は朝鮮半島からの移住者である松田正次、本名李鐘澤(イジョンテク)を父として誕生した。有田によれば第二次大戦前、多くの織物職人が朝鮮半島から移住し、京都の織物工業を支えた。古代にこの国の織の技法が渡来人によってもたらされていらい、この地の織物業は外からの影響の下で発展してきた。その中心は朝鮮半島との関係であった。多くの朝鮮人織物職人の移住はその重要な側面であった。
 西陣に限らず、関西の繊維産業は朝鮮半島からの移住者によって支えられたのである。大阪おける移住者についてはすぐれた仕事が沢山ある。西陣についてはどうなのだろう。統計分析ではなく、人間的感性で書きしるされたものを読んでみたいものだ。
 西陣とその周辺には今でも多くの在日コリアンが住み、西陣織や京友禅の仕事に携わっているようだ。業界団体も組織されている。戦後の朝鮮半島の政治的対立を反映して、在日の業者団体も分裂して活動している。これらの組織と西陣織工業組合とはどのような関係にあるののだろうか。
  すこし話がそれてしまったが、都はるみとその家族は西陣の持つ国際性の一つの表現だと思う。たとえそれがそれが歪められたいびつな形態であったとしても。この事情については有田氏の著書でも触れられている。
 ここで少し私の勝手な想像と推定を書きしるしておきたい。彼女の歌唱法は民謡や浪曲が好きだった母親の指導の影響とされる。なぜ朝鮮半島の歌唱の影響が指摘されないのだろうか。彼女の父や出入りする在日の人たちはどんな歌を唄っていたのだろうか。彼女にすり込まれている旋律とリズムに移住者たちが唄っていた歌声はどのようなものだったのだろうか。このことについては、前述の有田芳生も中上健次(『天の歌ー小説 都はるみー』1897年11月、毎日新聞社、後に中公文庫に収録)も触れてはいない。
 私の場合、こどもの頃に聞いた旋律はさまざまな形ですり込まれている。津軽三味線の響き、越中おわら節、江差追分などの民謡の数々は、門付けの三味線の音色なのか、祭の夜の演芸会の歌声なのかは定かではないにしても、いまでもそれを聴くと懐かしさで胸が熱くなる。それぞれの人に音にまつわる人生があると思う。
 歌はそのすべてがナショナリスティックなものあるとはいえない。歌詞はともかくとして、旋律とリズムは多くの民族の交流の中でつくり出されたものではないか。そのように考えて私は都はるみを聴き、国際性のにおいを嗅ぎ取ってみたいのである。
 都はるみが復帰を記念する作品として1990年に発表した「千年の古都」と言う曲がある。彼女が育った西陣の風景や母の思い出が歌詞に織り込まれ、西陣の永遠が悠久の古都への賛美に変わる。彼女にとって西陣こそが京都そのものだったのである。その意味ではこの歌は西陣への賛歌であり、応援歌でもあった。しかしいま、「機織る音も変わらない」どころか、その音は消えかかっている。そうだとすれば、これは今では西陣への挽歌であり、ひいては古都京都への挽歌になったのではないか。今この歌を聴くと、私にはそのように感じられる。

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