2012年9月アーカイブ

 無事退院。2週間あまりの入院で体重3キロ減。これでは減りすぎ、無性に美味なるものが恋しくなった。
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 夕刻、四条西木屋町下ルの「くりた」で出所祝ならぬ退院祝の宴。だされる料理すべてが美味、至福の時であった。
 病院食と比較しているわけではない。しかし、入院という拘束的状況から解放されてその美味が一層際だったことは確かであろう。記憶に残る晩餐となった。美味を提供するために料理人として腕をふるう店主に感謝、心地よいもてなしで美味を際立たせてくれるAさんに感謝、そしてこの
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晩餐を用意してくれた人にも大感謝。
 65歳の時、大腸に癌が発見され開腹手術を受けた。それほどの深手ではなかったので事なきを得た。そのとき以来、私の身体に対する感覚が変わったように思う。身体にメスを入れない限り、長命は期待できない年齢に達したのだから、病を早期に発見できることは幸運なことだと思うようになった。癌と宣告されてショックではありませんかとよく聞かれる。50歳代までならいざ知らず、病が発見されるのは当然で、手遅れにならないうちに見つかったことをむしろ幸運と思わねばと答える。いまでは自分の身体をできるだけ客観化して捉えることを心がけている。大腸癌摘出以来、どれだけ多くの病巣が見つかり、手術を受け、治療に専念していることか。病の年代記を忘れてしまった。
 「無病息災」といわれる。この状態を願うことは私にははもはや不可能である。「一病」も「二病」もあり得ない。「多病息災」こそが私の今にふさわしい。病をうまく受け入れて、「死の直前まで」学問ができたら、なんとすばらしい人生だろう。明日退院する。また新しい病巣が見つかり、症状が進み、治療と通院の機会が増える。うまくつきあっていく生活態度を再構築しなければならない。
 入院して私はいつも多くの人と知り合いになり、その人たちから多くのことを学んだ。病棟の看護師詰所前の集まり場は、私にとって最高の学び場である。お互い社会的地位や年齢など無関係に、病持つ身の体験を披瀝し合う。病と抗うのではなく、病をどのように受け入れるのか、そこにそれぞれに多様な人生が映し出されている。
 2年前の入院に比べ、外出許可が厳しくなった。今回の入院では血圧が不安定で、散歩に出るお許しがなかなか出なかった。昨日ようやくお許しが出て、いつも入院の際に出かけている東寺(教王護国寺)に出かけた。
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 そのついでに、北から始めた私の千本通り散策を今回は南から試みてみた。市バスを羅城門前で降り、古代平安京の南の門、羅城門址に向かう。小さな遊園地に石碑と内容のお粗末な案内板があるだけだ。古代の栄華を偲ぶものは何にもない。倒壊した後に残った礎石や土台の石は貴族たちが自分の屋敷を建てるのに持ち去ったと言うから、発掘しても礎石一つ出てこなかったという。門の両側に東寺、西寺の大伽藍を配して華麗で壮大なものだったろう。西寺は廃され、東寺が残るだけだが、東寺の規模から見て門の大きさは想像できるというものだ。羅城門址の石碑近くに石仏を多数祀った祠がある。荒れ果てて鬼が出るとまで噂されたこの地に粗末な荒れ寺がぽつりと立っている当時の様はなんともうら寂しい雰囲気であったろう。
 古代平安京の時代には、この門をくぐると道幅 70メートルあまりの朱雀大路が北の内裏の朱雀門まで上り坂で一直線に続いていた。北山、船岡山を背景にした朱塗りの内裏がここからもぞめただろう。いまは北山を望めるだけで、船岡山は見ることができない。
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 千本通は北に上がるとすぐに東海道線の線路の束と梅小路公園にさえぎられる。さらにその北は、JR山陰線の線路に利用されている。なぜこのように古代のメインストリートが無視されたのだろうか。想像するに、このあたりは畑地で人家はまばらであったはずだから、住民の抵抗もなく好きなように線引きできたのだろう。それにもかかわらず、このような形であれ千本通が生き延びられたのは、古代の記憶が庶民の間に引き継がれていたことによるものであろうか。
 歩いてみると、このあたり寺院も神社も少ないまったくの庶民のまちであった。
 千本通が朱雀大路の真上にあるとすれば、羅城門の位置を示す石碑は東に大きくずれているのではないか。戦前に建てられたこの種の石碑は不正確なものが多い。適当にこのあたりと言うことで建てたとしか考えられない。
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 東寺は三連休のせいもあって、観光客が多かった。宝物殿でかって羅城門の楼上に祀られていたという毘沙門天像をみたかったのだが、残念ながら休館。この仏像は以前に京都国立博物館で見たことがある。唐から招来の仏像といわれ、それが置かれていた羅城門の壮麗さを偲ばせる。
 金堂の薬師如来にお参りし、健康を願った。
 ベットの上で空腹感に耐えながら、ずっと以前に甲田光雄先生の断食療法のお世話になった時のことを思い出していた。40代半ば頃だったろうか。体重はその頃80キロを超え、職員の健康診断で高血圧を指摘されはじめていた。阪大医学部の知人が紹介してくれたので、ものは試し効果を体験してみたいと思った。生まれてこの方、ひもじい思いはさんざん体験してきたが、戦後の飢餓の体験からがつがつと早食いをする私にとっては断食など思いもよらぬ行為であった。
 甲田先生は阪大医学部を卒業されてから、自分の虚弱体質を克服するために自身を実験台に様々な工夫をされて独自の断食療法を編み出された。大阪八尾市に小さな医院を開業し、全国から難病治癒を願って患者が集まった。甲田先生はまさに教祖の風格であった。先生の影響で全国各地に断食道場がつくられ、玄米食を中心にした健康食を提供する食堂が増えた。大阪駅前、今のヒルトン・ホテルのあたりに旭屋書店の本店があり、その向かいに正食を提供する食堂があった。旭屋を覗いたときによくここで食事をしたものだ。玄米ご飯は咀嚼に時間がかかるが、とても美味であったことを懐かしく思い出す。飽食への批判と自省の声が聞かれ始めた時代であった。
 病気でもないのに割り込みで入院させていただいた。大学教員をしていると、ときどきこのような特別待遇に遭遇する。あまりよいことではないのだが、甲田先生の学問への尊敬の念の故とお受けすることにした。
  板のベットに毛布一枚を与えられて生駒山吹き下ろしの寒風に耐えながら就寝した厳しさは忘れられない。ここでの一ヶ月を超える断食生活で得た体験は多くの生活教訓として今も残っている。
 1週間かけて食事を少しずつ減らして完全断食に入り、完全断食は3週間続いたと思う。その間私は許しを得て週2回大学に講義に通い、原稿もいくつか書いた。友人たちと夕食をともにしたこともある。とはいっても私は砂糖抜きの紅茶で、不思議に食べたいという欲望は少しも起こらなかった。それが一変したのは、先生が診察でそろそろやめましょうかと判断されたときだ。食欲のこらえがなくなってしまった。八尾駅前のデパートの食品売り場を歩いても何にも感じなかったものが、なぜこれを今食べてはいけないのか、欲求を抑えるのに苦しんだものだ。
 断食も終わり頃になると、感覚が鋭敏になり、不思議な感覚にとらわれた。人間も本来的にはサバンナの野生肉食獣と同じ感覚を共有していたのではないだろうか。彼らに飽食はない。空腹の中で感覚を鋭敏なものにして獲物を狙う。人間も飽食を捨て去るとき新たな感覚の獲得、というより人間に本来的な感覚の再生があるのではないか。飽食は人間を駄目にする。そんなことも考えていた。
 体重は60キロ台半ばまで落ちたが、その後の通常の食生活で70キロ台半ばに戻り安定していたが、あいもかわらぬ不規則な生活、外国出張を経て体重は右肩上がりで増加し、現在に至っている。飽食に堕し、並の人間感覚に浸りきる生活に戻った。
 奈良から大阪に向かう近鉄線で生駒のトンネルを抜け山麓を下ると八尾である。右側に甲田医院があったあたりが見渡せる。一度お目にかかって助言を求めたいと願っていたが、この肥満では先生に合わせる顔がないといつもいつもためらった。その後私は食のグローバル化、食の工業化についていくらかの問題提起をし始めていたし、単なる飽食にとどまらない現代の食の危機について意見を交換できたのにとも思った。先生はなくなり、医院も閉鎖されたという。私がこれまでの人生でお会いして医師たちの中でも最も優れた存在であったと思う。
 入院を体験した人たちが3人以上集まると、いつも話題に上るのは病院の食事に関する体験である。どこの病院がおいしかったかまずかったか、つきることなく話は続く。病院はレストランではないのだが。もっともお金持ちのための豪華なレストランをを持つ病院はあるにはあるが、私どもには関係がない。
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 考えてみれば、限られた予算で入院患者全員を満足させる食事など提供できるはずはないのだ。しかも基本は病人食なのだから。私の場合は、1600カロリーに制限され、減塩食が提供されている。おいしかろうはずがない。健常者が手術のために入院した場合とは違うのである。
 この病院は健闘していると思う。大きな病院はケイタリングを利用しているが、ここでは自前で調理しており、食が進んでいない様子がみえると、栄養士が相談にくる。
 私は生来好き嫌いが多い上、子どものころの食事体験にいまだにこだわっている。子ども時代に食べることのできなかった、しかも貧乏学生の頃には滅多に食することのできなかった獣肉への愛好は強まるばかりである。年齢を重ねるとともに嗜好の偏りはますます大きくなったようだ。
 だから、栄養士さんや調理をする人に申し訳ないことだが、箸が進まないことがたびたびだ。病院なのか断食療法なのかわからなくなることがある。食が進まず空腹感にさいなまれながらベットに横になっているとき、以前にお世話になった甲田光雄先生のことを思い出した。生駒山麓にある甲田医院での体験は、私の苦い思い出の一つである。
 医者にかかると、まず採血という苦痛にさらされる。血液検査で体調のかなりの部分が解明されるのだからやむをえないことなのだが、しかしこれほどいやなことはない。注射を好きな人などまずいないだろう。その注射針が刺し込まれ、自分の体から赤い血が採られるのを見ているのはあまり心地よいことではない。今回の入院では今日までにすでに9回も採血されている。
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 私の腕の静脈は左右とも奥に隠れて表になかなか出てこない。そのために看護師はどこに刺そうかといつも迷うことになる。刺すと今度は静脈が逃げるのだそうな。静脈のような細部にまで私の性格が映し出されているということか。その結果看護師は逃げる静脈を追い回すことになる。こうなると最悪、いかにかわいらしい看護師さんでも血を求める吸血鬼に見えてくる。こういうこともあってか、上手に一回で採血に「成功」した看護師には賛辞を送ることにしている。
 昨年の京大病院での体験。初診の外来患者は中央検査室で採血される。この検査室が実に壮観で、とても病院とは思えない。銀行のカウンターを連想させる。各診療科からまわってきた患者は番号札をとり、電光掲示の指示する窓口で採血を受ける。手際は鮮やかで、なんの迷いもなく採血してくれる。
 その数ヶ月後、入院することになって病棟でまた採血することになった。なんと次々と失敗し、最終的に5人がかかわることになった。刺しまわる看護師たちに苦笑せざるを得なかった。検査部の看護師は上手でしたよというと、彼女たちの返事はこうだった。「検査部の彼女たちは選りすぐりの人たちよ」「私たちは採血は下手だけど、ほかの技能では彼女たちより優れていることが多いわ」。理屈としては通っている。
 医療の技術も治験も日進月歩なのに、採血という基礎作業の技術がこの水準なのはなぜなのだろうか。患者の利益のために改善の余地はないのだろうか。
 もうひとつ気になっていることがある。採血の際にいつも「痛いですよ」「ちくりとしますよ」と言うのは、患者の注射器トラウマを呼び覚ますだけだ。この言い方はやめた方がよろしい。痛いことは重々承知、なにか別の表現はないのかなといつも考えさせられる。痛いとは言っても、かって体験した開腹手術の術後の激痛に比べれば蚊に刺された程度のことなのだが。
 2年に一度、下京区にある病院に入院することにしている。持病の現状を確認し、治療方法と生活規律を確認するためだ。検査と医師、栄養士の講話などが続く毎日だが、予定が入らない日は手持ちぶさた、散歩に出るかいろんなものを持ち込んで暮らす日々が2週間ほど続く。
 今回はいろんなものを持ち込んだ。書物数冊、CDプレーヤーとCD数枚、昨年夏京大病院に入院した際に購入したものだ。iPad、これには時代小説が数冊入れてある。それにノートパソコン。入院して困るのはメールを読めないことだ。退院してから自宅のコンピュータを立ち上げると、迷惑メールの山である。これをかたづけるのが大変な仕事なので、入院中に少しずつかたづけたいなどと都合のいいことを考えるのである。
 主治医のK先生に接続端子を使える部屋がないかと訊ねたところ、一喝された。
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病院は治療の場所です、あなたのように元気な人ばかりではないのです、インターネットにつなげる部屋も場所もありません。ごもっとも、抗弁のしようもなかった。
 しかしよく考えてみると、ちょっとおかしい。廊下やロビーには公衆電話もあり、携帯電話も場所を限って利用できる。インターネットはいまではこの手段と並ぶ最重要に通信手段ではないか。
 昨年京大病院に2度入院した。病院のIT化もここまで進んでいるのかと驚かされたものだ。カルテの電子化と集中管理は今では殆どの病院と診療所に普及している。京大病院で驚かされたのは、病院全体にLANが構築されていることだった。外来の患者は受付機で診察券を挿入すると自動的に端末が受付機の中から登場する。診療が終わり支払いすむまでこれを身につけておくことが求められる。診察室への呼び出しも会計の呼び出しも、無機質のブザー音とともに小さな画面に表示される。患者はこの小さな端末に管理される。どこにいるかも確認できる。コンピュータや携帯電話に不慣れな高齢者や障害者はどうするのだろうと不安にもなった。
 確かに医療従事者の仕事も会計事務も効率化されたようには見える。しかし診察室の風景はすっかり変わってしまった。医師は患者と対話するよりも、コンピュータ画面とにらめっこしている時間の方が長くなる。一人の患者に要する時間が一定とすると、患者へのきめ細かな対応はおろそかになる可能性はありはしないか。もちろんカルテの電子化によって患者の情報がいつも見ることができるから、医師の病状判断は迅速になるという利点もあるにはあるのだが。
 入院してみると、病室の管理はそれほどIT化されていないことがわかる。ノートパソコンを持って動き回る看護師の姿を見ると変貌を実感しないでもないが、投薬の取り違え、手術の取り違えに対する対策は依然として人間の判断に委ねられている。こういう判断は結局は経験を積んだ人間の判断力に勝るものはないのだろう。IT化の限界を見た気がした。
 最初の話に戻ろう。インターネットは今では通常使用される通信手段なのだから、病院内に是非ともどこかに
接続できる端子だけでも用意してもらいたいものだ。
 もう一つ、入院案内を見ても情報通信端末の持ち込みについては何も指摘がない。コンピュータもiPadも持ち込んでいいのでしょうね。
 数日前、友人のKさんを誘って、千本中立売上ル西側にある居酒屋「神馬」に飲みに出かけた。1ヶ月ほど前になるが、大阪の友人Kさんと出かけて時は予約で満員と断られた。今回はそのリベンジのつもりで出かけたのだが、案に相違してガラガラ。河原町高島屋前から乗ったタクシーの運転手はこの店を指定して乗る遠来の客を何度か乗せたそうな。京都の居酒屋は今では全国区なのだ。
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 1934年創業で内装は変えていないという。店のあちこちに廓が全盛であった往時を偲ばせる雰囲気が残っている。この日は居酒屋特有の酔客のざわめきも聞こえず、エアコンの冷えすぎに邪魔されて早々に退散した。次回に期待しよう。
 筋向かいの西陣京極を散策した。昼に一度歩いたことがあるが、その時はあまりのさびれぶりに驚いたものだった。夜来てみると印象がまったく違う。通りの北川には映画館が2軒、南側には1軒あったという。いまは駐車場l、パチンコ屋になっている。突き当たりにはストリップ劇場があったという。それが消え去ってもまだこのように健闘しているのだから、立派なものだ。
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 全国区になった居酒屋よりもはるかに人間的な気がする。私はほろ酔い機嫌で車を心配することなく店をはしごできるこのような通りが好きである。映画がはねた後の賑わいを想像しながら、一度飲みに出かけようと思った。

2012年9月2日ー万年筆は長期失業の状態ー

 書き味のよい、手に馴染んだ万年筆を数本持ちたい、これは物書きをめざすものの夢である。数本持つと言う夢は、私も実現できた。ところがどうだろう。万年筆をいまではほとんど使うことがない。
 処女作出版の頃までは万年筆で原稿を書いていた。人によっては個性的な字ですねと妙な褒め方をされることもあったが、編集者泣かせの悪筆と言われたものだ。そういうこともあって、第二作は臨時の秘書を使って原稿を清書して貰った。第三作以降はコンピュータへの依存が常態化した。原稿を書くのではなく、打ち込むことになったのである。ようやくタイプライターで仕事する欧米の仕事の形に似てきたのである。メモや下書きは鉛筆を使っている。
 せめて私信ぐらいは万年筆でと努力したが、歳とともに自分でも読めないほどの悪筆とあいなり、これもコンピュータのお世話になったいる有様。いまは署名だけ自筆でするようにしている。一筆箋も絵葉書もパソコン入力でかたづけるようになり、机の上に置かれている数本の万年筆は失業状態である。
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 写真の一本は私の60歳を祝って友人たちが贈ってくれたものだ。ペン先、軸とも手作りで、かなり値の張るものようだ。頂戴したとき、これを使ってよい仕事をしますと挨拶したものだが、申し訳ないが実行できていない。
 年に一度、京都市内のデパートに出店し、掃除をしますのでご来店くださいと葉書が舞い込む。今年も数日前にハガキを手に店を覗いた。掃除が終わるのを待つ間、ショウケースを覗いていた。10数万円という価格に驚かされた。軸に施された漆塗りや堆朱の
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細工でこうなるのだろう。高いからと言って書き味がよいとは限らない。どういう人が買うのだろう。万年筆ブームという。結局高価なものを身につけてステータ
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スを誇示したい人たちのためのものなのか。
 わたしも高価なものを頂いたのだから、それにふさわしい仕事を「書き上げ」なければならないのだが。
 この文章を書き始めたそもそもの理由は、西陣を散策する中でこの地域の衰退の状況を目の当たりにし、自分なりに実態を確かめてみたかったからだ。私はこのまちが好きである。なんとか生き残って欲しいと願うからだ。
 西陣の衰退という場合、三つの視点で観察しなければならないと思う。
 第1に、産業としての西陣織の衰退は後戻りのできない段階に入っているように見える。統計数字を列挙するまでもなく、現状は惨憺たるものだ。西陣織工業組合のホームページ(www.西陣.com/)に「西陣生産概況」が添付されている。それによると。組合員数は1975年(昭和50年には1530社あったものが、2005年(平成18年)には474社に、つまりこの30年間に30パーセントにまで減少したのである。出荷額も同じ時期に33.0パーセントまで、主力商品である帯地は22.0パーセント、着物は8.3パーセントまで減少したのである。この傾向が続いていることは十分に推測できる。原因は何か。基本的には和装離れであることは確かだ。
 第2に、西陣織工業は、「西陣」と通称される地域に集積されて発展してきたのだから、産業の衰退によってこの地域も衰退するのは当然であろう。30職種を超える水平的な工程間分業で結ばれた職人組織が集積しているのだから、どこかの部分が廃業すればこの分業関係は立ち行かなくなる。このことについて、以前織成館のKさんの意見を聞いたことがある。道具を作る職人が廃業したらどうするのですかとの問いに、廃業した工場から使えるものを頂戴してますから大丈夫ですよとのことだった。当面はそれでしのげるかもしれないが、これでは先がないのではないか。
  地域の衰退は誰の目にも明らかだ。廃業した工場跡地に建つマンションの増加、駐車場、そして商店街の衰退が進んでいる。シャッターを下ろしたままの店舗が増えている。かっては京都で一二を争うほどの賑わっていたという千本通りの凋落ぶり、これらのすべてが西陣織工業の衰退に帰せられるものものではないにしても、その主要で最大の要因であることは明らかであろう。
 1995年1月17日の阪神淡路大震災の後、神戸市長田区調査に入った時のことを思い出している。この地域は神戸を代表する地場産業であるヘップサンダルを中心とする洋風履物生産で有名な地域だった。おもに在日コリアンが担った産業である。震災前に一度講演のためにこのまちを訪ねたことがある。木造の民家が密集した地域だったと記憶している。このまちでは原料から半製品、完成品に至るまで隣同士で、親族同士で軒先から隣の軒先へと製品が流れていたのだ。安価な中国産との競争に圧迫され、大震災による地域炎上が大打撃となった。地域内分業の関係はずたずたに破砕されたのである。
 震災復興の過程でどのように変化したか、もう一度調査に入ろうと考えたが、断念した。結論は見えていたからである。消防自動車の入れる幅広い道路、地震や火災にも耐えられる鉄筋コンクリートの高層住宅群からなる災害に強いまちとして再建することには、以前にあった分業関係を再建することなど含まれる筈はなかった。高級品志向、これが唯一残された道だった。長田は地場産業のまちから、鉄人28号を飾った無機質のまちに作り替えられてしまった。この長田のヘップサンダル業界の運命は西陣の前途を暗示しているように思われるのだが。
 このような状況にからみて、都市経営のあり方も再検討されなければならない。そのためには、そもそも都市とはなにかがまず問われなければならない。これが第3の視点である。長くなってしまったので次回に譲りたい。

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