2012年10月アーカイブ

10月13日の散策記録の最後。
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 千本通と丸太町通の交差点の北側が、古代平安京の中心である大極殿があったあたりである。交差点の北西角にその説明板があり、それより少し北の歩道上に発掘によって確認された位置が示されている。説明板は一部はあまりに小さく、一部傷んでいる。歩道の表示もこれでは気がつかずに通り過ぎてしまう。
 戦前に立てられた大極殿址を示す実に立派な石碑が少し離れた児童公園の中にある。前に書いた羅城門址の石碑もそうだが、その位置は正確ではない。不正確とは言っても、これ自体がすでに歴史的遺産ではないか。
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 このあたりを歩いてつくずく感じさせられたこと。このまちの権力者たちはこのまちの歴史の価値を理解していないのではないかと言うことだ。
10月13日の散策記録の続き。
 ドイツ風パンを焼いている不思議な店が千本通近くにあると友人が紹介してくれたので、散策の途中に探してみた。軟らかい白いパンよりも、むかしドイツで食した固く焼いた黒いパンが懐かしい。最近はネットでプンパーニッケルを買っている。そういう話をしていたら、この店のパンならドイツびいきの私を満足させるに違いないと、教えてくれた。
 
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千本通を下がり、中立売通を過ぎて下長者町を東に折れる。一筋目を北に上がるあたりで一度まちの人に訊ね、たどり着いた。なんと不可思議な場所だろう。上京区の真ん中に森にも近い繁りがあるとは。このあたりは豊臣秀吉、秀次の居城、聚楽第の西側にあたる。夜な夜な秀吉によって切腹を強いられた秀次の亡霊がさまよい出そうな雰囲気であった。
 訊ねたパン屋はおそらく百年以上にはなると思われる廃墟に近づいているような屋敷にあった。家の前の樹が巨木に成長し、その根で玄関に至る敷石ががたがたで、足もとのおぼつかない私にはたどり着くのに苦労した。
  パンには満足した。探訪する場所がまた一つ増えた。
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 これは13日の散策記録の続き。
 千本一条を北に行くと、一階に印良品の店がはいるマンションがある。ここに日本映画の父とあがめられる牧野省三(マキノ省三)(1878−1929)がかって「千本座」という芝居小屋を所有していた。この小屋はマキノが制作する映画の上映の拠点であった。当時の無声映画のほとんどはこのあたりの社寺をロケ地にして撮影されたらしいから、この場所はマキノの映画制作の中心であった。いうならば日本映画の
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誕生の地であり、聖地なのだ。
 それなのにこのあたりにはこの通りの街灯の上部に簡単な説明板が取り付けられている以外は、何のモニュメントも説明板もない。街灯に取り付けられた説明はあまりにも簡単すぎるうえ、この位置ではそれを確認して足を止める人は果たしてどれほどいるだろうか。
 近現代の都市の記録にこれほどまでに無関心で、平然とその記録を破壊する風潮はやめさせなければならない。ヨーロッパの都市のよ
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うに、建物にそこに住んだ著名な人々の顕彰する銘板をはめ込むことはこの国では困難なことは理解できる。しかし、このままでは都市の重要な記録が失われてしまう。京都を日本の映画発祥の地というのなら、今のこの状態は無残としか言いようがない。
 千本座で上映された映画の花形に尾上松之助がいる。目玉の松ちゃんとして国中で愛されたヒーローであった。その彼の映画人としての顕彰碑もどこにもない。賀茂川と高野川の合流点に彼の社会福祉事業への貢献を顕彰して立てられた銅像があるだけだ。彼に止まらない。大河内伝次郎、阪東妻三郎、嵐勘寿郎、片岡知恵蔵や市川右太右衛門等も当然顕彰されるべきだろう。
 千本座の跡は日活の直営館となり、その頃京都の映画文化は最盛期を迎えた。このあたりにはいまはその時代の面影はどこにも残されていない。当時の資料、写真、ポスター、ブロマイドなどを展示する小さな記念館室などがあったらすばらしいことだ。これはよそ者なのに千本通を愛する、物心ついた頃からのチャンバラ映画狂いの男の妄想的提案である。
 京都国立近代美術館で開催されている高橋由一の展覧会を見に出かけた。由一の画業を展示した大がかりな展覧会は、20年前だったろうか、西宮市の大谷記念美術館であって、それも見に出かけている。以前見た時と私の感性はどのように変わったのかも自分で判定したかったし、前回見過ごした点を確認してみたかった。
 高橋由一(たかはしゆいち)(1828ー1894)は幕末から明治初めにかけて活躍した画家で、洋画導入の先駆者とされる。彼の洋画習得の苦悩の過程はともかくとして、教科書にも紹介されている「鮭」「花魁」等数点を除けば、率直に言って、前回の展覧会では美的感銘を受けるような作品はなかったように記憶する。地味な展覧会なのに入場者は予想していた以上に多く、2,3点気に入った作品を発見したのだが、あまりの人の多さにじっくり鑑賞することもならず、気になっていた点だけを確認して早々に会場を出た。
 高橋由一は晩年に当時山形県令(今風にいえば県知事)であった三島通庸(みしまみちつね)に請われて、三島の地方行政の成果を絵にして残している。三島は山形、福島での強引な公共工事を敢行した。特に道路建設によって土地を収用され使役にかり出された県民の反抗に合い、この地域における自由民権運動の発端となった。三島は自由民権運動の弾圧者として歴史に名を留めている。
 今回の展覧会には、三島が依頼した道路工事の記録を作るために由一が書いた膨大なスケッチが展示されている。それらを見ると、主題は東北の山野を貫いて建設される道路であった、風景や労働する人々ではない。由一がどれほどまでに芸術家としての自由と独立性を自覚していたかは知らないが、これらの絵はパトロンの意向に沿って書かれたプロパガンダの材料ではないのか。眺めていて無残な気持ちに襲われた。展示の説明を読むと、由一の側から三島に近づいたらしい。当時の絵画復古運動によって洋画が追い詰められ、三島に頼ったようだ。
 そのことに由一はどのような葛藤の中にいたのだろうか。画家の政治への協力は第二次大戦下で最も醜悪な形態をしめす。多くの画家が戦争画を描いた。最近になって、その絵のいくつかはそれを描いた画家の傑作として高く評価されている。画家たちの異図や戦後の自省に関わりなくである。由一の展示にも芸術と政治の関わりを無視しようとする最近の風潮が反映しているように思われたが、どうであろうか。

2012年10月13日ー久々の千本通散策ー

 今日から千本今出川あたりで止まっていた千本通散策を再開した。診療所のリハビリの帰り道、今出川通から丸太町通まで店を覗きながらぶらぶらと歩いてみた。
 何度も書いたことだが、この通りは京都の歴史を作ってきた通りである。古代から現代に至るまでさまざまな歴史を作る事件があった。それがほとんど保存されていないのだ。このさびれ様にはなんと言うべきだろうか。
 千本通が一条通と交差するあたりから丸太町通までが古代平安京の内裏に相当する。羅城門から内裏まで通じる朱雀大路の終点は千本丸太町あたりまでであった。千本通が朱雀大路と関連づけられるのは、だから丸太町からである。千本通を下がっていくと古代以来の地名に遭遇する。一条通は内裏の北側に接した通りであった。歩道に内裏の北限を示す銘板があるというのでそのあたりを探したが発見できなかった。
 御所が現在の地に移り、応仁の乱で焼土と化してからこの地はおそらく職人たちが住む少々雑然とした地域になったのであろう。秀吉の天下統一と聚楽第築城は京都の景観と都市像を一変させた。最近聚楽第址の発掘が行われ、石組みの城壁が出てきたと新聞が報じていたが、発掘しなくてもこのことは十分に想像できる。天下人が丸腰で屋敷を構えることなどあり得ないし、取り囲む家臣団の屋敷を見下ろす規模と偉容でなければならないからだ。このあたりを歩くと秀吉の時代の痕跡を町名に発見できる。
 京都は室町幕府以来、武士勢力が支配する都に変貌した。それを完成させたのが秀吉であり、徳川の時代にもこれは変わらなかったと思う。築城に対応した京都の大改造が行われ、多くの通りが新設され、消滅した。秀吉の家臣団や大名の屋敷が聚楽第を取り囲むように数多く建てられ、そのまわりを警護の武士たちの居住地域が広がっていた。遊郭で有名になった五番町を含む一番町から七番町までの地域がそれだったと推定できる。
 千本通がこの時代にすでにあったとすれば、少なくとも今出川から丸太町までの部分は屋敷群にその込まれ消失したか、庶民の通行が制限された通りであったに違いない。秀吉が新設した南北に走る七本松通は、下級武士の移動の道であると同時に、千本通の代わりだったのではないだろうか。
 西陣の職人たちがさしたる抵抗もせず立ち退き、通りを差しだしたのは、秀吉が造り出した膨大な仕事の注文であったろう。おそらく京都が経済的に最も栄えた時期だったのではないか。
 これは歴史には素人の私の勝手な想像であるが、このような想像をかき立ててくれるのが、この通りの魅力であると思う。
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   病院の帰り道、龍谷大学大宮学舎の本館で開催されている「近世日本の辺境地事情」という所蔵する稀覯本の展示を覗いた。主として蝦夷地、現在の北海道、千島列島、樺太についての江戸時代に刊行された地誌が中心で、琉球についてもいくつか展示があった。
 この時代の文献には以前から関心がある。辺境の北海道、そのまた最辺境の地に生まれ育ったものとしてこの地がこの国の歴史の中で、またこの国の支配層の意識の中で辺境と理解された来たことの意味をずっと考え続けてきた。位置づけはちがうものの、沖縄や小笠原諸島で生まれ育った人たちにも私と同じ感情がひそんでいるのではないだろうか。
 最近の中国、韓国との領土紛争の中であらためてこの国を支配する人々(けっして国民ではない)の領土・国境認識が問われている。その直近の根源は、泥縄式でアメリカ主導で締結されたサンフランシスコ条約にあることは明らかなのだが、私は江戸時代の支配層の領土・国境認識にさかのぼることも必要だと考えている。そういうことからも、この展示に興味をもったのだが、現在の紛争との関わりについての明確な説明はなく、説明文もその書籍の歴史的意義を十分に説明してくれてはいなかった。かって高校の歴史で学んだ書物を初めて見たと言うだけで、それ以上の収穫はなかった。
 いずれ私の北方辺境理解については書くつもりでいるが、例えば林子平の『海国兵談』も工藤兵助の『赤蝦夷風説考』といった重要文献も新刊書では手に入らず、古書店で探さなければならないのだ。おそるべき後進性ではないか。
 目録から、1786年に刊行された林子平の『三国通覧図説』掲載の北方辺境地図を
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転載させてもらった。樺太はまだユウラシア大陸と血続きであり、北海道は千島列島は地形的理解は不正確だが、かなりの情報を示してくれてはいる。

2012年10月11日ー羅城門再論ー

 先月下旬、京都文化博物館で展示されている羅城門の模型を見に出かけた。現地を発掘したが遺構は
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発見されず、出てきたのは墓石や石仏ばかりであったという。 羅城門は幾度かの倒壊のあと、再建もされず放置され、土台や礎石はすべて貴族の邸宅や寺社の建設に転用されたという。そのため規模を確定できる物的資料は何もない。この都を造営に参画した筈の貴族たちが競って略奪に参加したのだ。倒壊で荒れ果てた址は、都で最も治安のよくない場所となり、おそらく死者もこの地に埋葬されたのであろう。石仏が多く発掘されるのも理解できる。
 展示されている模型は平城京の朱雀門ななどを参考にしたものという。本来の大きさは間口約32メートル、奥行きは約8メートル、高さは約21メートルの二階建と推定されている。この門をくぐったところから始まる朱雀大路(現在の千本通に相当)の幅が約70メートルあったというから、道幅に比べると小さすぎる。だから高さによって都の偉容を示したかったのではないだろうか。この間口に比較しての高さのアンバランスがたびたびの倒壊の原因ではなかったのだろうか。
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 この門の2階に都をまもる毘沙門天が安置されていたという。倒壊のあと拾い出されて東寺に祀られたという。数日前、病院の帰りにその兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりゅうぞう)を拝しに東寺宝物館に立ち寄った。西域の兵士の姿に由来するという等身大の立像は、かっての彩色を想像すると堂々たる守護神の風格を持っていた。この像が羅城門に由来するものかについては確証がないと言うが、私にはこの風格こそが伝承を十分に証明しているように思われた。

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