2013年2月アーカイブ

2013年2月24日ー馬肉ー

  ーロッパの馬肉混入スキャンダルについてコメントしたついでに、馬肉の思い出話をいくつか。
 大学院に進む頃まで私は牛や豚、鶏等の獣肉を食する機会はほとんどなかった。理由は簡単だ。高価だったからである。食していたのはもっぱら魚であった。例外的に鯨肉、馬肉を食することもあるにはあった。鯨は獣肉なのに魚として扱われ、魚屋の店先に並んでいたと思う。漢字を発明した中国人が勘違いしたため、最大の魚として魚の漢字群に入れてしまったのだ。庶民の重要な蛋白源であり、学生時代寮の夕食の献立にはにはたびたびカツレツとして登場した。冷めてしまうととても食べられたものではなかった記憶がある。
 馬肉に初めて遭遇したのは戦後すぐの食糧事情が最悪の時期であった。農耕や交通のために使役されていた馬たちが密殺され、親たちがどこかで手に入れてきた。荷馬車をいて働く馬たちを思い感謝して食した記憶がある。美味とは言いがたかったし、相当の老馬であったのか、すじが多い肉でかみ切るのに苦労した。どういう訳か牛乳をベースにした汁に調理され、「牛馬汁」と命名されていた。馬への感謝の気持ちとともに食してはならいないもの食したことへの後ろめたさとともに思い出すことがある。
 大学に入った頃のことだ。そのまちの繁華街のはずれに「さくら肉」という看板を掛けたすき焼きの店があった。学部3年の頃だったろうか、その店でゼミのコンパがあった。田舎者の私は食べ終えるまでそれが馬肉であることを知らなかった。ひもじかった子どもの頃に食した馬肉と大違いで、やわらく美味ではあった。さくら肉を食したのはその時1回きりだったと思う。どうも働く馬の姿を思い出して食したいという気持ちが萎えてしまうのだ。信州や熊本の郷土料理を出す店では馬刺は定番であるが、どうしても注文する気にはならなかったし、南アフリカで縞馬(ゼブラ)の肉を供されたときも手が出なかった。
 なぜ「さくら肉」というのだろうか、辞書を引くと肉の色が桜色しているからだという。確かに牛肉に比べて淡い赤色をしていたと思う。この命名は牛肉に対抗してのものではなかったのだろうか。牛肉に比べて馬肉ははるかに安価であった。牛肉を食せない庶民が決して安っぽいものではないことを示すための命名ではなかったろうか。生活水準が向上し、高くとも牛肉のすき焼きを食せるようになったせいであろうか、くだんのさくら肉すき焼き店はいつのまにかなくなっていた。

2013年2月17日ー77回目の誕生日ー

 先日77回目の誕生日を迎えた。この年齢になるとさまざまな病とつきあわされるようになる。これはやむを得ないことだ。それとうまくつきあいながらそれなりに充実して生きられるのはうれしいことではある。2001年は大腸癌の手術をした。2011年は頸椎の神経障害で身体がほとんど動かなくなった。10年ごとに大病を患うのであれば、2021年には一体何が待ち受けているのだろうか。将来にいくらかの不安を抱きながらも私は今の充実を喜び楽しんでいる。
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 誕生日を祝って古い写真を一枚披露する。択捉に住んでいた叔父のJさんが兵役の休暇の際に私の兄弟たちと写真館で撮影したものである。写っている私はおそらく1才前だろう。まだ歩けないので叔父の股に支えられてようやく立っている。着ている綿入れの着物、姉たちの服装から見ておそらく冬で、1936年末か翌年1月頃だろうか。叔父は部隊から休暇をもらっても海が時化ているか流氷のために島に帰れずわが家に逗留していたに違いない。中国侵略が本格的になる直前の頃、叔父の表情にも出征兵士の緊張感は感じ取られない。
 私のこども時代の写真は空襲ですべて消失した。この写真は叔父がソ連軍に追われて脱出する際に腹巻きに隠して持ち帰った貴重なものである。

2013年2月7日ー教師の暴力ー

 大阪市立桜宮高校の生徒が部活で顧問の教師から受けた「体罰」を苦に自殺するという事件が起きて以来、「体罰」の是非をめぐって議論が盛んになっている。折も折、女子柔道のオリンピック強化選手に対する監督やコーチの暴行的体罰が内部告発され、いまや国内政治の重要な争点になりつつあるようだ。
 どのような理由であれ、それが教師という特権を利用した暴力の行使であることは否定できない。パワーハラスメントといわれる暴言による抑圧も同様だ。通常の感情の持ち主であれば、暴力をふるわれたことの痛み(場合によっては怪我や生涯残る傷をともなうこともある)と屈辱は忘れられないものだし、ふるった側もその後に襲ってくる虚脱感や悔悟の念は当然のことではないか。少なくとも私は今も暴力に関するこのような感情をいつも思い起こし、気分がふさぐことがある。
 教育の現場での暴力については私はそのうちに自分の体験を書いてみようと考えていた。あの戦争の末期の国民学校(現在の小学校)での兵営的規律の強制と天皇の名において行われた教師の暴力行為についてである。すべての教師が暴力をふるったわけではないが、あの秩序と戦争末期のヒステリーのすさまじさは体験してみないとわからない。『日本経済新聞』に「私の履歴書」を執筆中の馬場彰氏(オンワードホールディングス名誉顧問)はその3回目「集団疎開」(2月3日付)で、疎開生活での軍隊的規律の一端を回想し、「少しでももたついている子どもがいると、容赦なく鉄拳が飛んだ」と書いて、まるで「地獄のような」生活だった書いている。この方は私とほぼ同年代で、この体験は国民学校4年生の時のものと推測される。私の体験も3年生から4年生にかけてのものだ。子どもが教師に些細なことで殴られ、足蹴にされた状況をどうか想像してみて欲しい。
 教師の暴力は敗戦とともに消えた。私の体験では、あの頃の教室は荒れていた。教師との信頼関係が失われていたからである。しかし、教師たちはもはやかってのように手を上げることは出来なかった。それに代わって彼らがやったのは、言葉による暴力、陰湿な仕返しで、ときには陰でこっそりと殴ることもあった。
 なぜそんなにも早く教師の暴力がなくなったのか、戦時下での教師の活動を反省し、教育現場での暴力廃絶を自らすすんで宣言したのだろうか。それともあらゆる暴力的行為を軍国主義の表現であるとしてGHQが禁じたためであろうか。私は後者であったと推定する。暴力をふるった教師たちが謝罪したという話を私は聞いたことがない。彼らは時代のせいにして取り繕ったのだろう。
 教師の暴力、しかも何のためらいも悔悟もなく実質的に是認されている現実を聞くにつけ、暴力によって圧伏しようとする態度を容認する秩序が、形も内容も違うが一貫して生き続けていると考えざるを得ないのだ。
 このことはあらためて私の国民学校体験と関連させて書くつもりだ。それは私の単なる回想に止まることなく、現代的な意味を持つ仕事ではないだろうか。

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