2013年2月7日ー教師の暴力ー

 大阪市立桜宮高校の生徒が部活で顧問の教師から受けた「体罰」を苦に自殺するという事件が起きて以来、「体罰」の是非をめぐって議論が盛んになっている。折も折、女子柔道のオリンピック強化選手に対する監督やコーチの暴行的体罰が内部告発され、いまや国内政治の重要な争点になりつつあるようだ。
 どのような理由であれ、それが教師という特権を利用した暴力の行使であることは否定できない。パワーハラスメントといわれる暴言による抑圧も同様だ。通常の感情の持ち主であれば、暴力をふるわれたことの痛み(場合によっては怪我や生涯残る傷をともなうこともある)と屈辱は忘れられないものだし、ふるった側もその後に襲ってくる虚脱感や悔悟の念は当然のことではないか。少なくとも私は今も暴力に関するこのような感情をいつも思い起こし、気分がふさぐことがある。
 教育の現場での暴力については私はそのうちに自分の体験を書いてみようと考えていた。あの戦争の末期の国民学校(現在の小学校)での兵営的規律の強制と天皇の名において行われた教師の暴力行為についてである。すべての教師が暴力をふるったわけではないが、あの秩序と戦争末期のヒステリーのすさまじさは体験してみないとわからない。『日本経済新聞』に「私の履歴書」を執筆中の馬場彰氏(オンワードホールディングス名誉顧問)はその3回目「集団疎開」(2月3日付)で、疎開生活での軍隊的規律の一端を回想し、「少しでももたついている子どもがいると、容赦なく鉄拳が飛んだ」と書いて、まるで「地獄のような」生活だった書いている。この方は私とほぼ同年代で、この体験は国民学校4年生の時のものと推測される。私の体験も3年生から4年生にかけてのものだ。子どもが教師に些細なことで殴られ、足蹴にされた状況をどうか想像してみて欲しい。
 教師の暴力は敗戦とともに消えた。私の体験では、あの頃の教室は荒れていた。教師との信頼関係が失われていたからである。しかし、教師たちはもはやかってのように手を上げることは出来なかった。それに代わって彼らがやったのは、言葉による暴力、陰湿な仕返しで、ときには陰でこっそりと殴ることもあった。
 なぜそんなにも早く教師の暴力がなくなったのか、戦時下での教師の活動を反省し、教育現場での暴力廃絶を自らすすんで宣言したのだろうか。それともあらゆる暴力的行為を軍国主義の表現であるとしてGHQが禁じたためであろうか。私は後者であったと推定する。暴力をふるった教師たちが謝罪したという話を私は聞いたことがない。彼らは時代のせいにして取り繕ったのだろう。
 教師の暴力、しかも何のためらいも悔悟もなく実質的に是認されている現実を聞くにつけ、暴力によって圧伏しようとする態度を容認する秩序が、形も内容も違うが一貫して生き続けていると考えざるを得ないのだ。
 このことはあらためて私の国民学校体験と関連させて書くつもりだ。それは私の単なる回想に止まることなく、現代的な意味を持つ仕事ではないだろうか。

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このページは、kitanihitoが2013年2月 7日 20:42に書いたブログ記事です。

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