2013年4月アーカイブ

2013年4月19日ー千本通下長者町通西入ルー

 京都の通りは時代ごとにさまざまに名を変え手を加えられていて、古代以来のこのまちの歴史の反映を地図を片手に歩くびは面白いことこの上ない。健康のための散歩として始めた千本通散策もそのような歴史の痕跡を楽しみながら続けられている私の重要な日常の営みの一つである。
 京都御苑の西から始まる通りに上長者町通、下長者町通という名の東西に走る通りがある。この通りにはある時期「長者」というにふさわしい階層の人々が住んでいたことでその記憶が名前に残されている。この東西の通りがもともとどこまで続いていたのかはわからない。豊臣秀吉が聚楽第を築城し、大名や家臣の屋敷が配置された時代には千本通もこの東西の通も消失し、聚楽第破却のあと復活したものと思われる。
 この通を歩いてみたいと考えたのは、千本通まではほぼ直線に道が延びているのに、千本通から西は道は大きく折れ曲がり、京都の通にしては変わっているからだ。
 今日診療所の帰りに千本通りを下ってみた。この辺りは急な坂道で下がるのは楽に歩ける。桓武天皇が平安京をこしらえたとき風水によって設計したとされる。そのために、もっと平坦で条件の良いところはあったのに、このような急な斜面に内裏をこさえたのである。中立売通をすぎると仁和寺街道と交差する。仁和寺街道はまっすぐ西に延びているのに、その南の下長者町通は千本通を越えるとすぐに千本日活というポルノ映画館に突き当たり、ここで終わている。この辺りはかって五番町遊郭があった辺りで、かっての妓楼とおぼしき建物がまだ残っている。
R0012367.JPG 少し下がって下長者町通を西に折れると、すぐ
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に通りに突き当たる。この辺りの町名は福島町といい、秀吉の家臣福島正則の屋敷があったのだろう。突き当たりを北に上がって次の角から上長者町通が再開する。五番町の南側にあたり、焼肉の江畑がある。江畑は妓楼の一階に小料理屋として開業し、後に焼肉屋に変わったそうだ。この建物、往時の妓楼の雰囲気を残している。少し西に進むと六軒町通につきあたり、そこを再度北に上がり次の角を左折すると再び下長者町通がはじまる。この辺りからは長屋が続く通りで、消防自動車も入れぬような細い路地が多い。
 下長者町通りは七本松通、相合図子通と交差して御前通に突き当たって終わる。おそらくは市域の拡張に合わせて市民がこの名を選んだのであろう。「長者」の通がこの辺りになると遊郭の通りとなり、消防自動車も入らぬ長屋の町につながっているというのは、なんとも面白い。
R0012381.JPG 散歩は御前通を北に上がって仁和寺街道を左折、紙屋川を渡って西大路通に至り、くたびれたのでここでやめた。別の機会に西から散歩を始めてみようと思う。面白い発見があるに違いない。この辺りは平安京造営によって京都の中心であった。平安京が破却されてから荒れ果て、秀吉が聚楽第を築城して再度中心として復活する。秀吉が構想し造営した京都のまちの痕跡は今も色濃く残されている。紙屋川を渡る手前に御土居が築かれていたのだが、歩いてみてもその痕跡はない。七本松通は聚楽第の構えの西側を走る道で、秀吉がこしらえたものだ。多くの寺がこの道辺りに配置されているのは、これも秀吉の差配の名残であろう。この通の東側に一番町から七番町まで、京都にはめずらしい町名が続く。聚楽第防衛の武士たちの屋敷があったところと言う。それをすぎて大名、家臣団の屋敷があった。長者町通はこの構えの上を通っているのだから、この複雑な折れ曲がりは往時を反映してのものかもしれない。あれこれ考えていると、次回の散歩も楽しみに思えてきた。

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