2013年11月アーカイブ

 家を出てすぐ、烏丸通りをへだてて東側に大きな民家があった。この辺にはまだわが家も含めて築80年以上の木造家屋がまだかなり残っている。この家も工事用のテントが張られると、あっという間にブルトーザーで家が破壊された。何本かの庭木が見えたが、その姿も見えなくなった。ブルトーザーによって暴力的にあの世に送られたのだ。慈しんで育てられた命ある樹の生涯の終わり方としてはあまりに悲しい光景だった。
 いま、京都のまちの方々でこのような悲しい光景が目撃される。アベノミクスを背景に地価が上がり始めたようだ。高齢化が進み、家を手放す人も増えているのだろう。あちこちで民家の破壊が進んでいる。
 戦争に比べたらこの程度の破壊はまだ許されると思う人も多いかもしれない。空襲や砲撃は瞬時にまちを焼き尽くし、殺戮をほしいままにする。失われる樹の命をいとおしむ余裕などない。残酷なことではないか。
 京都はこの殺戮をまぬがれた、しかもアメリカの善意によってまぬがれたとする根拠のない話がいまだに流布している。京都観光に訪れる人びとの交わす会話に時々その種の話が混じっている。しかしながら、京都の最も凄惨な戦争被害は1945年に、本土決戦を叫ぶ軍部が京都に加えたまち破壊だ。空襲時の延焼を防ぐための疎開と称して強制的に破壊されたまちの跡は、堀川通、御池通、五条通というあのただ幅広いだけの、無機質な自動車のための道路になっている。
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 堀川通を観察すると、堀川の西側に通りが一本あったはずで、これは今の東側の歩道に相当すると思われる。西側にある現在の堀川通商店街の前の通りも昔の通りかもしれない。そうするとあの広い車道に存在した町屋が南北にわたって2列も一挙に引き倒されてのだ。
 私は京都に来てはじめて空襲と軍部によるまち破壊の事実を知った。町屋の破壊とともに丹精込めて育てられた庭木も引き倒された。この国の人は樹にも精霊、こだまが宿ると信じている。そうだとすれば、疎開通には仕事場と住居を突然破壊された西陣の職人たちの怨念とともに、いわれなく殺戮された庭木のこだまが漂っている。
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 堀川通あたりを歩くとき、私はいつもそのように想像している。この通の今の姿は、樹々を無残にも殺戮する再開発への警鐘ではないだろうか。(2013年11月26日)

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