2014年5月アーカイブ

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 Pさんの隣人は、あと5年でこの職人世界は京都から消えると断言する。その根拠は何だろうかと考えた。Pさんも隣人もすでにかなりのご高齢で、後継者もおられない。とすれば、彼らが最後の世代なのだ。彼らが体力の限界を感じて引退を決断した時がまさに衰滅の時なのだ。その時にはこの織機はどうなりますか、もう使い道はありませんから、スクラップになるだけですよ。この手入れの行き届いた織機がただの屑になってしまう、なんとももの悲しい会話ではあった。
 Pさんの隣人の話では、帯を織る力織機は京都市内で稼働しているのは500台くらいで、これが完全に衰滅すれば、高級帯地を織る手機が残るだけになるという。
 西陣織工業組合が発表している「西陣生産概況」をネットで覗いてみた。最新の平成24年(2012年)版によると、帯地を織る小巾力織機の設置台数は地区内(京都市とその周辺)で986台、地区外で1,510台、合計2,496台となっている。この数字は設置台数であって、全部が稼働しているとは限らない。Pさんのところも、お隣もそれぞれ2台あるのに動かしているのは1台だけだった。このことから見ても、設置台数と500台しか動いてないというPさんの隣人のいう数字との差は納得できる。地区外の設置台数はおそらく丹後地区への展開を示したものであろう。この展開が市内の衰滅の一つの重要な原因ではあったが、最も重要な原因は日本人の和装離れにある。広巾を織る力織機であれば洋服生地や室内装飾に展開もできるだろうが、小巾の織機にはもはやチャンスはないように思われる。
 ついでに、『西陣生産概況』によって衰滅の現状をもう少し数字で示しておこう。1975年(昭和50年)を100として、西陣全体の出荷額は2012年(平成24年)には16.4に激減した。特に帯地は惨憺たるものだ。同じ時期に本数で8.8、出荷額で11.8に激減している。全機種の設備台数でみると、1975年には地区内外あわせて29,440台だったものが、2012年には4,266台に、14.5にこれも激減している。地区内の小巾力織機についてみると、1975年には19,918台、ほぼ2万台あったのに、2012年には2,761 台しかない。これは衰滅としか表現しようがない。私はいまその過程に立ち会っていることになる。
 これを書きながら、職人であった父の生涯を考えている。木造船を建造する仕事は地域で尊敬される職種であった。けっして豊かとはいえなかったが、子どもたちを幼稚園に通わせ、娘を高等女学校に進学させる経済的余裕もあった。木造船工場は戦争末期には軍需産業に指定されていたから、そこに雇用された父は徴兵を免れた。生活必需品の加配もあり、酒もたばこもやらない父に対する加配は近所への贈り物に変わった。戦争が生活を一変させた。あんな小さなまちにまで空襲があり、すべてを失った。ソ連による北方領土の支配によって、あの島々での需要が一切なくなった。父の仕事は当然激減した。追い打ちをかけたのが、プラスチックや鉄の船の登場であった。船大工という職種が消えさるのと父の死とはほぼ同じ時期であったと思う。
 私の手許には父の仕事思い出させてくれるものは何も残っていない。父が大事に使っていた道具もすべてどこかに消え失せた。父から学んだ職人気質と職人仕事に対する敬意が残っているくらいだろうか。それだけに、失われていくものに対して私の哀惜の情は募るばかりである。(2014.5.26)
 散策をどこから再開しようかと考えていた時に、診療所でPさんと知り合った。家の仕事場で帯の裏地を織っているという。無理を言って仕事場を見せてもらうことにした。
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 職人の仕事場を拝見する時には、私はいつも熱くなる。私の父は船大工、木造の漁船を建造する職人であった。少年時代から高校を卒業して大学に進むまで、私は父の仕事を手伝い、父の仕事を見ながら育った。私は結局父の仕事を継ぐこともなく郷里を離れたのだが、学者と大学教師という職人とは異質の世界に迷い込んでしまい、いまだに模索が続いているのだが、多くのことを父から学んでこれまで生きてこれたと思っている。このことはまたいつか書く機会が与えられるならば、私の心情のあるところを表現したいと考えている。
 ところでPさんの仕事場の話に戻ろう。
 手織機は何度か見せてもらったことがあるが、力織機の動いているのを見るのは初めてのことだ。以前は工場だった建物を五軒長屋に改造したのだそうで、天井の梁が長屋全体にと
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おっているという、普通の長屋にはない構造になっている。それぞれの区割りを買った人はみな賃機の仕事をすることが予定されていたので、それぞれに織機をいれて仕事をする部屋がしつらえられているという、不思議な長屋ある。
 玄関を入って一番の奥の部屋が仕事部屋になっていた。2台の織機が設置され、すれ違う余地などなく、二人が背中合わせで立って作業するのがぎりぎりという広さであった。景気のよい時はご夫婦で仲良く背中合わせで織られていたのだろう。それにしても狭い部屋
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での機の響きは大きく、機械が出す熱も部屋に充満して夏の仕事は大変だったろうと想像する。かって和装産業が活況を呈していた時は、この長屋全体の織機の音が合わさって、地域全体の響き合流していた。地場産業を持つ都市ではどこででも響いていたはずだが、西陣の響きはこの京都にまちを特徴づけるものだった。それは京都近代の歴史の響きであり、繁栄の証であった。いま西陣を歩いてもこの響きはか細く、しかも滅多に聞こえてこない。
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 帯の裏地とはいえ、表地を引き立たせるのに十分な美しさである。織元の下で縫い合わされる表地は想像できないのだが、できあがった帯でこの裏地がどのように映えるのか一度見てみたいものだ。
 美しいものを織り上げる仕事場なのだから、機械の整備もいきとどき、よく磨かれているようにみえた。狭い空間のなかに置かれるべきところに道具も原料も配置されている。隣の家の仕事場も拝見させて頂いたが、その整頓ぶりに感服させられた。
 父の仕事場を思い出していた。父の作る船は完璧で美しく装飾が施されていた。道具は使いやすいところに配置され、一見すると雑然としているが、配置に秩序があった。仕事がいつ舞い込んでも対応できるように道具の手入れを怠らなかった。いつも鉋や鑿を研ぎ、鋸の目立てを欠かさなかった。使いやすいように必要なものを配置する、必要な道具はいつでも使えるように手入れをしておく、一見雑然とした部屋にも秩序を維持しておく等々、父の職人的規律から私も自分の仕事場のありようについて学んでいるつもりだ(続)。(2014.5.20)

千本・西陣散策再開

 寒い季節も終わり、散策に快適な時期になった。去年は神経痛などで体調がもう一つだったので、続けていた千本通散策を自重していたのだが、再開したい気持ちが久しぶりに高ぶり始めた。
 リハビリに通う診療所が千本五辻あたりにあり、帰り道に健康回復のための散歩道としてこの通りを選んだのが始まりなのだが、この通りの多様な風景と人間関係にすっかりはまり込んでしまい、どこかで終わりにしようという気持ちはすっかり消え去ってしまった。はじめは通りを南北に歩きとおしたら終いにするつもりだったが、東西に交差する細道に入り込んでしまい、いつのまにか西陣をのぞきまわる散策となってしまった。歩いているうちに、妙な言い方だが西陣という衰退する地域の姿に魅せられてしまっている。
 京都というまちは、ここに居を構えているとはいえ、私にとって、かって学問の向上を目指して遊学した数々の土地と同じように異邦の地に思われる。まして西陣は京都に住みながらほとんど訪れたことのない場所なのだから、おそるおそる家の中をのぞきこむ異邦からの観光客のような気持ちにもなる。
 しかしながら、私のこのような姿勢でも意味のあることだと思う。このまちに生活するものとしての視点を学問するものの視点に昇華させてこの衰滅過程を観察すれば、異邦人であっても新しい発見が可能かもしれない。
  このあたりを歩いていると、かってアナトリアや地中海沿岸を旅した頃を思い出す。まちや地域がそこに住んだ人びとの歴史が層をなしていることが観察され、そのことがその都市や集落の魅力となっている。人が生き続けなお生きている証でもある。京都のこのあたりの魅力もそこにあるように思われる。桓武天皇による平安京造営、応仁の乱に始まる騒乱の時代、秀吉の聚楽第築城と都の改造、二条城を中心にする徳川の支配、維新の動乱と新撰組、そしてそのうえに家内工業を基礎にする西陣織工業の繁栄と衰退、それらが層をなしてこの地域を彩っている。
 いま進んでいる過程は、無機質のコンクリート建造物でこの重層化されて示されている人間の営みを覆い尽くし、消し去る行為ではないのか。そのことによって歴史のない都市に作り替える愚行をこのまちでやってはならない。(2014.5.11)

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