衰滅する職人世界に立ち会うー2014年4月25日の千本・西陣散策(2)ー

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 Pさんの隣人は、あと5年でこの職人世界は京都から消えると断言する。その根拠は何だろうかと考えた。Pさんも隣人もすでにかなりのご高齢で、後継者もおられない。とすれば、彼らが最後の世代なのだ。彼らが体力の限界を感じて引退を決断した時がまさに衰滅の時なのだ。その時にはこの織機はどうなりますか、もう使い道はありませんから、スクラップになるだけですよ。この手入れの行き届いた織機がただの屑になってしまう、なんとももの悲しい会話ではあった。
 Pさんの隣人の話では、帯を織る力織機は京都市内で稼働しているのは500台くらいで、これが完全に衰滅すれば、高級帯地を織る手機が残るだけになるという。
 西陣織工業組合が発表している「西陣生産概況」をネットで覗いてみた。最新の平成24年(2012年)版によると、帯地を織る小巾力織機の設置台数は地区内(京都市とその周辺)で986台、地区外で1,510台、合計2,496台となっている。この数字は設置台数であって、全部が稼働しているとは限らない。Pさんのところも、お隣もそれぞれ2台あるのに動かしているのは1台だけだった。このことから見ても、設置台数と500台しか動いてないというPさんの隣人のいう数字との差は納得できる。地区外の設置台数はおそらく丹後地区への展開を示したものであろう。この展開が市内の衰滅の一つの重要な原因ではあったが、最も重要な原因は日本人の和装離れにある。広巾を織る力織機であれば洋服生地や室内装飾に展開もできるだろうが、小巾の織機にはもはやチャンスはないように思われる。
 ついでに、『西陣生産概況』によって衰滅の現状をもう少し数字で示しておこう。1975年(昭和50年)を100として、西陣全体の出荷額は2012年(平成24年)には16.4に激減した。特に帯地は惨憺たるものだ。同じ時期に本数で8.8、出荷額で11.8に激減している。全機種の設備台数でみると、1975年には地区内外あわせて29,440台だったものが、2012年には4,266台に、14.5にこれも激減している。地区内の小巾力織機についてみると、1975年には19,918台、ほぼ2万台あったのに、2012年には2,761 台しかない。これは衰滅としか表現しようがない。私はいまその過程に立ち会っていることになる。
 これを書きながら、職人であった父の生涯を考えている。木造船を建造する仕事は地域で尊敬される職種であった。けっして豊かとはいえなかったが、子どもたちを幼稚園に通わせ、娘を高等女学校に進学させる経済的余裕もあった。木造船工場は戦争末期には軍需産業に指定されていたから、そこに雇用された父は徴兵を免れた。生活必需品の加配もあり、酒もたばこもやらない父に対する加配は近所への贈り物に変わった。戦争が生活を一変させた。あんな小さなまちにまで空襲があり、すべてを失った。ソ連による北方領土の支配によって、あの島々での需要が一切なくなった。父の仕事は当然激減した。追い打ちをかけたのが、プラスチックや鉄の船の登場であった。船大工という職種が消えさるのと父の死とはほぼ同じ時期であったと思う。
 私の手許には父の仕事思い出させてくれるものは何も残っていない。父が大事に使っていた道具もすべてどこかに消え失せた。父から学んだ職人気質と職人仕事に対する敬意が残っているくらいだろうか。それだけに、失われていくものに対して私の哀惜の情は募るばかりである。(2014.5.26)

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このページは、kitanihitoが2014年5月28日 17:15に書いたブログ記事です。

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