2015年1月アーカイブ

 新年の抱負などと気負って書くつもりはない。数年前、いま体内に抱えている病に倒れたとき、私は打ちのめされた。もしこの病が死に至る病、あるいはベットに縛り付けられて字が書けなくなるようなものならば、残された限りある生をどのように生きるかを考えなければならないと思った。この不安はリハビリと体力維持の努力によって何とか抑制することができているが、あの時から私の気分のなかで区切りがついたように思われる。
 「余生」という表現がある。盛りを過ぎた後の残りのいのちの意味という。経営者とかサラリーマンの場合、退職によって否応なしに「余生」が始まる。学者の場合にこれはは当てはまらないだろう。肉体的には衰えていくにしても、知的営みは死ぬまで続くのだから、「余生」で線引きすることは適当ではない。
 そうはいいながら、病を得て私のこれからの生は不確かなものになった。時々、今の生は私の生涯に与えられた「おまけ」ではないかとさえ思う。その一方で、今の時代の激動を見聞するにつけ、新しい時代を出来るだけ永く生きて書き記したい気持ちは募るばかりだ。その相克のまっただ中で、いかに稚拙なものであれ、私は書けることの喜びとこれまでに体験したことのない高揚感にひたっている。
 しかし、衰えてゆく体力に合わせて多くのものをそぎ落とさなければならない。集会やデモには原則として参加しないことにした。現実の政治の個別の政策決定をめぐる争いにかかわることも、それを論評することもしないと決意した。東北大災害、原子力発電とエネルギー政策、気候変動が引き起こす自然災害、貧困問題、憲法改正、集団的自衛権、特定機密保護法、市民的自由の侵害に対する関心も怒りも強まるばかりだし、書く意欲も失せてしまったわけではない。持続的に関わる体力が衰えた今、それらの課題を関心を持ち寄り添っていくので精一杯だ。
 さらに言えば、私が学生時代にしたような、あまり考え抜かれていない批判的言辞や他人から借用した決めつけ言葉を投げ合うのにはとうていついて行けないし、聴くに堪えないような乱暴な言葉の交換の輪に入ることは躊躇せざるを得ないのだ。私の思考の仕組みと速度とあまりに違いすぎるのだ。
 ただ、沖縄だけは例外にしたいと思っている。この地の闘いには特別の思い入れがあるだけに、ずっと寄り添っていきたい。辺野古基地闘争は本土のメディアではまったくといってよいほど取り上げられない。憲法を守れと叫び主張する人たちですら沖縄の闘争に対してあまりに冷淡であるように思われてならない。国民的課題であるという認識がないのではないかとさえ思われるのだ(注)。
 政治的争いについて行けなくなった老いぼれがなすべき最重要の仕事はなんだろうといつも考えている。いつの時代でも学者に求められたのは、過去の歴史を総括し、進みつつある現在と将来を洞察する仕事であったと思う。それだからこそ彼らの仕事は時代を超えてるねに敬意を払われてきたのでははないだろうか。
 学者に課されたこの課題に取り組むことは、現代のように課題が地球規模に拡大したこれまで体験したことのない錯綜した関係に取り組むことは、個人的能力に余ることは言うまでもない。しかし、たとえ部分的に切り取られた関係に関するものであっても、十分に考え抜き、普遍化しなければならない。これまでにいくつかの問題点について電子書籍として、あるいはブログ上でまとめて公表してきたが、これからも必要なときに、自身の学者としての洞察力に関わって立場を明らかにして生きたいと思う。
 私の筆力はますます遅く弱々しくなり、取り上げる課題もますます限られていく。歴史的遺物と化したような老いぼれとしてではなく、今を生きる学者として書き続けたい、自由を守れという世論と運動は世界中いたるところで高まっている。その動きにも励まされて、このくにの閉塞状況にたとえ小さなものであっても風穴をあけられるように書き抜きたいものだ。

 (注)私の思い入れは昨年発表した次の論考に書き込んだ。「沖縄独立問題とこのくにの民主主義のかたちー北海道独立論に展開させて考えるー」『リーラー「遊」』vol.8、文理閣、2014年9月、所収。この論考の原稿はブログに収録してある。www.focusglobal.org/kitanihito_blog/k/2012/01/post-8.html
(2015.1.10)

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