2015年2月アーカイブ

79才

 先日79才になった。とりあえずの目標にしている80代に入るのももうすぐだ。この年齢まで生きられるなどと青年の時代には想像できなかった。見倣うべき人もいないかった。それだけに今生きていることのさまざまな体験は実に新鮮で、好奇心はますます高まる感じがする。これほどまでに新しく友情が芽生え、支え合う関係が発展して生きられるとはすばらしいことではないか。
 老いてゆく生き方は結局のところ自分自身で道を切り開き、設計して行く以外にないし、あらかじめ計算しようがない。いったいどれだけの体力と知力が残されているのか、衰える体力と知力をあらかじめ知ることはできないからだ。しかし、70代を何とか生き抜いて80代を迎えようとする予感は決して悲観的な先細りのものではない。楽観的な予感がその通りに進む保証などないことはもちろん承知している。
 「よろよろ歩き」の原因の一つともなっていた重いリュックサックも軽めのに変えた。友人が誕生祝いに帽子を贈ってくれた。いままでのイメージを変えたいと期待している。外見はともかく、知力はどうだろうか。好奇心はどうだろうか。最近書くものは短くなり、論理も乱雑になってきたような気がするが、果たして挽回できるだろうか。不安もあるが、同時に変わることへの期待も膨らんでくる。楽しみなことだ。(2015.2.26)
 多くの友の消息が途絶え、新聞に掲載される確認された死亡者名簿を毎日食い入るように眺めていた。名前が日を追うごとに確実に増えてゆく。不安が募る時間であった。探している友人の一人にTがいた。彼は幸運にも生き延びていた。震災の記念日を迎えるたびに、彼を探し当て、瓦礫に中で再会した時のことを思いおこす。
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 Tは関西に住む私の中学、高校時代の数少ない同級生の一人であった。彼の家庭も私同様に貧乏で、内地の大学を目指すような状況にはなかったのだが、大学進学を望んでいたと思う。私は怖いもの知らずで、家庭の事情も顧みず大学進学に突き進んだのに比べ彼は慎重であったようだ。送られてきた同窓会名簿に藤沢市で教員をしているとあるのに驚いた。名簿の住所と勤務先がいつのまにか神戸市のSタクシーに変わっていた。
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 なかなか訪ねる気になれなかったのは、彼の半生の屈折の意味を問いたくなかったからだろう。意を決して神戸の社宅に彼ら夫婦を訪ねたのは、震災の前年だったろうか。社宅は木造モルタルの2階建で、彼らは2階に住んでいた。
 Sタクシーの車庫に避難していた彼は、早速社宅の跡に案内してくれた。以前訪ねた建物は1階が完全につぶれ、彼は2階に住んでいたので助かった。1階に住んでいた同僚たちの多くが下敷きになって亡くなったことなど淡々と話し
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てくれた。彼はすべてを失った神戸を去り藤沢の子どもたちの許に帰っていったが、まもなく癌で逝ったと伝えられた。神戸で九死に一生を得たのだから、長命でいてほしいと願っていたのだが、残念なことであった。いまあの時の写真をとりだして押しつぶされた社宅の前に立つ彼の姿を見ると、どことなく寂しげな雰囲気が感じ取られる。この場所には彼の友人たちの多くの死があった場所であり、自身も不治の病に冒されていることをかんじはじめていたのかもしれ
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ない。
 悲劇の重みを死者の数や破壊された家屋の数で評価してはならない。それぞれの背後にそれぞれの人生の悲哀がある。その数字の周りに九死に一生を得たとはいえ生の道筋を狂わされた多くの人がいる。そのことに思いをはせるべきなのだ。(2015.2.20)

阪神・淡路大震災から20年

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 1995年1月17日の早朝、突き上げるような激しい揺れで目が覚めた。北海道に育って地震を多く体験してきたから、揺れが意味するものはすぐに理解できた。近くで大きな地震が起きたことは明らかだった。今のテレビをつけ、夜が明けるのに合わせて映し出される神戸の惨状に戦慄した。
 あの日以来、社会科学者として何が出来るのかを考え続けている。一市民として罹災者に寄り添うことは当然のことだ。義援金をどれだけ出したか、ボランティアとして参加したか、これも
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重要なことではある。学者としてはそれでは終わらない。
 震災からかなりたってからのことだったと思う。JR東海道線が住吉まで開通したと聞いて、現地に出かけてみた。道路は救援車が通れるように片付けられ、瓦礫の処理も始まってはいたが、惨状は目を覆うばかりであった。つぶれた家屋とその瓦礫の山を見て、そこに多くの死があり、そこから多くの家族の不幸が始まったことを思った。廃屋や廃墟にはどこでも不幸な
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死の物語が潜んでいる。
 あの頃、私の関心は地球環境問題に向かい始めていた。人間が技術進歩によって生態系の頂点に君臨し、地球を管理していると考えることなど慢心以外の何物でもない。経済学の議論を地球の生態維持の視点から相対化することが必要ではないか、公共財をそれ自体として肯定することは間違いではないか、考え直さなければならないと考え始めていた。神戸の惨状はそのことを私に強く訴えていたと思う。私はま
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だそのときに突きつけられた課題に答えを出せないでいる。  
 東灘区のあたりだったろう
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か、救援活動の邪魔にならぬようにそっと小さくなって歩いていた。(2015.2.12)

【後記】このエッセーは先月17日前後に発表する予定だったが、緊急入院のため遅れてしまった。
  1月17日、風邪をこじらせたのか発熱で身体を維持できなくなり、救急車を呼んで入院とあいなった。病名は気管支炎。10日間救急病院で静養し、熱も下がり炎症も消えたようなので退院した。
 自宅静養ということで何もせずにじっとしているのもつらいことだが、なんとか咳込みを押さえることが出来たので、少しずつ字を書きコンピュータに向かい始めている。風邪を甘く見てはいけない、まだ若いから風邪など平気という態度は改めなければならない、今度のアクシデントはよい教訓となった。
 その矢先の後藤健二の死のニュース、これには打ちのめされ、気分は落ちこむばかりだ。日常の政争に関わって議論に加わることは、極力避けたいと決意してきた。彼を死に至らしめ、その死を巧みに利用する政争をめぐって飛び交う情報や評論の奔流にはとてもついていけない。静かに自分のテンポで自分の生のあり方とかかわって考え、この落ち込みと決着をつけたいものだ。(2015,2.5)

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