罹災したTの思い出ー阪神・淡路大震災から20年ー

 多くの友の消息が途絶え、新聞に掲載される確認された死亡者名簿を毎日食い入るように眺めていた。名前が日を追うごとに確実に増えてゆく。不安が募る時間であった。探している友人の一人にTがいた。彼は幸運にも生き延びていた。震災の記念日を迎えるたびに、彼を探し当て、瓦礫に中で再会した時のことを思いおこす。
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 Tは関西に住む私の中学、高校時代の数少ない同級生の一人であった。彼の家庭も私同様に貧乏で、内地の大学を目指すような状況にはなかったのだが、大学進学を望んでいたと思う。私は怖いもの知らずで、家庭の事情も顧みず大学進学に突き進んだのに比べ彼は慎重であったようだ。送られてきた同窓会名簿に藤沢市で教員をしているとあるのに驚いた。名簿の住所と勤務先がいつのまにか神戸市のSタクシーに変わっていた。
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 なかなか訪ねる気になれなかったのは、彼の半生の屈折の意味を問いたくなかったからだろう。意を決して神戸の社宅に彼ら夫婦を訪ねたのは、震災の前年だったろうか。社宅は木造モルタルの2階建で、彼らは2階に住んでいた。
 Sタクシーの車庫に避難していた彼は、早速社宅の跡に案内してくれた。以前訪ねた建物は1階が完全につぶれ、彼は2階に住んでいたので助かった。1階に住んでいた同僚たちの多くが下敷きになって亡くなったことなど淡々と話し
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てくれた。彼はすべてを失った神戸を去り藤沢の子どもたちの許に帰っていったが、まもなく癌で逝ったと伝えられた。神戸で九死に一生を得たのだから、長命でいてほしいと願っていたのだが、残念なことであった。いまあの時の写真をとりだして押しつぶされた社宅の前に立つ彼の姿を見ると、どことなく寂しげな雰囲気が感じ取られる。この場所には彼の友人たちの多くの死があった場所であり、自身も不治の病に冒されていることをかんじはじめていたのかもしれ
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ない。
 悲劇の重みを死者の数や破壊された家屋の数で評価してはならない。それぞれの背後にそれぞれの人生の悲哀がある。その数字の周りに九死に一生を得たとはいえ生の道筋を狂わされた多くの人がいる。そのことに思いをはせるべきなのだ。(2015.2.20)

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このページは、kitanihitoが2015年2月21日 12:49に書いたブログ記事です。

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