2015年5月アーカイブ

パンの耳

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 先日せんべいについて書いてからずっと「ひもじさ」について考えていた。ひもじいという状況は貧困の最悪の形である。山中や海岸で自足の生活を送っている人はいざ知らず、貨幣経済にどっぷりと漬からされている現代の都市生活者の場合には、お金が入ってくる可能性がなくなったら人は生活保護その他の社会的扶助を申請するか、それが不可能なら餓死を選ぶか犯罪に走るか、それしか選択肢はない。
 私の戦後の少年時代では、ひもじさは、「闇」で食料を入手できる人は例外として、あらゆる人に共通の感覚であった。我慢しなければならなかった。補ってくれたのは地域の相互扶助であり、家庭内での自助努力であったと思う。今の時代の都市生活にはそれがない。
 せんべいを囓りながら思い出そうとしていたことがある。南部せんべいを焼くと割れや焼きすぎ等の不良品が出るし、耳の部分の不要なものもあったはずだ。あれはどうしていたのだろう、と考えていた。記憶には残っていなかった。多分、タダで提供されていたのではないかと思う。余さず食するという習慣とともに、地域の相互扶助の重要な形であったと思う。
 千本今出川の交差点近くに大正製パン所というパン屋さんがある。名前の通り大正時代に開業した店だ。診療所の帰途、昼食のためのサンドウィッチを買いに時々立ち寄る。数年前ここでパンの耳を発見した。サンドウィッチを作るときに切り落とされる端の部分だ。一袋30円で、ダイキンは東北大震災の募金にと訴えていた。数日前、覗いたところまだ「パンの耳」の袋はあった。買いに来るのは学生ですかと問うと、いやいろいろな人が来ますよと返事が返ってきた。
 学生時代のことである。繁華街にHという名の喫茶店があった。地元では有名な店で、コーヒーの外にサンドウィッチも有名だった。学生寮での暮らしはひもじさを耐えることが中心だった。
 寮の代表が時々この店でパンの耳を大きな袋で買ってくる。みな貧乏だったから、こんな「高級」な店に入ることはおろか、コーヒーやサンドウィッチとは無縁の暮らしが続いた。パンの耳を囓って空腹を満たすことは、決して貧困の姿ではなかった。そこにはいつも地域の相互扶助があり、家族や仲間の間での分け合いがあった。
 30円を支払ってパンの耳を買い求める人は、今はどのように自分自身の境遇を感じ取っているのだろうか。
 腹が空いていたし、貧乏だと感じていた。あのころの感覚は抜け出せないであがく貧困の状態とは違うと思う。最近はやりの「格差」という言葉では、一体貧困とは何だろうか、すこし考えてみたくなっている。
(2015.5.13)

せんべいを囓りながら中学生の頃を思う

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 Tさんから菓子が届いた。京菓子に満足している私のところになぜまた北海道のはずれのちっぽけなまちの菓子など送ってくれるのかといぶかりながら小包を開けてみた。せんべいが出てきた。直径20センチあまりの円盤型のせんべいである。袋には「根室銘菓 オランダせんべい」とある。どうしてオランダなのか。あのまちは歴史的にも現在もオランダとは何の関係もないはずだし、オランダにこの種の菓子があったかどうか、ヨーロッパ滞在で得た私のささやかな知識には見いだせない。
 齧ってみた。せんべいといいながら、香ばしさもなく柔らかい。何かしら郷愁を感じさせ、思い起こされることがあった。袋を見ると、昭和25年創業とある。1950年、私が新制中学2年の頃だろうか、製造元の住所は私がその頃住んでいた家近くではないか。南部せんべいを焼く店が近くにあり、この種の円盤型も焼いていたような気がする。食べながらグーグルマップの写真を検索してみた。菓子屋は確かにあったが、外装の真新しい建物で、呼び起こされた私の記憶の風景とは違っていた。
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 あの頃は空腹の毎日だった。中学校はようやく新しい校舎ができて、小学校に間借りしての二部授業から解放されたものの、はまちから数キロ離れた場所に建てられた。通学は毎日雨の日も雪の日も遠距離散歩をするみたいなものだった。その上、学校が終わると新聞配達、老弁護士のお宅の水くみ等の仕事は休めなかった。家でもすべき仕事はたくさんあった。特に夏から始まる冬に備えた燃料の薪の準備は手抜きができなかった。それに加えて父の仕事の手伝い。どれも体力のいる厳しい仕事で、いつも空腹だった。
 空襲の後で駄菓子屋などまだなかったと思う。塩味の南部せんべいで満足するしかなかったが、それもかなりの値段だったと思うから、たまのおやつだったのではないだろうか。その店がここだったのだろう。この円盤型せんべいも食べた記憶があるようなないような。ただ、砂糖は貴重品だったから、頂いたせんべいほど甘くはなかったと思う。
 あの頃のひもじさを懐かしく思い出した。そして、あの頃から続く私のひもじさの系譜をあれこれたどっていた。せんべいとともにTさんが送ってくれたのは、おそらく彼女と共有していたであろう記憶を思い起こさせる仕掛けであったのかもしれない。
(2015.5.4)

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