2015年10月アーカイブ

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9月17日は車で海軍第二飛行場、通称牧之内飛行場を案内してもらうことになっていたのに、あいにくの強い雨。牧之内の飛行場跡地で牧場を経営しておられる別所三夫さんが案内してくれるくれることになった。別所さんは、郡司成忠の報効義会に参加し、北千島の占守島に開拓移住した別所佐吉のお孫さんという。別所佐吉は、数年前に出版されて話題となった淺田次郎の『終わらざる夏』にも占守島に定住している老人として登場する。郡司らの仕事については、北海道開拓論に関わる思想として書いてみたいと構想している。よい人と知り合いになれた。一度ゆっくり話を伺いたいものだ。
 氏は戦後生まれだが、自分が住み働く土地の歴史に関心持ち、この飛行場跡の調査を続けられている。成果は地元の同人誌『わたすげ』に連載されている(別所三夫「牧之内飛行場を歩く」『わたすげ』(その一、その二、その三)第21号、第22号、第23号、根室・わたすげの会刊、2013ー015年所収)。
  私の今回の仕事は朝鮮人使役の資料と関係者の証言を探すことだったが、別所さんのおかげで当時の飛行場の状況を知ることが出来た。ただ、朝鮮人使役の当時の状況についての関係者の証言は少ない。理由はいろいろと考えられる。地元の人たちがこの問題に関心がなかったわけではない。その関心を集約して調査研究を志す人が残念ながらあのまちにはいなかったのではないか。1000人以上の朝鮮人、数百人もの日本人のタコ労働者を過酷に使役して進められた工事の跡を戦争遺跡オタクの独占物のしてはならない。
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 この飛行場は果たして完成して戦闘機が飛び立ったのだろうか。私は完成を見ずに中途で放棄されたと考えている。子どもの頃、木造飛行機が飛んだという噂を聞いたことがある。数機の木造機があったことは確かなようだ。しかし本島の戦闘機は一機もなかった。工事に携わった地崎組もこのことを証言している。それに本来あるべき弾薬庫(おそらく地下施設だったろう)の跡が見当たらない。弾薬庫がなくては戦
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争にならない。この飛行場は中途で放棄された壮大な無駄であった。
 あいにくの土砂降りの雨、車を降りて説明を詳しく聞けなかったのは実に残念だったが、今は近隣漁民の網干場になっている滑走路跡を走り、掩体壕その他を見た。議論は次の機会にと、再訪への私の期待は膨らむばかりであった。(2015.10.25)
    戦争遺跡探索の帰途、Kが花咲港近くに歴史と自然の資料館に私を連れて行った。この資料館にはこのまちに来るたびに足を運んでいるが、収集や展示にあまり変化がない。博物館に昇格を目指していたのだが、いまだに実現していない。できない理由を私なりに考えているのだが、ここでは書かないことにしよう。
 今年の夏に開催された空襲展のパネルが何枚か展示されていた。そのなかに私が探し求めていた写真の一枚を発見し驚愕。この発見が今回の旅の最大の収穫となった。本町3丁目9番地、私の生まれ育った地の空襲直後に撮影された写真である。おそらく新聞記者が撮影したものであろう。無理に連れてきてくれたKに感謝。
 コピーを頂戴し、京都に帰ってからアドビー・フォトショップ
を使って修正してみた。思いがけない当時の姿が現れ始めたのである。1945年7月15日午前8時頃、第一波の空襲で私の家の筋向かいの旅館、三洋館裏から出火。隣組の消防団に加え、消防署の最新鋭消防車3台が駆けつけたが、火勢の強さに立往生、消防士が5人殉職した。一般の民家や旅館がかまどの火を消し忘れ、爆撃により出火したとは考えにくい。旅館も含めて、前日の空襲に引き続き翌日の早朝から空襲があると確信していた。朝食の準備をしていた家があったとは考えにくい。
 三洋館の裏は倉庫であった。軍需物資が入っていたか、その周辺に野積みされていたはずだ。重油の入ったドラム缶もあったかもしれない。異様なまでの激しい火勢は、おそらくそれに引火したためだったろう。隣組の男たちも消火を早々と断念し、地域防空壕(写真右隅のあたり)からの脱出を求めた。脱出を早くに決断したのは賢明だった。坂の上に逃れ、第二波で命を落とすこともなく逃れていくとき、右手に三洋館の火を初めて見た。この世のものとも思われぬ高い火柱、あのように燃えさかる火色は今も私を不安にさせる。
P9180067.JPG 消火のため最後まで残った筋向かいのOさん、逃げ遅れた私の祖母、そして防空壕に残った若者の3人が焼死した。焼け跡には何人かの兵士の遺体があったという。おそらく爆風でどこからかとばされてきたのだろう。
 海上に沈没した船が見える。空襲とともに多数の船が港外に避難、散開した。すべてが陸軍が徴用した漁船であった。ここで何隻が沈められ、何人が殺されたか、記録は一切ない。抵抗する武力のない漁船を沈没させることなど何の技術もいらない簡単な戦闘行為であった。戦闘機の乗員たちはどのような気分で機銃を浴びせていたのだろうか。
 地域防空壕の前の道を10メートルほど進むと、私の家の焼け跡だ。写っていなかった。ほっとした。方々でくすぶり続ける様子からみて、この写真が撮られたのは空襲の数日後であろう。16日に父が一人で祖母の遺体を焼け跡で荼毘に付し、私ども家族が骨を拾いに出かけたのは17日であった。その日に私の家の焼け跡で見た光景、焼け崩れた防空壕から発見された若者の亡骸を膝の上にかき抱いて悲嘆にくれる彼の父の姿、燃え残った木を集め荼毘に付していたその姿を忘れることはない。
 この写真はいつ撮られたものだろうか。撮影者は葬送の姿を避けて撮影したのではあるまいか。それが写っていることを期待もしたが、やはりその光景は写されていないでよかったと思う。この地は私にとってあの日以来ずっと葬送の地である。それを知る人は私だけかもしれない。そうであれば、その姿は私の記憶の中にだけ止まっているほうがよいのではないか。(2015.10.18)
 9月18日、雨の予報がなんとかはずれてくれて、Kの車で根室半島にのこる戦争遺跡を観察に出かけた。
 前の戦争で私の生まれたまちは基地のまちと化し、兵士で充満していた。人口2万人あまりの小さなまちに、学校の校舎をはじめ主な公共の建物は軍隊が駐屯場所になり、まちの中では軍事訓練が繰り返され、海軍の飛行場が2カ所もあった。
 陸軍の中心は兵站(へいたん)、今で言う「後方支援」の機密部隊である暁部隊であった。この部隊は極秘の任務を担当した集団であったから、戦史を見てもその実体は明らかではない。
 このまちは千島列島への軍隊と軍需物資の送り出し、そこからの転出の基地だった。その任務にたえうる港湾も倉庫もインフラも整っていなかったのに、このまちがそのために基地化されたのは何故か。その理由は明らかだ。徴用した民間商船は次々とアメリカ海軍の潜水艦や戦闘機の餌食となり、最終的には漁船による補給に依存せざるを得なくなったのであった。千島列島に近ければ近いほど良い、それが理由であった。兵站(後方支援)を漁船に依存せざるを得ないとは、敗北は明らかであったではないか。
 私は記憶が薄れないうちにその規模と意味を問う文章を書き記しておきたい、今度の旅の目的のひとつはそのための資料集めの旅でもあった。この仕事はもともと私の戦争体験を書き残すことが目的であったが、最近の安保法制をめぐる議論を聞きながら、軍隊が市民の安全をまもるという虚構が公然と主張されていることに対して私のささやかな体験を書き残すことも重要な現代的意義があるのではないかと考えるようになった。
 Kの車で彼の1945年7月15日の戦禍を逃れる道行の跡をたどった。今は舗装された道路を移動できるが、あの頃は道なき道を沢や湿地を渡って走ったはずだ。炎上する花咲国民学校の横を通り、学校の東の臨港鉄道の線路を越え、ネムロベツ川の沢を越えてまず逃げ込んだのは、旧根室牧場(あるいは鐘紡牧場か)内の木造トーチカであった。Kはこのことに最近気づき、牧場のなかにトーチカがあったことを確認したという。その跡を車窓から眺め、オホーツク海側に出る。一番川、二番川をわたって彼と彼の家族が最終的に助けを求めた家の辺りに至った。生き延びたいと必死であったとはいえ、道なき道をよく歩いたものだと思う。
GE根室半島Rのコピー.jpg 牧之内飛行場(海軍第二飛行場)跡をかすめて半島を北から南に横断して友知海岸にでる。ここにはトーチカが二つ並んで残っている。前の日にチリから押し寄せた津波の影響か、砂丘にかなり水が入っていたので近づくのをあきらめた。海岸沿いに東に走って桂木海岸に向かう。友知から桂木まで遠浅の海岸が続く。
 桂木海岸を訪ねてみたかったのにはいくつか理由があった。ここにはかってこのまちではじめて蟹缶詰製造会社を創業した和泉庄蔵の工場と居宅があったところだ。和泉家ははやくに工場を閉めている。蟹缶詰輸出の最大の相手先国だったアメリカとの外交関係が思わしくなくなったためだろうか。戦後は工場の一部がまだ残っていた。桂木海岸はハイキングや遠足で最も好まれた場所で会った。
 今、第三十三根室警備大隊を率いて1943年(昭和18年)末から1944年(昭和20年)初めまで私のまちに駐留した大山柏少佐の陣中日記(大山柏『北のまもりー大隊長陣中日記ー』鳳書房、1989年8月)を読んでいる。空襲直前の私のまちの軍隊配置を調べる格好の資料である。大山の指揮で根室半島の要塞化は急速に進んだ。その時に作られたトーチカ、横穴等はいまでもほぼ残っている。
 日記を読んで、大山らが最初に駐留し陣地をこしらえたのが桂木であることをはじめて知った。和泉家の子孫である同級生のIに早速電話を入れた。当時のことをよく記憶していて、急造の三角兵舎、軍事訓練等の記憶を話してくれた。海岸北西の丘の上に築いたとされる陣地について訊ねると、彼から意外な返事が返ってきた。そこで牧之内飛行場の整地のために朝鮮人労働者を使役して土砂採掘が連日行われ、。労働者たちは上半身裸、下穿きだけという姿で発破を使用しての重労働だったという。監視のため戦車(多分装甲車だったのではないか)がきていたという。「丘の形がすっかり変わるほど土を採っていましたよ」これは多分大山らが駐留する前の夏の状況だったろう。牧之内飛行場の建設に多数の朝鮮人や囚人が使役されたことは世に知られているが、地元の記憶を聞いたのは初めてのことだ。
 P9180065.JPG 桂木にあるトーチカ2基はおそらく大山がこしらえた最初のものだろうし、朝鮮人強制労働の跡も是非とも記憶にとどめたいと考えた。是非行ってみたいと思った。
 期待は大きくはずれた。土建会社による土石採取場に変貌し、丘は崩され、缶詰工場跡も消え去り、昔の面影は到底想像できる状態ではなかった。トーチカだけを撮影してこの場所から退散した。軍事遺跡はともかく、産業遺跡までも破壊し尽くしてこれでよいのだろうか、そP9180061.JPGの気持ちはいまでも後を引いている。(2015.10.11)
 Kが面白い場所を見せようと言うことで車を走らせた場所が、柳田埋立地跡であった。そこに見た無残な光景に私は思わず息をのんだ。この場所は私にとって聖地そのものであった。
P6250127_NEW.jpg 柳田藤吉が私財を投じて建設したこの場所は、このまちの繁栄の象徴であった。柳田家の赤煉瓦
の共同倉庫ほか多くの倉庫が建ち並び、ここから中国、アメリカに直接輸出された。私のまちは昆布や缶詰等の水産物加工品輸出で栄えたまちだった。そこに生まれ育ったことはいまでも私にとって誇りうることとして記憶されている。
 あの戦争であり空襲は物理的に甚大な被害を与えただけでなく、北方世界の中心のひとつとしての地位を失ってしまったのだ。しかも、住民たちは中心であったという立場も思想も完全に失ってしまったように思われる。私にはその方が問題であった。私がこの埋立
P9180047.JPG地のかっての風景に思いをはせるのもある意味でその喪失に対する抵抗であったと思う。
 ここは、あの戦争と空襲で私と私の家族の生死をを分けた場所であった。埋立地が燃えさかるあの火の勢いと熱い風はいまでも私にとって悪夢である。焼き尽くされた滅びの地として、そのような意味を持った地として残ってほしいとひそかに願っていた。
 柳田埋立地が焼け野原になった後、いつの間
にか缶詰工場が建っていた。私がこのまちを訪れたP9180044.JPG10年前には、この工場はすでに操業を止め閉鎖されていた。傾いではいたがまだしっかりと立っていた。昨年12月17日にこのまちを襲った高潮被害が引き金になったのだろうが、破壊が半年以上も放置されることでこのような悲惨な状態になってしまった。なぜかたづけずに放置しているのだろうか。操業している北側の地域のための波よけ、風よけのつもりだろうか。解体するお金もなく朽ちるに任せるというのだろうか。
P9180051.JPG これはなんとも都市の景観としては不格好な姿ではある。廃墟探検マニアなら喜んでやってくるかもしれない。しかし、よく考えてみよう。長崎の軍艦島ほど古くはないが、れっ
きとした缶詰工場の跡地であり、このまちの産業史の重要な遺跡ではないのか。女工さんのたちの寄宿舎も残っている。缶詰工場は東北地方からの出稼女性労働によって維持されていた。私に体力があるなら、内部を探検して確認したいものだ。さまざまな興味をひく遺物があると思う。その意味ではこの廃墟も滅びを象徴している場所ではないだろうか。そうえると、私の憂鬱な気分も少しは晴れた。(2015.10.2)

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