2015年11月アーカイブ

P9200096.JPG 9月19日朝、牧之内飛行場跡を訊ねる前に空襲犠牲者慰霊碑に詣ることにした。根室空襲70周年を機に私に友人たちの努力もあってようやく実現したものだ。当然私の祖母の名前も刻まれており、一度その前に立ちたいと考えていた。今度の旅の目的の一つであった。
 このまちにしては珍しい広さの緑地の公園の南西角に立てられている。この公園、鳴海公園といったと思うが、戦前は民家が密集した地域だったと思う。本町三丁目の自宅から花咲小学校までの通学路であった。集団登校なのであまりよそ見をせずに歩いていたのだろうか、このあたりの記憶はまったくない。平和市場という屋内市場があった、ここは記憶がある。直撃弾で多くの死者が出た場所だ。戦後家が建てられずに、いつの間にか公園になっていた。
P9200093.JPG あいにくの土砂降りの雨、芝生の水はけが悪く、足もとを気にしながらようやくその前にたどり着き、拝礼することが出来た。翌日の朝も、改めて一人で訪れた。雨もなんとか上がり落ち着いて前にたたずむことが出来た。私にとって、これは場合によっては私の名も刻まれたかもしれない墓碑に等しいものであった。
 根室空襲の死者数は正確な数字はわからない。しかし、軍人や軍属をのぞく民間人の死者数は空襲研究会の努力でほぼ確定されている。町民の死者数は従来一般的に通用していた199人を改めて209人であるとした。港外に逃れたが沈没させさせられた徴用船、浦河丸と東裕丸の死者、行方不明者を含めて400人近い人びとが犠牲になったとしている。数字から空襲の悲惨さを判断してはならないのは言うまでもないことだが、このまちの人的被害は北海道内で一番多かった。
P9200095.JPG にもかかわらず、慰霊碑ひとつなかったのは何故だろうか。私は東京大空襲にかかわって執筆した「無差別爆撃と戦争責任ー東京大空襲はなぜこれほどまでに軽視されるのか ドイツ連邦大統領J・ガウクのドレスデン演説に触れて−」(KITA1501、2015年3月、www.focusglobal.org/kitanihito_blog/2/2015/03に収録)の中で、なぜとあれほど甚大な被害と犠牲者を出した東京に慰霊碑が建たないのかについて論じた。東京都が建立しないのなら、他の自治体がそれに追随するのはある意味で理解することはさほど難しいことではない。
 『根室市史』はこのまちの運命を変えた空襲について次のように書いている。わたしはこの文言にずっとこだわり続けてきた。町民の犠牲者と家族に寄り添わないような表現が何故出来るのかと。その箇所だけを抜き出しておこう。「・・・町民は山手方面に待避したので人的被害は・・・僅少であったことは、せめてもの不幸中の幸いであった。」(『根室市史』上巻、根室市、1968年7月、533ページ)200人の犠牲者をどうして「僅少」であったと判断するのか。犠牲者を出した家族にとっては、「幸い」などという表現は禁句ではないのか。これが市当局の空襲に関する最終見解であったとすれば、「僅少」な犠牲者のために碑を建立することなど論外であっただろう。
 この石碑の建立には複雑な事情があったことは、碑自体にも映し出されている。前面に刻まれている根室市長の言葉を読むと、「根室市平和祈念の碑」として建立するとある。 裏にまわると犠牲者の名前が刻まれ、慰霊の碑であることがわかる。
 そうではあっても、このように形あるものとして記憶されることはよいことだと思った。私の気分も一応の区切りがついたようだったが、それでも私はまだ『根室市史』の記述に対するわだかまりを捨て去ることはできないでいる。(2015.11.1)


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