2016年3月アーカイブ

井上有一生誕百年記念展を見る

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 2016年3月3日、日帰りで金沢市に出かけた。金沢21世紀美術館で開催されている書家井上有一の生誕百年記念展を見るためだ。
 彼の東京大空襲に関する作品はどうしても見たいと考えていた。特に彼が訓導(教師)として勤務していた横川国民学校の悲劇に寄せた書、「嗟横川国民学校」は丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」にも匹敵する、いやそれどころかそれを凌駕して訴えてくる。書物では見たことがあるのだが、どうしても現物の前に立ちたかった。
 この書の前に立って、私は感動のあまり落涙し、
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拝礼した。書の大きさと広がり、筆使いは書物を介しては感知できない。一字を書いた書、草野心平や宮沢賢治を写した書は書家の人間性を浮かび上がらせる。良いものを見たという充実感で満たされた一日であった。

ある越中衆と能登衆の出会い

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  2016年2月28日午後、麩屋町押小路上ルのギャラリー「結」に梅原龍さんの絵皿展を覗きに出かけた。その時から考えていたことを少し書いておこう。
 梅原さんの仕事ぶりはフェイスブック上で拝見していたが、知りあいになったのはある酒場で偶然お会いしたときからだ。富山県出身と聞いた。その時、雪深い富山人が沖縄に住むことにも興味を覚えたが、それよりも富山県出身者に抱いている羨望の念を彼に率直に披瀝したと思う。
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 北海道の私の郷里では、当時富山出身者を「越中衆」と呼びならわし、「越中衆の歩いたあとにはぺんぺん草も生えない」と評していた。越中衆は数も多く、結束力も強く、働き者で、成功者が多かった。私の家は能登半島出身で「能登衆」と呼ばれていたが、彼らも働き者ではあったが、どちらかと言えば下積みの働き者だったと思う。「ぺんぺん草も生えない」という言葉は、富山県人の徹底した稼ぎぶりに対する悪口やひがみの表れというよりも、私にはある種の畏敬の表現だった。子どもの頃からそう感じていた。今でも変わらない。
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 毎年決まった頃に、富山の薬売りが大きな風呂敷包みを持ってわが家に現れた。一年に一度家に置いてある薬箱を点検に来るのだ。点検し、柳行李から使った分を補充する、矢立から筆を取り出しすらすらと記帳する、その仕事ぶりは、外の世界の仕事を滅多に見ることのなかった当時の私には新鮮で驚きの連続であった。私どもに持参した小さな景品も外の世界への憧れを高めたものだった。その頃から越中衆の強靱さは利益のあるところに群がった近江商人たちよりもはるかに魅力的だった。
 お皿のことよりも、おたがいの旅のこと、富山のことが話題の中心になった。富山にはまだ出かけたことがない。無性に出かけてみたくなった。能登衆も越中衆も幕末から明治にかけて北前船で北の海に乗り出していった。毎時の初めに私の祖父は佐渡島から、祖母は能登から北を目指し、言葉も生活慣習もまったく違う二人が北海道のどこかで知りあい世帯を持った。彼らは違いに対する寛容さと他者を受容するすぐれた能力を備えていたと思う。あの時代にちっぽけな船で難破をおそれることなく船出していったのだから、放浪することに抵抗はなかったと思う。
 私は彼らの気質を受け継いでいると確信している。北海道の東端のまちに生まれて放浪できる限り放浪した。異質のものへの寛容さや放浪への憧れも私に内在的なもののように思われる。梅原さんと話していて共感したのは、その憧れについてであったかもしれない。
 自分のことばかり語っているうちに肝心の絵皿を買わずに帰ることになった。そのことをわびると、旅の費用の足しにしてくださいとのこと、別れの挨拶は、またどこか旅先でお会いしましょう、だった。こういう挨拶も放浪者にふさわしい、いいね。(2016.3.5)

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