2017年6月アーカイブ

 札幌市のS水産から時々送られてくるカタログの表紙に季節限定の「北海しまえび」の広告があった。このエビのうまさは喩えようがない。欲求を抑えがたくぼくの在宅快気祝いはこれでやろうと決め、早速注文した。贅沢なことだ。まあ一生に一度のことだから許されるだろうと思った。
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 この海産物には思い出がたくさん詰まっている。戦前の子どもの頃、いつも振り売りの女性が魚を天秤棒で担いで私の家に売りに来る。祖母キノは夫に早くに逝かれ、魚の行商で一家を支えたふりうりの彼女たちの大先輩だった。そういうこともあってか、行商の女性たちの出入りが多い家だった気がする。「エビ」もその頃によく見た海の幸だった。一升枡を使っていた。ぴちぴちと跳ね回るエビを枡に盛り上げ、「はいおまけ」といって数匹を枡に加えるのだ。彼女たちはおまけをしても損にならない程度を会得していたのだが、子どものぼくには気前のよい行為に見えた。しかし、あの頃食したエビの味は思い出せないのだ。
 戦後、大学に進んだばかりの18歳の時のことだ。当時ぼくは別海町の網元Mさんのご子息の家庭教師をしていた。その縁で夏休みに野付湾での漁に招待された。鮭定置網漁も楽しかったが、一番は「北海しまえび」漁だった。
 エビは海藻が密集する浅瀬に生息する。馬の尻尾のような形状の野付半島に遮られて野付湾はエビにとって格好の生息地である。エンジン付きの舟ではスクリューに海藻が絡み舟を操作できないから、帆掛船を使う。
野付湾.jpg あの日は雲ひとつない晴天で湾内も凪いでい
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たと記憶する。網で獲ったばかりのエビを船上で七輪を使ってくみ上げた海水でゆで上げる。美味、そうとしか表現しようがないあの味は今も忘れられない。
 あの日の陽光はドイツの初夏そのものだったことを思い出していた。ライン川を舟で旅しても、川沿いを列車でいっても、何度旅してもあの景色はドイツそのものだ。「北海しまえび」にはドイツワインがあうと勝手にきめ込んだ。ライン川中流域ラインガウのワインをはり込んだ。
 至福の時。しかもそれぞれの風土と景観を思い起こしながら賞味できるとは。生涯に一度とはいいながら、このような舌と心の贅沢をまた口実を作ってやってみたくなる。(2017.6.24)

酒なくて・・・

 退院してほぼ3ヶ月が過ぎた。先週土曜日退院3ヶ月目の診察で執刀医は順調な回復との判断、胃が手術前の水準に回復するにはあと3ヶ月の養生が必要という。おそるおそる気になっていることを訊ねてみた。お酒はそろそろ飲んでもよろしいでしょうか。まあ少しずつ試してみて下さい、急に酔いが回って失敗する人もありますよ。
 病院近くの中央卸売市場にある「すし市場」ですしをつまみながらの早速の飲酒。何ヶ月間、酒を断っていただろうか。ガンを宣告され手術を決意したときからだから5ヶ月以上にはなるだろう。小さくなった胃をするりと通り抜け、気にしていた急な酔いも来なかった。酒を本当にうまいと思った。ささやかだが、私の長い飲酒人生で最高の酒宴となった。もちろん医師の忠告通り、お猪口で2杯に止めた。
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 昨日、まちに買い物に出たついでになじみの「くりた」に立ち寄り昼食をとった。タクシーの運転手に行き先を団栗橋西詰と告げると、お客さん、あのあたりで昼食とは豪勢ですなとからかわれた。なじみの店なら、量も好みも無理を聞いてくれるし、時間をかけて食事できるしね。
 店主のすすめで、日本酒のオンザロックを楽しんだ。この次はどういう仕掛けで酒を試してみようか。ワインもいいかな。いろいろ構想している。考えるだけでも楽しいことだ。酒なしでの会食、酒抜きでの外での夕食など考えられないものね。
 「酒なくてなんの己が桜かな」
(2017/06/21)
  あの頃の授業で記憶に残るのは、現人神(人間にして神)である万世一系の天皇への絶対的な臣従をたたき込む画一的な指導だけだ。皇国史観などという表現をよく聞くが、国民学校でたたき込まれた歴史観はそんな生やさしいものではなかった。それは今の時代には想像もできない非科学的な神話的歴史観、神話とねつ造された歴史の混交物であった。
  神武が高千穂の峰に降臨して東征し国を建てたのが日本国の始まりで、それ以来この皇統は神武に始まり今上にいたる「2600年」連綿と続くと教え込まれ、それを暗記させられた。
 修身という科目は、イザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオ、オオクニヌシ等が登場する神話的挿話をちりばめながら、天皇制を危機に陥れた逆賊の告発とそれに抵抗した忠義の臣の話が続く。特に南朝正統論にもとづいて足利尊氏を逆賊とし、南朝に殉じた楠木正成一族を忠義の権化として持ち上げた。
 「修身」の授業で教育勅語が教材として解釈され説明されることなどあり得ないことだった。神聖にして侵すべからざる天皇の詔(みことのり)を教員が解釈するなど不敬に値した。それは諳んじて脳髄に擦り込むことだけが求められた。憲法というものがあるということなど教えられたこともなかったし、あることも知らなかった。
 当時の教師(訓導と呼ばれていた)はこのような理不尽で反知性的な歴史観を良心の呵責に苦悩することもなく子どもたちに強制していたのだろうか。子どもの個性を押し殺し、兵士になる基礎として画一的な知識をひたすら教え込んだ彼らは一体教師と呼ぶにふさわしい能力も品性も持ち合わせていなかったのではないか。戦争が終わっても彼らは子どもたちに戦時下での教育を謝罪したことはなかった。彼らは自省することもなく、突如として民主主義者に豹変した。何の制約もなく子どもに体罰を科していた彼らがその同じ手を自ら封じたのである。今日まで続く私の教師不信の根っこもここにあるのかも知れない。
 北海道の教師たちの権力への屈服と隷従には重要な歴史的前史があったことを知ったのは、ごく最近のことだ。治安維持法による北海道綴方教育連盟の弾圧である。「綴方」とは今でいう作文のことだ。この組織は政治団体でも労働組合でもなかった。作文教育を通じて子どもたちの感性を豊かにする以外の目的を持っていなかった。
 旧文部省の「思想情報」によると、弾圧は東北地方から始まり、1939ー42年に逮捕された教員は全国で137人、そのうち北海道は半数を超す75人に上ると、すぐ後に紹介する佐竹直子氏の著書は明らかにしている。拘束や連行、事情聴取の対象者はこれをはるかに超える数であったに違いない。
 
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 私がこの事件を知ったのは、三浦綾子が1998年に世に問うた力作『銃口』によってであった。三浦のこの作品は北海道近現代史を理解するには、いやこの国の近現代史を理解するためには、いかなる歴史書をも超えた必読の書である。学者なら無視するか1行で済ませる事件を、作家は見事に展開してくれたのである。最近北海道の若いジャーナリストがこの事件を再発掘し、注目を浴びた。次の書物がそれだ。佐竹直子『獄中メモは問うー作文教育が罪にされた時代ー』北海道新聞社、2014年12月刊、道新選書47。優れた仕事だと思う。だが、この事件の歴史的意義の掘り下げが共同作業として地域を越えて続けられていないのが残念だ。この事件への関心が全国で広がることを期待している。
 子どもたちの作文教育だけを考えている教員たちの組織がなぜ共産主義組織にでっち上げられ弾圧されたのか。その答えは簡単だ。天皇への忠義は一途なものでなければならず、すべての子どもがつねに一点のみを見上げ天皇に命を捧げる「少国民」として掌握されることが至上命題だったからだ。足下をみようという教育、子どもの多様な感性を育てようという教育は権力にとって有害であった。戦争は国民の暮らしを急速に蝕んでいた。一家の中心が徴兵されては経済的困窮が進むのは当然のことではなかったか。親にとっても妻にとっても子どもにとっても、家庭の中に突然生まれた空虚さは喩えようがなかったはずだ。いつ来るかもしれない戦死の知らせに怯えることも人として当然のことだったろう。しかし、当時の教室では作文に書くことも、ましてや発表することも許されない状況に追い込まれていたのだ。私が国民学校に入学した1942年は天皇と軍が始めた戦争に対する批判を封じ、子どもを心身共に捉え込む教育が完成した年だったのだ。
 戦後になって誤った歴史認識と画一的な思考方法の強要から脱却するのにどれだけ苦労したことか。この頃に作文教育で多様な感性を引き出してもらえたら、私の知的な生活も今とは大きく変わっていただろうに、残念なことだ。
 じっと耐えている教師たち、時代が変わるのをひたすら待ち続けた教師たちがいたことを知っただけでも、私には戦後民主主義をとらえ直す上で大きな救いではあった。
 この問題にはいずれ本格的に立ち返るつもりでいる。
(2017.6.1)

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