2017年7月アーカイブ

 7月15日がまためぐってきた。10数年前頃に気持ちが大きく変わるまでは、私にとってははこの日は、再現したくない悪夢のような情景をよみがえらせる日だった。そのため、1945年(昭和20年)のこの日まで確実にそこにあった私の家の焼跡に、私は数十年間立つことはなかったのである。
 逃げ遅れて焼死した祖母の亡骸を町営火葬場は通常に火葬することは不可能だった。あの日の翌日、父は家の焼跡でまわりの焼け残った木を集めて荼毘に付して息子として家長としての務めを一人で果たしたのであった。その日の午後か翌日に、私は家族と一緒に骨を拾いに焼け跡に向かった。骨壺も骨箱もなく、近くで拾った焼けただれた石油缶がその代わりになった。骨太だった祖母の遺骨はことのほか多く、缶に入りきらず無理矢理押し込んだ。祖母は頭が大きい人だったから、まだ脳が黒く焼け残る頭骸骨の処理には苦労した。
 空襲とあの日の記憶は、つい先日のことのように生々しく私の脳髄に擦り込まれている。足裏で感知した大火による地熱をいまでも鮮明に思い出せる。アメリカ海軍艦載機グラマンの人をすくませるような急降下爆撃の轟音、機銃掃射、爆弾投下の音、どの体験も悪夢以外の何物でもない。
 あの数日の出来事は、私の深部に癒やしがたい深い傷として今も残る。私にとってあの現場での家族のやりとりは、いまだに人間不信の根として私の心の深層に潜んでいる。このことは言葉にできることではなかった。

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 10数年前頃から私のこの気持ちは大きく変わった。封印していた記憶を解放しなければならないと思うようになっている。戦争の記憶の中で生きざるを得ない世代が少数になり、好戦的態度がさしたる抵抗も受けずに主張され受容され始めている。無能で無責任な権力者によって特攻に駆り出され無残にも殺された若者たちが「英雄」にまつりあげられる時代が再来するとは、私は考えだにしなかった。それだけに、死ぬまでに自分の体験と考えを書き残しておこうと気持ちを切り替え始めたのだ。
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 私は記憶喪失症のような状態で生きてきた。あの日以前の私の周りの風景、私と家族の記録はすべて消え去った。実にさびしいことではないか。残っているのは真実かどうか確かめようもない記憶、それもきわめて僅かなものだ。子どもの頃の記憶を綴ることは、感傷的という表現が最もよくあてはまるだろう。その雰囲気はどうみてもすぐには勇ましい「反戦」の意思表明には結びつかない。しかし最近になって、「感傷」ではあっても、それが全体像に展開できる契機ともなれば「怒り」と同じように大きな力になるのではないか、そう考えるようになった。これまでに書いた朝鮮人強制連行や徴用船の問題も、子どもの頃の「感傷」が出発点だった。それでもよいのではないか。
 書いてみようと決意してあのまちを訪れ、かっての焼跡のあたりに立ってみた。私が拒否してきた数十年のそれとはまったく違った感覚のなかにいる自分を発見したのだった。私はあの日に生き延びられたのだ。私の家の筋向かいの旅館三洋館の裏手から火が出たと壕の中で騒ぎ始めた。男たちが組織する消防団ではとても消しようのないもののようで、火に巻かれるまえに逃げようと壕に避難している人びとは口々に言はじめた。どこに逃げろというのか、指示はまったくなかったと思う。勝手に逃げろと言うことだ。父は祖母の救出にかかりきりで家に残り、母と二人の弟と一緒に脱出した。坂を登ったあたりで第二波の攻撃に遭遇し、近くの防空壕に逃げ込んだ。爆弾が近くに落ち、潰れんばかりに揺れた。敵機が去り、とにかく逃げようと壕をでた。坂の上から私の家の方を見ると、三洋館のあたりはこれまでに体験したこともない火勢の柱になって炎上していた。あの炎の影には多くの死があった。私の祖母を含む幾人かの住民、消火に駆けつけた消防士たち、兵隊たち、徴用船の兵士と船員たち。あの時逃げる判断が少しでも遅れていれば、確実に炎に巻き込まれ、あそこで殺された人びとのいまだに未完成の一覧表に名を連ねていたはずだった。
 逃げ込んだ壕を揺るがせた爆弾は、50メートルと離れていない場所に落ちていた。まかり間違えば壕を直撃し、今の私はなかったろう。戦慄した。私はあの時に幸運にも生き延びられたのだった。生かされたのだと、つくづく思った。
 それ以来、思い出して書くことに突き動かされてきた。仕事はいつ終えられるだろうか、読んでくれる人は果たしているだろうか、読まれるに足る水準のものに仕上げられるだろうか。不安は募るが、とにかく書かねばならない。
 写真を説明しておこう。空襲の翌日か翌々日あたりに撮影された本町埋立地の様子である。新聞記者が撮影したものだろうか。まだ燃え続けている。消火に駆けつけ火に巻き込まれ炎上した消防車3台、銃撃で沈没した徴用船も写っている。写真の右下に写る坂道を下って一筋目の角に三洋館があり、そこを右折してすぐのところに私の家があった。撮影者がカメラをもう少し左によせていたら写っていただろう。この写真を発見したとき、この写真が示す残酷さの含意に私は思わず落涙したものだった。
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 後藤嘉七は治安維持法の犠牲者としてはけっして著名な人ではない。和歌山高商(現在の和歌山大学経済学部)を卒業して東北敵国大学法文学部経済学科(現在の東北大学経済学部)に進み、服部英太郎教授の演習に参加している。彼の逮捕については、『特高月報』昭和17年(1942年)3月分に記録されている。添付した写真を見てほしいのだが、念のためここに全文を収録しておこう。

 「五、東北帝国大学内左翼学生事件竝取調進展状況
 宮城県当局に在りては一時停滞の状態にありたる東北帝国大學内左翼運動が支那事變の長期化と複雑微妙なる国際情勢に刺戟せられ、漸次進歩的学生を糾合して壊滅せる學内左翼陣営の再建を企圖し、其の活動益々熾烈化の傾向あるを探知し、二月一九日容疑学生法文学部経済部二年生後藤嘉七他一名を検挙取調中、後藤の陳述に依り、現立教大学教授宮川實當四十七年は曽て和歌山高商教授として奉職中、昭和十二年頃より當時和歌山高商在學中の後藤嘉七グループを指導啓蒙し、後藤が東北帝大入學後も引續き連絡關係を持ち、同大學内左翼學生グループの中心的指導者として、諸般の活動を為し居たること判明せるを以て、本月十五日検擧取調中なり。」(6ページ)

 要するに、東北帝大の左翼學生を内偵していたら、文字通り「ひょうたんから駒」で、和歌山高商の左翼の「首魁」にたどり着いたというのだ。後藤の逮捕を特高が重要視したのもうなずける。当時の和歌山高商の左翼のもう1人の「首魁」北川宗蔵についての評伝を書いた中村福治は、後藤に直接取材して当時のいきさつを明らかにしている。後藤(中村はGとイニシアルで示している)は東北大学入学後、學内の左翼グループ(内藤知周、大島清ら)と親しくなり、読書会などを組織していた。當時特高は服部英太郎の検挙の機会を狙っており、そのために周辺にいる学生を内偵していたようだ。後藤は周辺に検挙が及びはじめて身の危険を察知し、本や日記などを愛知県の実家に送ったのが、それがたまたま特高に押収されることになり、検挙に至ったという(中村福治『北川宗蔵ー一本の道をまっすぐにー』創風社、1992年8月、115ページ)。後藤の逮捕は2人の大物の逮捕につながる重要なものだったのだ。

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 肝心の服部英太郎はいつ検挙されたか。彼は後藤の逮捕と同じ年の十一月十一日に検挙されている。『特高月報』昭和17年(1942年)11月分に「元東北帝国大學教授の治安維持法違反事件検挙状況」として記載がある。

 「右(服部英太郎のこと)は東北帝国大學内に於ける共産主義運動の中心的指導者として豫て宮城県当局に於いて行動鋭意内偵捜査の結果容疑濃厚なる犯罪事實判明するに至りたるを以て本月十一日同人を檢擧(召喚)及關係家宅捜査を施行すると共に引續不拘束の儘目下取調中なり。」(5-6ページ)

 服部英太郎は、私の知る限り文字通り学究の徒であって、「運動の中心的指導者」となり得るような人ではなかった。文部省と内務省は彼を追放して学問の世界にまだ残るマルクス主義の影響を一掃したかったのだ。そのためにまず学生たちの弾圧から始めたのである。太平洋戦争の開戦の年から翌年にかけて多くの学生が検挙されたという(東北大学百年史編集委員会編『東北大学百年史』、東北大学教育研究振興財団、2003年5月ー2010年3月、第1巻(通史1)435-436ページ)。この大学年代記でも逮捕、起訴された学生たちの具体的な氏名は記述されていない。把握していなかったためか、それとも本人たちの戦後の事情を考慮してのことか、わからない。
 戦後、服部英太郎他治安維持法によって失職していた教員は復職した。しかし学生たちの地位はどのように回復されたのだろうか。その記述はない。治安維持法で基礎されると、当時はたいていの場合無期停学の処分を受けたようだ。有罪となれば退学処分をうけただろう。東北大学が後藤の名誉を回復し復学させたのかどうか、その点の記述はない。私も後藤に確認しそびれた。
 私が後藤嘉七と知り合ったのは、大阪に職場を移してからだ。彼は大阪で繊維関係の企業の経営し、革新的、開明的経営者としても活躍されていたから、いろんなところでお目にかかる機会があった。企業業績がそれほど悪化しないうちに会社を清算して従業員に配分されたと聞く。その後は工場跡地でテニスクラブを経営されていた。亡くなられて10年ほど立つだろうか。
 知人を取り上げるのだから、せめて「さん」付けにすべき所だったが、ここでは略することにした。上述の中村福治の仕事では、Gというイニシアルになっている。存命であったうえ、後藤自身が実名を出すことを固辞されたのであろう。『特高月報』その他に実名で公表されてはいるものの、なお周囲への影響を考慮されたためかも知れない。あるいは後藤の謙虚な性格がそうさせたのかも知れない。彼が亡くなってからかなりの年月が経過しているし、治安維持法による犠牲を後世に継承していくためにも、実名で書くことが必要と私は考えた。
 後藤の事を書くとき、学生運動の渦中にあった私は教員の犠牲者のことにばかり目を向けて、多くの学生たちの犠牲に気づくことがなかった。学生はその批判的態度によって大学の自治の最も重要な担い手であることを主張しながら、先輩たちの犠牲の歴史を発掘し、その意義を示せなかった自分を恥じている。
 今のような時代だからこそ、つたない文章でも書き残して私の世代の責任をおそまきながらいくらかでも果たしたいと思うのだ。(2017.7.1)

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