東北帝国大学法文学部経済学科学生後藤嘉七の逮捕ー治安維持法と大学の責任(2)ー

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 後藤嘉七は治安維持法の犠牲者としてはけっして著名な人ではない。和歌山高商(現在の和歌山大学経済学部)を卒業して東北敵国大学法文学部経済学科(現在の東北大学経済学部)に進み、服部英太郎教授の演習に参加している。彼の逮捕については、『特高月報』昭和17年(1942年)3月分に記録されている。添付した写真を見てほしいのだが、念のためここに全文を収録しておこう。

 「五、東北帝国大学内左翼学生事件竝取調進展状況
 宮城県当局に在りては一時停滞の状態にありたる東北帝国大學内左翼運動が支那事變の長期化と複雑微妙なる国際情勢に刺戟せられ、漸次進歩的学生を糾合して壊滅せる學内左翼陣営の再建を企圖し、其の活動益々熾烈化の傾向あるを探知し、二月一九日容疑学生法文学部経済部二年生後藤嘉七他一名を検挙取調中、後藤の陳述に依り、現立教大学教授宮川實當四十七年は曽て和歌山高商教授として奉職中、昭和十二年頃より當時和歌山高商在學中の後藤嘉七グループを指導啓蒙し、後藤が東北帝大入學後も引續き連絡關係を持ち、同大學内左翼學生グループの中心的指導者として、諸般の活動を為し居たること判明せるを以て、本月十五日検擧取調中なり。」(6ページ)

 要するに、東北帝大の左翼學生を内偵していたら、文字通り「ひょうたんから駒」で、和歌山高商の左翼の「首魁」にたどり着いたというのだ。後藤の逮捕を特高が重要視したのもうなずける。当時の和歌山高商の左翼のもう1人の「首魁」北川宗蔵についての評伝を書いた中村福治は、後藤に直接取材して当時のいきさつを明らかにしている。後藤(中村はGとイニシアルで示している)は東北大学入学後、學内の左翼グループ(内藤知周、大島清ら)と親しくなり、読書会などを組織していた。當時特高は服部英太郎の検挙の機会を狙っており、そのために周辺にいる学生を内偵していたようだ。後藤は周辺に検挙が及びはじめて身の危険を察知し、本や日記などを愛知県の実家に送ったのが、それがたまたま特高に押収されることになり、検挙に至ったという(中村福治『北川宗蔵ー一本の道をまっすぐにー』創風社、1992年8月、115ページ)。後藤の逮捕は2人の大物の逮捕につながる重要なものだったのだ。

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 肝心の服部英太郎はいつ検挙されたか。彼は後藤の逮捕と同じ年の十一月十一日に検挙されている。『特高月報』昭和17年(1942年)11月分に「元東北帝国大學教授の治安維持法違反事件検挙状況」として記載がある。

 「右(服部英太郎のこと)は東北帝国大學内に於ける共産主義運動の中心的指導者として豫て宮城県当局に於いて行動鋭意内偵捜査の結果容疑濃厚なる犯罪事實判明するに至りたるを以て本月十一日同人を檢擧(召喚)及關係家宅捜査を施行すると共に引續不拘束の儘目下取調中なり。」(5-6ページ)

 服部英太郎は、私の知る限り文字通り学究の徒であって、「運動の中心的指導者」となり得るような人ではなかった。文部省と内務省は彼を追放して学問の世界にまだ残るマルクス主義の影響を一掃したかったのだ。そのためにまず学生たちの弾圧から始めたのである。太平洋戦争の開戦の年から翌年にかけて多くの学生が検挙されたという(東北大学百年史編集委員会編『東北大学百年史』、東北大学教育研究振興財団、2003年5月ー2010年3月、第1巻(通史1)435-436ページ)。この大学年代記でも逮捕、起訴された学生たちの具体的な氏名は記述されていない。把握していなかったためか、それとも本人たちの戦後の事情を考慮してのことか、わからない。
 戦後、服部英太郎他治安維持法によって失職していた教員は復職した。しかし学生たちの地位はどのように回復されたのだろうか。その記述はない。治安維持法で基礎されると、当時はたいていの場合無期停学の処分を受けたようだ。有罪となれば退学処分をうけただろう。東北大学が後藤の名誉を回復し復学させたのかどうか、その点の記述はない。私も後藤に確認しそびれた。
 私が後藤嘉七と知り合ったのは、大阪に職場を移してからだ。彼は大阪で繊維関係の企業の経営し、革新的、開明的経営者としても活躍されていたから、いろんなところでお目にかかる機会があった。企業業績がそれほど悪化しないうちに会社を清算して従業員に配分されたと聞く。その後は工場跡地でテニスクラブを経営されていた。亡くなられて10年ほど立つだろうか。
 知人を取り上げるのだから、せめて「さん」付けにすべき所だったが、ここでは略することにした。上述の中村福治の仕事では、Gというイニシアルになっている。存命であったうえ、後藤自身が実名を出すことを固辞されたのであろう。『特高月報』その他に実名で公表されてはいるものの、なお周囲への影響を考慮されたためかも知れない。あるいは後藤の謙虚な性格がそうさせたのかも知れない。彼が亡くなってからかなりの年月が経過しているし、治安維持法による犠牲を後世に継承していくためにも、実名で書くことが必要と私は考えた。
 後藤の事を書くとき、学生運動の渦中にあった私は教員の犠牲者のことにばかり目を向けて、多くの学生たちの犠牲に気づくことがなかった。学生はその批判的態度によって大学の自治の最も重要な担い手であることを主張しながら、先輩たちの犠牲の歴史を発掘し、その意義を示せなかった自分を恥じている。
 今のような時代だからこそ、つたない文章でも書き残して私の世代の責任をおそまきながらいくらかでも果たしたいと思うのだ。(2017.7.1)

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このページは、kitanihitoが2017年7月 2日 10:06に書いたブログ記事です。

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