7月15日ー根室空襲、北海道空襲71周年、そして祖母の71回目の命日を迎えてー

 7月15日がまためぐってきた。10数年前頃に気持ちが大きく変わるまでは、私にとってははこの日は、再現したくない悪夢のような情景をよみがえらせる日だった。そのため、1945年(昭和20年)のこの日まで確実にそこにあった私の家の焼跡に、私は数十年間立つことはなかったのである。
 逃げ遅れて焼死した祖母の亡骸を町営火葬場は通常に火葬することは不可能だった。あの日の翌日、父は家の焼跡でまわりの焼け残った木を集めて荼毘に付して息子として家長としての務めを一人で果たしたのであった。その日の午後か翌日に、私は家族と一緒に骨を拾いに焼け跡に向かった。骨壺も骨箱もなく、近くで拾った焼けただれた石油缶がその代わりになった。骨太だった祖母の遺骨はことのほか多く、缶に入りきらず無理矢理押し込んだ。祖母は頭が大きい人だったから、まだ脳が黒く焼け残る頭骸骨の処理には苦労した。
 空襲とあの日の記憶は、つい先日のことのように生々しく私の脳髄に擦り込まれている。足裏で感知した大火による地熱をいまでも鮮明に思い出せる。アメリカ海軍艦載機グラマンの人をすくませるような急降下爆撃の轟音、機銃掃射、爆弾投下の音、どの体験も悪夢以外の何物でもない。
 あの数日の出来事は、私の深部に癒やしがたい深い傷として今も残る。私にとってあの現場での家族のやりとりは、いまだに人間不信の根として私の心の深層に潜んでいる。このことは言葉にできることではなかった。

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 10数年前頃から私のこの気持ちは大きく変わった。封印していた記憶を解放しなければならないと思うようになっている。戦争の記憶の中で生きざるを得ない世代が少数になり、好戦的態度がさしたる抵抗も受けずに主張され受容され始めている。無能で無責任な権力者によって特攻に駆り出され無残にも殺された若者たちが「英雄」にまつりあげられる時代が再来するとは、私は考えだにしなかった。それだけに、死ぬまでに自分の体験と考えを書き残しておこうと気持ちを切り替え始めたのだ。
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 私は記憶喪失症のような状態で生きてきた。あの日以前の私の周りの風景、私と家族の記録はすべて消え去った。実にさびしいことではないか。残っているのは真実かどうか確かめようもない記憶、それもきわめて僅かなものだ。子どもの頃の記憶を綴ることは、感傷的という表現が最もよくあてはまるだろう。その雰囲気はどうみてもすぐには勇ましい「反戦」の意思表明には結びつかない。しかし最近になって、「感傷」ではあっても、それが全体像に展開できる契機ともなれば「怒り」と同じように大きな力になるのではないか、そう考えるようになった。これまでに書いた朝鮮人強制連行や徴用船の問題も、子どもの頃の「感傷」が出発点だった。それでもよいのではないか。
 書いてみようと決意してあのまちを訪れ、かっての焼跡のあたりに立ってみた。私が拒否してきた数十年のそれとはまったく違った感覚のなかにいる自分を発見したのだった。私はあの日に生き延びられたのだ。私の家の筋向かいの旅館三洋館の裏手から火が出たと壕の中で騒ぎ始めた。男たちが組織する消防団ではとても消しようのないもののようで、火に巻かれるまえに逃げようと壕に避難している人びとは口々に言はじめた。どこに逃げろというのか、指示はまったくなかったと思う。勝手に逃げろと言うことだ。父は祖母の救出にかかりきりで家に残り、母と二人の弟と一緒に脱出した。坂を登ったあたりで第二波の攻撃に遭遇し、近くの防空壕に逃げ込んだ。爆弾が近くに落ち、潰れんばかりに揺れた。敵機が去り、とにかく逃げようと壕をでた。坂の上から私の家の方を見ると、三洋館のあたりはこれまでに体験したこともない火勢の柱になって炎上していた。あの炎の影には多くの死があった。私の祖母を含む幾人かの住民、消火に駆けつけた消防士たち、兵隊たち、徴用船の兵士と船員たち。あの時逃げる判断が少しでも遅れていれば、確実に炎に巻き込まれ、あそこで殺された人びとのいまだに未完成の一覧表に名を連ねていたはずだった。
 逃げ込んだ壕を揺るがせた爆弾は、50メートルと離れていない場所に落ちていた。まかり間違えば壕を直撃し、今の私はなかったろう。戦慄した。私はあの時に幸運にも生き延びられたのだった。生かされたのだと、つくづく思った。
 それ以来、思い出して書くことに突き動かされてきた。仕事はいつ終えられるだろうか、読んでくれる人は果たしているだろうか、読まれるに足る水準のものに仕上げられるだろうか。不安は募るが、とにかく書かねばならない。
 写真を説明しておこう。空襲の翌日か翌々日あたりに撮影された本町埋立地の様子である。新聞記者が撮影したものだろうか。まだ燃え続けている。消火に駆けつけ火に巻き込まれ炎上した消防車3台、銃撃で沈没した徴用船も写っている。写真の右下に写る坂道を下って一筋目の角に三洋館があり、そこを右折してすぐのところに私の家があった。撮影者がカメラをもう少し左によせていたら写っていただろう。この写真を発見したとき、この写真が示す残酷さの含意に私は思わず落涙したものだった。

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このページは、kitanihitoが2017年7月19日 16:36に書いたブログ記事です。

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