2018年8月アーカイブ

 加齢としっかり歩調をあわせて体力は確実に低下し、身体の機能もそれぞれ弱まってくる。この傾向にあらがってみても仕方のないことだ。それにうまく調子を合わせて生きるのが長命の道だと思ってはいるのだが、寿命をあらかじめ知ることができない以上、この長命への道をやり遂げることはなかなか難しい。
 特に予想もしていなかった病気や事故に遭遇したときなど、先はまったく予想できなくなる。昨年春の胃ガンの手術などもそのよい例だ。突然の体力低下に襲われた。一年以上経っているのに、体力が手術前の水準に戻ったとは到底言えないのだ。しかもである。年齢相応に部分的にがたが来る。歯、眼、耳など次々と手入れが必要になってくる。「こんな筈ではなかった」。生き続けることがこれほどまでに手間のかかるお金がかかることだとは考えもしなかった。
 
 手入れの最初は歯の治療から始まった。高齢とともにいずれ歯が抜け落ち死に至るとは考えていた。野生の世界ではまさにそうなのだから、人間もそうだろうと考えていた。歯が弱り抜け落ちることは死を意味するのだ。
 治療台にあがって治療が始まってからK先生の言うには、「入れ歯にしますか、それともインプラントにしますか」「佐々木さんの生活態度ではインプラントがよいと思いますよ」、子どもの時からの暮らしぶりで身についた無精を見抜いておられた。毎日規則的に入れ歯を外して清潔にするなど不精者の私にはできない相談だった。「先生、噛む力ではどちらが上でしょうか」「インプラントの方がよいと思いますよ」「それでは先生にすべてお任せします」。
 その時頭をよぎったのは、なお食べ続けたい食のことだった。噛めば噛むほど味が出る干し肉、大好きなナッツの数々、そうだ「まだまだ食べたいものがある」。支払い能力を度外視して、なお食いしん坊であり続けたいる欲求のままに私の方針はこのように治療台の上で決まった。

 
 私が子どもの頃には、高齢者の容貌からその人の社会的経済的地位を判断できたものだ。その第一は入れ歯の有無だった。金やプラチナのかぶせをした入れ歯は金持ちどもを戯画化する際の常套手段だった。金の入れ歯をした腹の出た血色のよい男、これが金持ちの象徴であった。これに対して前歯が欠けて痩せ細った姿、これが貧乏人であった。前歯が欠け歯茎で咀嚼せざるをえない老人たちのすがたは滑稽に見えた。私たち子どもは「歯っ欠けじじい」「歯っ欠けばばあ」とはやしたてたものだった。
 100歳まで生きる時代だと喧伝する輩がいる。よく考えてみたらよい。衰えてゆく肉体の部分を補綴する費用をいったい誰が負担してくれるというのか。その点で言えばこの国の医療保険制度には問題があるように思われる。老化に伴う費用はすべて自己負担で、100歳までどのよう生きられるというのか。富めるものはますます長命に、貧しいものはますます短命に、100歳までの生きる時代という誰が言い出したのかわからない主張は、私にはそのように聞こえてならないのだ。私自身はどちらに属するかって聞かれたら、こう答えたい。「これまではなんとかやりくりできた、これからのことはわからない」「こんな筈ではなかった」。


 3週間ほど前、待ちに待った人工歯が出来上がった。新聞報道によると最近は技工士不足で深刻な状態という。しまも患者の年齢層をみると、高齢者の比重は高まるばかりで、私の通う歯科もその例外ではなかった。出来上がるまで十分に待たされた。
 出来上がった歯は口の中のそれそれの場所にはめ込まれた。ピタリとはまった。口腔を長きにわたって支配していた仮歯はようやくすべて外された仮歯を壊さぬよう負担の少ない食材を選び恐る恐る食べていた日常から解放され、大胆にかみつき咀嚼できるようになった。さっそくすき焼きに挑戦し、あまさずたいらげた。美味、言うことなし。まだまだ活力がある。餅も食べた、ナッツもジャーキーも試した。すべて問題なし。これで体力回復という昨年来の困難な仕事も順調に進むだろう。
 でも不安は次々と浮かんでは消える。次はいったいどこが弱ってくるのか、耳か目か。歯にしたって、まだかなりの本数が残る自前の歯を不精者の私が十分に手入れして維持できるとは思われない。だが、そのような不安の増幅とうまく付き合っていくのも、それはそれで人生の終末期の生きがいなのかも知れない。「まだまだ食べたいものがある」、このむき出しの欲望表現と不安との葛藤があり、生き続けたいという意志がなお内に秘められていると言うことは、私の人生まだ捨てたものではないということかもしれない。(2018.8.13)

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