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2018年10月17日、専修寺詣

 実に久しぶりに三重県津市に小さな旅に出た。浄土真宗高田派本山専修寺に詣でるのが目的だった。津市に出かけるのがなぜ「旅」なのか。体力の低下はいかんともしがたい。気を引き締めて出発しなければならない。だからこれは「旅」としか言いようがないのだ。8時過ぎに京都の家を出て、新幹線で名古屋に向かう。京都の駅もホームも修学旅行生であふれていた。名古屋駅のあの長すぎるコンコースをやっとの事で横切って近鉄名古屋駅にたどり着いた。
 そもなぜ専修寺に詣でたいのかを説明しておかなければならない。根無し草のような長い「流浪の旅」のなかで、寺とも仏壇とも先祖の位牌とも関係のない暮らしが続いた。私は長男として誕生したから先祖を祀る義務があったのだが、そんな義務や責任など無視して家を飛び出し、孤独でヤクザな学者稼業にはまり込んでしまった。それはあらゆる因習的関係から解放された完全な自由の世界に思われたから、私は最大限その自由を享受できるように日々努めた。その態度は今も変わらない。
 ところがである。年齢を重ねるごとに大病をすることが多くなった。自分の死の後始末をどうするかを考えねばならない年頃になって、学問するものは野垂れ死を覚悟せねばなどと呑気なことをいってばかりはいられなくなったのだ。これが今の私を悩ませている重要問題のひとつである。
 私の先祖たちは浄土真宗大谷派(東本願寺)の熱心な門徒であった。戦前の家には、それほど大きなものではなかったが立派な仏壇があり、毎日家族全員がその前で先祖に拝礼し、父が家長として読経した。私はいまでもその光景と父の読経を記憶している。あの立派な仏壇は空襲で焼失し、父がこしらえた仮の仏壇がそれに取って代わった。拝礼の時にいつも中心にいた祖母の死によってあの濃密で神秘的な雰囲気は消え去っていた。
 郷里の東本願寺別院の納骨堂の一隅を借り、そこに祖父母以来の遺骨が納められている。郷里と家族関係から自由になりたくてあのまちを飛び出してきた私には、あそこに納骨してもらう気はまったくない。どこかの海に秘かに葬ってもらうのが私にはふさわしいと考え、そのようになることを願っていた。しかし家族が私の遺言通りにやってくれなければ、これは到底実現しない。きっと面倒くさいと思うに違いない。
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 10数年前、高田派の僧侶でもある友人のK氏が私の寺で面倒見ても良いですよと、助け船を出してくれた。その時以来、一度本山の専修寺に詣でてみたいと考えていた。今回ようやく実現したのだ。死んでしまえば、葬られる場所など本人にとってはどうでもよいことなのだ。とりわけ無名の下々の者たちにとってはそうだろう。出自を想いそれに可能な限り忠実に生きてきたつもりの私は、無名の一人として土に帰りたいと切に願っている。しかし私の願い通りにはおそらくい置かないだろう。どこか墓に代わるものが欲しい
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と家族の誰かが言い出すかも知れない。そういうことをあれこれくだくだと思い巡らすと、この寺に葬られることは素晴らしいことだと考えたのだった。
 この寺には開祖親鸞の親筆が数多く残されている。宝物館を特別に開いて頂いて、国宝に指定されている親筆のコピーを拝見できた。親鸞は90歳まで生きた。鎌倉時代の90歳は今の私どもの年齢に換算すると幾歳になるのか、まったく想像もできない。書かれたのが彼の幾歳の時のものか、展示されている文書は手控えとし
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て書き留められたものなのか、わからない。しかし、『三帖和讃』については、親鸞は最晩年まで手を加えていたと言われるから、彼の最晩年の推敲の跡がうかがえるはずだ。師法然の教義と活動をまとめた『西方指南抄』も最晩年の手になるものであろう。微塵の震えもないのびやかな広がりの墨跡に心が動かされた。最大の感動の時間であった。
 妙な表現だが、このような包容力のある広がりのある文字を書ける人は信頼できる。その下に埋葬されることが実現するなら、私には過ぎたことではないかと思うようになった。(2018.11.19)
 
 

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