83歳を喜ぶー面白い時代を「学ぶ者」として生きて死にたいー

  先日83歳になった。その日を迎えるのが待ち遠しく、小躍りしたくなるほどに喜ばしい雰囲気に満たされてその日を迎えた。世に言う還暦でも古希でも米寿などでもない、何か特別に節目のある年齢になったと言うことでもない、ただこの日が不思議と待ち遠しかっただけなのだ。昨年からの体調不良も影響していたかも知れない、極端な気候変動は病み上がりの私の体力にはとにかくこたえた。
 80歳を過ぎてから少しずつ死生観が変わりつつあるような気がする。以前のように長命を期待できる肉体的条件はもはやない。視力は日毎に低下しているし、聴力も徐々に低下している。願いとしてはあと10年も15年も生きたい。やりたいことはまだ一杯ある、美味を追求する欲望はまだ盛んだし、美しい人を見れば心ときめく。そう言うと周囲の人は嗤う。私自身はというと、体調のよい日が続くとそのように願い、そうでなければやはりあと1年かなと気持ちが萎える。その繰り返しだ。
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 人は会うと体調はいかがですかと訊ねる。「こんなもんでしょう」と私は答える。数え切れないほどの医師の診察、投薬、リハビリ、そして散歩、それでもこの年齢になれば、目立って改善されたという状況は起こらないだろう。悪くならないように手を打つ以外に生きようがない。先日も転ばぬ先のなんとかで、杖ならぬ手すりを玄関と勝手口に設置した。古い家の上がりがまちは高すぎて、いつもひっくり返るのではという不安に襲われる。その不安だけは取り付けで消え失せた。
 なぜ長生にこだわるのか。ただ無為に生きようというのではない。やりたいことは限られている。残されている可能性のうちで私が最後までこだわり続けたいのは、「学ぶ者」として生き続けることだ。今のこの面白い時代の結末を経験し考え表現してから死にたいのだ(続く)。

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このページは、kitanihitoが2019年3月19日 14:23に書いたブログ記事です。

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