2019年11月アーカイブ

   外出する機会がめっきり減った。長時間固い椅子に座るのが難儀なので、集会参加も映画もコンサートもほとんど出かけない。目の不調で博物館や美術館もお出かけなし。病院通いが日常になり、通い慣れるとそれが結構楽しいものになるのだから、実に妙な話。月に3回ほど、七条御前の京都南病院、南病院から独立して近くに開業された前田先生のところで診察を受ける。この病院外出のことを、私はいくらか自嘲的に七条「村」行きとひそかに称していた。
 京都駅まで地下鉄、そこから市営バスで七条通を西に移動し、御前通で下車する。くたびれている日や雨の日は少々奮発してタクシーを利用することもある。京都駅から烏丸通を下がって七条通を西に折れる。このあたりは浄土真宗諸派の寺内町だ。東本願寺の大伽藍が見える。堀川通と交差するあたりで興正寺、西本願寺の大伽藍、龍谷大学大宮学舎、平安中学・高校校舎が見える。それを過ぎると七条通りの風景は、とりわけJR山陰線をくぐったあたりから寂しくなり、シャッターを下ろしている店が多くなる。私はいつもその雰囲気の違いを感じながら、七条御前通で下車する。「村」に到着だ。

 京都南病院に通い始めた頃には、まだこのあたりには畑が残っていたし、大阪ガスの円形ガスタンクもよく見えたものだった。村の都市化が進んだことは確からしかった。
 古い地図を見ると、豊臣秀吉が築いて京都の内と外を分けた御土居を境にしてこのあたりは村の地域であった。西七条村という。現在の梅小路公園あたりは梅小路村、そのほかに西院村の名も見える。
 私の住んでいるあたりも昔は上総村という村だった。いまでも気をつけて観察すると田んぼや農道の跡がよくわかる。それなのに本来の平安京にも中近世の京の市街地にも含まれていなかった地域なのに洛中に囲い込まれた。「洛中」とはいいながら、広大な農地が北に広がっていたのだ。これに対して西七条村はというと、古代平安京ではこのあたりは右京に入り、都の重要な地域であった。それなのに、洛中に加えられなかったのはなぜだろう。
 御土居とい城壁をつくるのに必要な資金と労働力はどのように調達されたのだろうか。現在の下京区には浄土真宗諸派、仏光寺、東本願寺、興正寺、西本願寺の大伽藍が集中する。仏光寺、西本願寺(正確には本願寺)は秀吉が招き入れたとされる。その当時はおそらく御土居の西側から東側までこの寺の寺内町だったと推定される。特に本願寺は石山本願寺以来築城に長けけていた。関西の各所に寺を中心に門徒が集結した寺内町が存在する。堀を巡らし外敵に対処しようとした本願寺の技術と財力を秀吉は利用したのではないだろうか。
 そんなことを考え想像しながら七条通りと「西七条村」を散策するのは、国宝や重要文化財の建造物をたずね歩くのとは違った意味で面白さがある。よく観察すると歴史の遺産を見つけられないわけではない。しかし社会科学者と自称するものとしては、増え続けるシャッターの下ろされた店、売り家の看板が掲げられた建物、更地になって久しく草の生い茂った空地を見ていると、古代の中心地が中世の豊かな農村が無秩序に都市化され、それが急速に衰退していく歴史的激動の過程を観察し少しでも書き残したい気持ちに駆られる。
 ここも京都なのだ。千年の都と称する京都の歴史の今の重要な一部なのだ。この衰退の現実を直視しないで、観光業の盛況を喧伝してそれがこのまちの繁栄だと勘違いしている人たちにたずねたいものだ。この衰退の姿は何なのかと。          ,
 これまで西陣の衰退していく様を書きブログに載せてきた。時々千本通を北から南に下って観察散歩をやってきた。丸太町通までは歩いたろうか。よく考えてみると、もう少し南に下ると七条通に到達するではないか。数年前までやっていた散策を再開してみたくなった。

  最後に、村内散策路に組み込まれている私のお気に入りを紹介しておこう。病院の帰りにはいつも御前通東行きのバス停近くの喫茶店に立寄る。ここで検査結果や体調をマスターにぼやきまくり、病院の気分を解消する。月に二度程度は中央卸売市場西隣の寿司市場で握りを少々。胃袋が小さくなったので栄養不足になりがちな私には寿司は最適の昼食だ。関西に住んでもう半世紀にもなるというのに、注文するのはあいもかわらず北国のねたばかり。天気がよければ、西本願寺や東寺に足をのばすこともある。信心を毛嫌いしていた自称唯物論者も変われば変わるものだ。(2019.10.28)

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