吉本隆明とはいかなる思想家か

 私は生まれつき「食わず嫌い」のたちである。色、形、臭い等で到底美味とは思われないと判定したものには手を出さないのだ。この性質は理論や評論の担い手を判断する場合にも発揮されてきた。読んでみたいという食欲がわかない筆者にはつきあうことがないのだ。吉本隆明などもそのひとりである。読むことはないだろうと思っていた。
 『日本経済新聞』2011年8月5日付文化欄に、「3・15からの眼差し」というシリーズの3回目で、吉本隆明との対話が取り上げられている。その見出しに驚かされた。「科学に後戻りはない」「原発 完璧な安全装置を」という、この見出しに引き寄せられて、生まれて初めて吉本隆明を読んでみた。
 原発廃絶論に対してやめるという選択はきっぱりと否定する。論拠は次のようなものだ。科学の産業利用がここまで発達してしまった以上、もはや後戻りは出来ないというのだ。「燃料としては桁違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えると大変な危険を伴う。しかし、発展してしまった科学を,後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです。」
 科学研究とその技術的応用が一体化する傾向が強まり、産官学協同が当然の態度として大方の研究者の容認されている。そのことがが研究者の批判的態度や社会的責任の態度を弱め、原発のような悪魔的技術をはじめ地球を破壊し生きとし生けるものを滅亡の危機にさらす文明の支配を無制約に拡大しているように見える。エネルギー需要の拡大に対応すべく、原発は地球全体に拡散し、「福島」が示した危機の再発、しかも拡大された規模で実現する可能性は強まっている。中国の高速鉄道事故が示したように、原発を保有するために不可欠の社会的条件が欠落した国々への移転の速さに戦慄するのは私だけではあるまい。
 はたしてこの過程は吉本の主張するように後戻りの出来ないものなのか。後戻りしなければ、それは確実に破局への道を加速度的に転げ落ちるだけである。その過程に警告を発し、それを押しとどめ、新たな文明の可能性を模索している良心的研究者や思想家が多くいることは、吉本には眼に入らないようだ。後戻りしたら、それは人類をやめるに等しいと彼はいう。しかしいくらかでも良心のある研究者や思想家なら、後戻りしなければ人類は存亡の危機に直面すると危惧するだろう。
 彼にとって対策はどのようなものか。「危険な場所まで科学を発達させたことを人類の知恵が生み出した原罪と考えて、科学者と現場スタッフの知恵を集め、お金をかけて完璧な防御装置をつくる以外に方法はない。」資本主義企業の枠内で科学者が自発的に完璧な安全装置をつくったためしがない。公害問題でも明らかなように市民の犠牲と抗議があってはじめて取り組みが始められるのが通例であった。しかもである。「完璧な」な装置などまだつくられてもいないのだ。「完璧」への道が進むとしても、その過程でなお多くの生け贄を差し出すことが求められるだろう。原発の地球全体への拡大によって差し出される生け贄はさらに増え続けるに違いない。
 そのような可能性に目をつぶる吉本隆明とはいかなる思想家なのだろう。(2011.8.19) 


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