郭四志『中国エネルギー事情』(岩波新書1289、2011年1月)  ー行間に見え隠れする危機の予兆ー

  中国が日本を抜いてGDP世界第3位に躍り出
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大々的に報じられた。中国では大国意識を喧伝する好
機とばかりにこの事実をかぢ過大に評価し、日本では追い抜かれたことへの焦燥感がにじみ出た記事が続いた。
 よく考えてみると、それ自体はうろたえることでも何でもない。何しろ日本の10倍もの人口を有する国なのだから。真剣に考えなければならないのはそういうことではない。仮にこの国のGDPが日本の2倍になったとしよう。資源消費は、原料、食料、水のいずれをとっても2倍、地球環境に対する負荷も2倍、いや2倍をはるかに超えることになる。日本と同じ生活水準を実現したとしよう。日本という国が10も出来た勘定になる。現在の日本の10倍もの資源を消費し、10倍もの廃棄物を排出する国が誕生することになる。おそらくそれではすまないだろう。現在の日本が実現している効率性の水準に達しているとは限らないからである。これは限られた地球にはもはや耐えられない。私がヨーロッパの友人たちとファクター10キャンペーンを展開しているのもそのためである。すでに高い生活水準を実現している国で資源利用効率を最低でも10倍にしない限り、地球は耐えられないことは目に見えている。
 本書を読んでみると、エネルギー問題は中国資本主義の差し迫った危機の最重要の側面であることが、淡々と紹介される事実の間から見て取れる。国内石油資源はすでに寿命が尽きかけ、石炭になお大きく依存せざるを得ない中国の第一次エネルギーの構成、内陸部と沿海部の地域的構造に示される格差もさることながら、インフラの整備の遅れも深刻である。
 新疆ウィグル自治区、内モンゴル自治区の騒乱もエネルギー問題が背景にあるようだし、中国の最近の資源外交の強引さ、海底資源をめぐる各国との対立も理解出来るというものだ。ミャンマー軍事政権支援もマラッカ海峡を経由せずに石油を安定的に輸送できるパイプライン建設と関連していることも本書を読んではじめて知った。
 このような状況をふまえると,中国が原子力発電に頼らざるを得なくなるのは当然ともいえよう。この国は原子力発電を駆使できる制度と十分な人材を持っている国だろうか。本書を読む限り,否定的な結論に至らざるを得ない。国産化技術の遅れに加えて人材不足が気がかりである。
 かってこの国と同じ体制下にあったロシアでのチェルノヴィリ原発事故が残した教訓は何かを考えてみたらよい。地方官僚組織によるモスクワに対する情報隠蔽と情報伝達の遅れによって事態は深刻化した。福島第二原発の場合も情報開示の制度の欠陥が事態を深刻化させた子とは明らかだ。リスク管理制度の未成熟が露呈された。中国でははたしてそれらの失敗の歴史を十分い学んでいるようには思われない。メディアが報じるところでは、渤海湾の海底油田採掘現場からの油流出事故があった事実が1ケ月隠蔽され、沿岸への漂着の事実を突きつけられてようやく公表に踏み切ったという。原子力発電を推進するというのなら、最低限徹底した民主主義体制の実現と情報開示がその不可欠の前提となるだろう。
 『日本経済新聞』6月23日付の7面に、「中国5
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力燃料高が重荷」という見出しで8段抜きの記事が載っている。それによると1913年には中国の電力不足は原発70基分に相当する水準になるだろうと報道する。この深刻な不均衡が原発へのさらなる依存に進むなら、いったいどのようなリスクが孕まれることになるのか。
 原子力発電という悪魔的技術を解き放ったことは,地球と人類にとって取り返しのつかない災厄である。しかし今ならまだ引き返せる。原発なしでもやっていけるモデルを提示すること以外に解決はあり得ない。原発事故によって深刻な汚染を引き起こしているのにそれでもなお原発必要論に振り回されているのでは、いずれ我々の上に降ってくるかもしれない放射能に対して抗議する権利はない。
 いくつか気になる点を上げておく。「持続可能な経済成長」という表現が散見される。この著者は「経済成長の持続」という意味で使っているのだが、「持続可能性」は本来地球の持続可能性に関わって論じられた概念である。その意義を安直に転用することには同意できない。日本語として十分にこなれていない文章表現が多いのが気になる。編集者がもう少しアドヴァイスしたらよかったのではないか。(2011.7.10)

 中国が日本を抜いてGDP世界第3位に躍り出たと大々的に報じられた。中国では大国意識を喧伝する好機とばかりにこの事実をかぢ過大に評価し、日本では追い抜かれたことへの焦燥感がにじみ出た記事が続いた。
 よく考えてみると、それ自体はうろたえることでも何でもない。何しろ日本の10倍もの人口を有する国なのだから。真剣に考えなければならないのはそういうことではない。仮にこの国のGDPが日本の2倍になったとしよう。資源消費は、原料、食料、水のいずれをとっても2倍、地球環境に対する負荷も2倍、いや2倍をはるかに超えることになる。日本と同じ生活水準を実現したとしよう。日本という国が10も出来た勘定になる。現在の日本の10倍もの資源を消費し、10倍もの廃棄物を排出する国が誕生することになる。おそらくそれではすまないだろう。現在の日本が実現している効率性の水準に達しているとは限らないからである。これは限られた地球にはもはや耐えられない。私がヨーロッパの友人たちとファクター10キャンペーンを展開しているのもそのためである。すでに高い生活水準を実現している国で資源利用効率を最低でも10倍にしない限り、地球は耐えられないことは目に見えている。
 本書を読んでみると、エネルギー問題は中国資本主義の差し迫った危機の最重要の側面であることが、淡々と紹介される事実の間から見て取れる。国内石油資源はすでに寿命が尽きかけ、石炭になお大きく依存せざるを得ない中国の第一次エネルギーの構成、内陸部と沿海部の地域的構造に示される格差もさることながら、インフラの整備の遅れも深刻である。
 新疆ウィグル自治区、内モンゴル自治区の騒乱もエネルギー問題が背景にあるようだし、中国の最近の資源外交の強引さ、海底資源をめぐる各国との対立も理解出来るというものだ。ミャンマー軍事政権支援もマラッカ海峡を経由せずに石油を安定的に輸送できるパイプライン建設と関連していることも本書を読んではじめて知った。
 このような状況をふまえると,中国が原子力発電に頼らざるを得なくなるのは当然ともいえよう。この国は原子力発電を駆使できる制度と十分な人材を持っている国だろうか。本書を読む限り,否定的な結論に至らざるを得ない。国産化技術の遅れに加えて人材不足が気がかりである。
 かってこの国と同じ体制下にあったロシアでのチェルノヴィリ原発事故が残した教訓は何かを考えてみたらよい。地方官僚組織によるモスクワに対する情報隠蔽と情報伝達の遅れによって事態は深刻化した。福島第二原発の場合も情報開示の制度の欠陥が事態を深刻化させた子とは明らかだ。リスク管理制度の未成熟が露呈された。中国でははたしてそれらの失敗の歴史を十分い学んでいるようには思われない。メディアが報じるところでは、渤海湾の海底油田採掘現場からの油流出事故があった事実が1ケ月隠蔽され、沿岸への漂着の事実を突きつけられてようやく公表に踏み切ったという。原子力発電を推進するというのなら、最低限徹底した民主主義体制の実現と情報開示がその不可欠の前提となるだろう。
 『日本経済新聞』6月23日付の7面に、「中国5大電力燃料高が重荷」という見出しで8段抜きの記事が載っている。それによると1913年には中国の電力不足は原発70基分に相当する水準になるだろうと報道する。この深刻な不均衡が原発へのさらなる依存に進むなら、いったいどのようなリスクが孕まれることになるのか。
 原子力発電という悪魔的技術を解き放ったことは,地球と人類にとって取り返しのつかない災厄である。しかし今ならまだ引き返せる。原発なしでもやっていけるモデルを提示すること以外に解決はあり得ない。原発事故によって深刻な汚染を引き起こしているのにそれでもなお原発必要論に振り回されているのでは、いずれ我々の上に降ってくるかもしれない放射能に対して抗議する権利はない。
 いくつか気になる点を上げておく。「持続可能な経済成長」という表現が散見される。この著者は「経済成長の持続」という意味で使っているのだが、「持続可能性」は本来地球の持続可能性に関わって論じられた概念である。その意義を安直に転用することには同意できない。日本語として十分にこなれていない文章表現が多いのが気になる。編集者がもう少しアドヴァイスしたらよかったのではないか。(2011.7.10)

 中国が日本を抜いてGDP世界第3位に躍り出たと大々的に報じられた。中国では大国意識を喧伝する好機とばかりにこの事実をかぢ過大に評価し、日本では追い抜かれたことへの焦燥感がにじみ出た記事が続いた。
 よく考えてみると、それ自体はうろたえることでも何でもない。何しろ日本の10倍もの人口を有する国なのだから。真剣に考えなければならないのはそういうことではない。仮にこの国のGDPが日本の2倍になったとしよう。資源消費は、原料、食料、水のいずれをとっても2倍、地球環境に対する負荷も2倍、いや2倍をはるかに超えることになる。日本と同じ生活水準を実現したとしよう。日本という国が10も出来た勘定になる。現在の日本の10倍もの資源を消費し、10倍もの廃棄物を排出する国が誕生することになる。おそらくそれではすまないだろう。現在の日本が実現している効率性の水準に達しているとは限らないからである。これは限られた地球にはもはや耐えられない。私がヨーロッパの友人たちとファクター10キャンペーンを展開しているのもそのためである。すでに高い生活水準を実現している国で資源利用効率を最低でも10倍にしない限り、地球は耐えられないことは目に見えている。
 本書を読んでみると、エネルギー問題は中国資本主義の差し迫った危機の最重要の側面であることが、淡々と紹介される事実の間から見て取れる。国内石油資源はすでに寿命が尽きかけ、石炭になお大きく依存せざるを得ない中国の第一次エネルギーの構成、内陸部と沿海部の地域的構造に示される格差もさることながら、インフラの整備の遅れも深刻である。
 新疆ウィグル自治区、内モンゴル自治区の騒乱もエネルギー問題が背景にあるようだし、中国の最近の資源外交の強引さ、海底資源をめぐる各国との対立も理解出来るというものだ。ミャンマー軍事政権支援もマラッカ海峡を経由せずに石油を安定的に輸送できるパイプライン建設と関連していることも本書を読んではじめて知った。
 このような状況をふまえると,中国が原子力発電に頼らざるを得なくなるのは当然ともいえよう。この国は原子力発電を駆使できる制度と十分な人材を持っている国だろうか。本書を読む限り,否定的な結論に至らざるを得ない。国産化技術の遅れに加えて人材不足が気がかりである。
 かってこの国と同じ体制下にあったロシアでのチェルノヴィリ原発事故が残した教訓は何かを考えてみたらよい。地方官僚組織によるモスクワに対する情報隠蔽と情報伝達の遅れによって事態は深刻化した。福島第二原発の場合も情報開示の制度の欠陥が事態を深刻化させた子とは明らかだ。リスク管理制度の未成熟が露呈された。中国でははたしてそれらの失敗の歴史を十分い学んでいるようには思われない。メディアが報じるところでは、渤海湾の海底油田採掘現場からの油流出事故があった事実が1ケ月隠蔽され、沿岸への漂着の事実を突きつけられてようやく公表に踏み切ったという。原子力発電を推進するというのなら、最低限徹底した民主主義体制の実現と情報開示がその不可欠の前提となるだろう。
 『日本経済新聞』6月23日付の7面に、「中国5大電力燃料高が重荷」という見出しで8段抜きの記事が載っている。それによると1913年には中国の電力不足は原発70基分に相当する水準になるだろうと報道する。この深刻な不均衡が原発へのさらなる依存に進むなら、いったいどのようなリスクが孕まれることになるのか。
 原子力発電という悪魔的技術を解き放ったことは,地球と人類にとって取り返しのつかない災厄である。しかし今ならまだ引き返せる。原発なしでもやっていけるモデルを提示すること以外に解決はあり得ない。原発事故によって深刻な汚染を引き起こしているのにそれでもなお原発必要論に振り回されているのでは、いずれ我々の上に降ってくるかもしれない放射能に対して抗議する権利はない。
 いくつか気になる点を上げておく。「持続可能な経済成長」という表現が散見される。この著者は「経済成長の持続」という意味で使っているのだが、「持続可能性」は本来地球の持続可能性に関わって論じられた概念である。その意義を安直に転用することには同意できない。日本語として十分にこなれていない文章表現が多いのが気になる。編集者がもう少しアドヴァイスしたらよかったのではないか。(2011.7.10)

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