栗原俊雄『勲章ー知られざる素顔ー』(岩波新書1306、2011年4月)ー永井荷風はなぜ文化勲章をもらったのかー

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  秋は勲章の季節である。文化勲章を初めして、叙勲者の長大なリストが新聞に掲載され、叙勲者への取材の記事が多くなる。おそらくはホテルや料亭はこの時期には叙勲祝賀会で賑わっていることであろう。この制度はその意味では景気刺激政策の一つではある。うるおう業種がたくさんある。景気が悪いのだからもっと勲章を乱発したよいとも言いたくなる昨今の経済情勢ではある。叙勲にまつわる噂も聞かれる。
 紫綬褒章や藍綬褒章も勲章に含まれるのかどうかは知らないが、この制度が日本の社会制度にある意味で悪い影響を及ぼしているのではないかとも考えられる。老害というやつである。勲章制度は国家の根幹を支える人脈とイデオロギーを強固にする。日本の場合には天皇制を頂点に社会の上層部を序列化し、国民一般と差別化する。叙勲される人は基本的に高齢者である。勲章を頂くために歳を重ねて待つのである。社会のあらゆる分野で高齢者がその地位に固執し居座る「老害」を促進しているのではないか。
 私は勲章制度には反対である。人間本来の値打ちにその仕事に上下はない。福沢諭吉が言うように、人間それぞれが役に立つ仕事をしているのだから、政府が褒めるというのなら、まず「隣の豆腐屋」から褒めても等はなければならないのである。
 本書を読んだのは、勲章制度に特に関心があったからではない。書店の棚にたまたま見つけて買ってしまったからである。知識を得られたが、残念ながら著者の批判的態度が直截に示されておらず、不満が残った。国際比較の視点がない。私には現時の叙勲の状況を見ると、旧社会主義体制の勲章制度を連想するのだが。
 ただ読んで考えさせられたことがたくさんある。なかでも金鶏勲章について、叙勲辞退者の問題については著者の論理を超えて妄想した。
 「金鶏勲章」(きんしくんしょう)といっても、そのことにこだわるのは前の戦争を体験した人たちだけであろう。「少国民」として生きた私の少年時代には、お国のために兵士となり、戦功を立てて金鶏勲章を授与されることが将来の目標とされた。真剣にそのように考えていたのである。教育による強制の恐ろしさを思い知らされる。まだ国民学校(現在の小学校)4年生だったのだから。
 この勲章にも等級があることを本書を読んではじめて知った。戦功をいったい誰が正確に評価できようか、軍人の階級制は関係がなかったのだろうか、疑問が生じた。たとえば戦争末期の「玉砕」(全員戦死)の場合、全員が金鶏勲章を授与されたのだろうか。敗戦によってこの制度は占領軍の命令で廃止された。戦争末期の激戦の戦功は評価されずじまいだったのだろうか。それとも指揮した将官たちは別格として授与されたのだろうか。一番の激戦が続いた戦争末期の兵士たちにとっては不公平きわまりない。金鶏勲章に惹かれて戦死した「英霊」たちはうかばれまい。
 三国一朗は名著『戦中用語集』(岩波新書310、1985年8月)の「金鶏勲章」の項で、芥川龍之介の『侏儒の言葉』から「小児」を引用し、間接的にこの制度を皮肉っている。本書でも取り上げられているが、引用しておこう。
 「軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云う必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校にのみ見得る現象である。殺戮を何とも思わぬなどは一層小児と選ぶところはない。殊に小児と似てゐるのは喇叭や軍歌に鼓舞されれば、何の為に戦ふかも問はず、欣然と敵に当ることである。
 この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなった者ではない。勲章も−わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔はずに、勲章を下げて歩かれるのであらう?」
  この文章は戦前の岩波文庫では検閲によるものか、全文削除されたという。芥川の軍人嫌いは徹底していた。しかし子どもの遊びに似ているというのは当時子どもであったわたしには不当な表現であると思う。子どもが遊びで軍人をまねたのである。教育によって強制されたのである。勲章制度批判としては面白い。芥川が存命であれば、はたして文化勲章を受けたであろうか。
 永井荷風はなぜ文化勲章を受章したのだろうか。本書でもそのことが取り上げられている。荷風はその作風や放恣な生活態度から文化勲章受章など考えられない
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ような作家であった。しかも恩師森鴎外の遺言も十分に承知していた筈であった。その彼が何のこだわりもなく受賞し、マスメディアに喜びを語ったのだから、理解不能な姿ではあった。およそあり得ない受賞の風景に皮肉の精神を読み取ることもできるかと想像したが、彼の日記『断腸亭日乗』を読むと、どうも違うようだ。
 受賞に至る過程についての記述がほとんど見当たらないのだ。1952年10月21日の日記に、毎日新聞記者から受賞の知らせを聞いているが、それ以前に非公式の交渉があった筈で、それがまったく記録されていない。栗原によると、文部省はリストには入れていなかったという。選考委員の久保田万太郎が強く推薦し。受賞に至ったという。当然久保田から事前の根回しがあったと思うのだが、そのことは日記にはまったく記されていないのである。久保田は慶應義塾で荷風の教えをうけ、荷風を崇拝した人物であった。彼自身も後に文化勲章を受章している。
 久保田は説得に苦労したに違いない。想像するに、渋々であれとにかく承諾にいたった理由は、文化功労者年金だったのではないか。
 究極の自由は経済的自立によって可能になる。荷風が自由人として悠々と生きられたのは、親の残した遺産に寄生できたおかげだった。遊里に遊び、美食に耽るに十分なものであったようだ。しかしその資産も世界恐慌と戦争によってほとんど消えてなくなったと思う。1930年12月31日のにっきには、不景気ので収入は半減したと記している。保有する株の配当が激減したのためである。1945年3月の東京空襲で彼の住まい偏奇館が焼失し生活の拠点を失った。戦後インフレ、それに対応すべく実施された1946年2月の通貨改革と預金封鎖が彼の資産をさらに細らせたと思うのだが、そのことについては日記に明確に記してはしない。しかし生活が印税収入と出版社の好意で維持されていることがうかがえる。久保田万太郎は生活不安の解消を切り札に説得したのでhないだろうか。1952年11月3日、4日の日記には勲章授与行事と授与された勲記とならんで文化功労者年金証書が詳しく書き込まれている。同年12月31日の日記につぎのように書かれている。「文化功労者年金五十万円下渡しはその後何らの通知もなし。如何なりしや笑ふべきなり。」荷風は何がおかしかったのだろうか。官僚たちの仕事ぶりを笑ったのだろうか、それとも70歳代も半ばとなり生活不安の解消に期待して節を曲げた自分自身に対する嘲笑だったのだろうか。
 かっては自由と平等を標榜した人々が勲章を受けることに不快感を覚えるのはわたしだけではあるまい。しかし考えてみると、荷風の例に見られるようにそこに至るそれぞれの生の葛藤があった結果であろう。言い訳がましい表明でもよい、過程を示してほしいものだ。栗原の書物はその一端を示してくれて面白い。(2011.12.4)

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